『忍法怪奇幻想譚』

 

 

 怪奇幻想というのは非常に分かり易い快楽趣味である。危ないとか、きわどいとか、グロいとか、そういう趣向に乗っかった便利な快楽だ。アブない快楽を愛好する私、というナルシズムに簡単に浸れることもできる。私たち怪奇趣味者は楽な快楽に乗っかっているという自覚がなくてはいけない。では、なぜ名作といわれる怪奇幻想譚は何十年経っても読まれるのか。単に楽な快楽なだけなら直ぐ消費され尽くされ、消える。たとえば山田風太郎はどうだ。なぜ、あんなに再販を繰り返し売れるのか。現在『忍法帖』シリーズが河出文庫と角川文庫で復刊し新たなファンを増やしている。

 2201年6月、風太忍法帖の第五作目『忍者月影抄』が河出文庫から復刊された。かつて女遊びに耽っていた将軍吉宗は現在、奢侈を禁じている。この欺瞞を嘲笑する為、尾張藩主宗春が吉宗の元愛妾を天下に晒すよう尾張柳生と甲賀忍者に命じる。吉宗は対抗策として江戸柳生と伊賀忍者に秘命を下す。

 山田風太郎も危ないとか、きわどいとかグロいとかの文脈で語られ易い作家である。アブない作品を愛好する私に酔える上に説明もラクチンだからだろう。怠惰だ。慢心である。逆に問いたい。それだけの理由で歴史に残るものなのか。

 山田風太郎の第一の魅力として美文があげられる。筆圧が強く説得力がある。華麗で読者を魅了する力に溢れている。

 次の山田風太郎の大きな魅力として時代劇、伝奇小説のフォーマットを巧みに扱う点が挙げられる。時代の隙間にある空白を想像力、絵空事で埋めるのが時代劇、伝奇小説の醍醐味。山田風太郎はこれが桁外れにうまい。時代考証は当たり前のように正確にこなす。恐ろしいのは時代研究が進むほど、空白に埋め込んだ絵空事が説得力と強度を増す点だ。普通は逆だ。

 奇想もズバ抜けている。『忍者月影抄』もお馴染みの奇想バトルは途中から読者の想像をこえてくる。

 これだけの要素があるから現在、山田風太郎作品を読んでも唸るしかないのである。

 他に山田風太郎の作家性である「諦観の念」が作品に色濃く反映されている点が挙げられるが、それは今回論じない。明白すぎるからだ。

 わたしは山田風太郎の大ファンだ。作品の魅力もさることながら、読み返す毎に山田翁から「楽な快楽に乗っかるな」と叱られるからである。

 

 

 

 

 

『神話の舵を取れ』

 

  アラン・ムーア作、ジェイセン・バロウズ画の『ネオノミコン』(国書刊行会)は優れたクトゥルー神話の一部だ。同時に近年、ラヴクラフト作品への批判高まる潮流に乗った優れたラヴクラフト批判の書でもある。

 断っておかなければいけないのは、ムーアが熱烈なクトゥルーファンであること。ムーア原作の『ウォッチメン』の映画版では変更がなされているけれど、原作では人類全体の敵になるのは疑似的なクトゥルーの邪心だ。そしてムーアはクトゥルー神話と同じくらい魔術に精通している。

『ネオノミコン』を読んで目につくのは全編に渡ってパラノイアックに散りばめられた数えきれないクトゥルー関連のキーワード。ラグクラフトの諸作品を解体、再構築し、舞台を現代に移して、不可解な連続殺人事件を追跡する連邦捜査官達の物語として一つのクトゥルー神話を仕上げるラヴクラフトへの愛。

 そしてやはり全編に散りばめられたどうしようもなく男性優位社会的で、人種差別的で、貧困層への差別。決定的なのはこのコミックの主人公が女性であること。ラヴクラフトは書かなかった。女性が主人公の作品を。そしてもう一つ。膨大な数の書物に目を通していたラヴクラフトが知らないはずがない。「サバトにはセックスが必ず付随するもの」。だがラヴクラフトはセックスを完全に無視した。

『ネオノミコン』はラヴクラフト作品への限りない愛を表明しながらも、上記した作品に対する批判を物語内で行っている。自らがしつこいくらいにラヴクラフトがしなかった(できなかった)描写を実践することで、ラヴクラフトに対して「アンタこれアカンでしょ」と暗に批判している。

『ネオノミコン』は構造としてラヴクラフト諸作品の歪んだ縮小図を作品内部に埋め込んである。縮小図がねじれることで全体を俯瞰した時、作品全体がさらに巨大な歪みを持つことに読者は気付く。それもクトゥルー神話特有の歪み。だから読者は読み終えたあと、忌まわしい人間社会から離れ、アウトサイダーになることでのみ得られる解放感を味わう。

 優れた作品は対立構造を持つ。『ネオノミコン』はラヴクラフトの諸作品と対になることで、極めて高レベルのクトゥルー作品となる。

近年、ラヴクラフト作品に対する批判を含みつつ、彼への愛を表明する作品が続々と刊行されている。ラヴァルの中編『ブラック・トムのバラード』。ジョンスンの『猫の街から世界を夢見る』。ダトロウ編の『ラヴクラフトの怪物たち』。

『ネオノミコン』は続編が予定されている。一巻で判明しない不可解な描写もある。まだ序章に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

ヴァルキリードライヴプロジェクト

ヴァルキリードライヴコラボカフェ
神戸アニメストリートSIDE28のヴァルキリードライヴコラボカフェに行った。十二月三日の木曜日。つまりコラボ開始の当日に。
仕事の都合がついたからたまたまなのだがついている。
というか、ぼくは全く知らなかったのだが、この時期は神戸アニストのシンボルマークである目ん玉が村上隆氏に盗作疑惑をかけられていた真っ最中だったらしい。
余計なひとを呼び込むとややこしいのでその辺の意見については割愛する。が立場としては神戸アニストに与する。

結構飲んで食って(飲むがメイン。食うのはきつい)面白かったですね。
開催日当日の昼頃に行ったんで客足はどうかなと思っていたんですけど、見事にぼくとおたくの兄ちゃんしかいなかった。
しかもこのおたくの兄ちゃんは店員とも妙に親しく、帰った後にツイッター検索するとこの店の常連らしい。
顔は覚えていないが、妙に印象に残る男であった。

ちなみに神戸アニメストリートSIDE28のヴァルキリードライヴコラボカフェはこんな感じ。

外装!等身大パネル


店内内装! 大型プロジェクターでVDMの映像がエンドレスで流れており、壁には設定資料集がパネルしてある。

テーブル席には各キャラをプリントしたシールが貼ってある。尊敬している女、シャルロット・シャルゼン様の席へ。
頼んだのは敬愛して止まない女、時雨霞のジュース!

ヴァルキリードライヴセイレーン
をはじめた。こつこつレベル上げしております。

ヴァルキリードライヴ
アニメ最終回とか本当マジ無理だから。嘘でもそういう冗談はやめてほしい。耐えられない。

うつろな日曜
『Bobby Gillespie Presents Sunday Mornin' Comin' Down』を買った。プライマル・スクリームのフロントマン、ボビー・ギレスピーが影響を受けた曲を自らセレクト。60年代、70年代をメインに据えたロックのコンピレーションアルバム。
美しい曲ばかりなのは当然だけど、なんか尖ってるなあ……特に当時の音楽業界がそういう曲ばっかりだった訳じゃなくて、むしろ尖っているぶん、こういうのは日本においては売れ行きの面からスルーされてきたはず。そういうサイケデリック革命に影響を受けた、当時尖ってたひとのものばかり集めたんだろうけど。生々しい曲が多い。
本当にとがっているんですわ。もし、イギリスにサイケデリック革命というものが存在していて、本気で音楽で世界を変えられると信じていた連中が居たとしたら、その尖り具合をうまく取り入れてかつ、聴かせるアルバムに仕上げた『ストーン・ローゼズ』の1stの登場はさぞかしショックだっただろうなという。それくらい当時の空気がもやもやしているアルバムです。
聴いてテンションが上がるとか、作業の進捗が進むとか、そういうのではなくて、むしろ逆にダウナーな気分になる。しかしこれはお勧めです。
みうらじゅんだったでしょうか。「ロックは恋人と車の中で聴くものではない」と言ったのは。
そういう爺臭いアルバムであります。
しかし単なる回顧趣味の代物ではなく、ロックやりてー! でもそもそもロックってなに? 何を指してロックっていうの? というどうでもいい疑問に頭と下半身をもんもんとさせながら地方の居酒屋でバイトをしつつバンド活動をしている絶滅危惧種のようなヤングメンは聴いたほうがいいと思いますよ。

自分の音楽を追いかけてパっとしない活動を続けていた60、70年代のコアなバンド連中は理想を夢見て、何回も頓挫した挙句、このような美しい曲を作り、そして消えていったのです。
このアルバムは、かつて各地に散らばっていた宝石をボビー・ギレスピーというロックを夢見たジャンキーの青年が拾い集めて棚に仕舞いこんでいたものを大人になったいま、再び集め、一枚のCDにプレスした作品です。いやー、ボビーのロックへの愛はただものではないなあ。

出来れば日本語盤の『ボビー・ギレスピーが好きな曲を選んだら、うつろな日曜の朝みたいになっちまった…』をお勧めします。内容は変わらない。
ただし、日本語のライナーノーツに曲一曲一曲にボビー・ギレスピーが解説とそのバンドの当時の状況、併せて、プライマル・スクリームがどのような状態の時にどの曲を聴いていたかの日本語訳解説があります。

鳥人化計画
『バードマン』理想的な映画というよりはどちらかというと「俺が観たかった映画」のジャンルに入るのではないかと思う。
語りどころはまあ、色々。しゃれて無駄のない台詞とか。音楽とか。恐らくCGで編集された長回しとか。
ああいうラストにならざる得なかったのは劇中劇で上映される演劇、カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』の脚本の改変具合からも明らかで、ストーリーももう、どんどんそっちの方に行っちゃうから開始三十分くらいで「ラストはこうだな」って分かっちゃうんだけど、観てしまわざるを得ない。傑作ですね。

ダレホ映画
マチェーテ・キルズ』前作『マチェーテ』でなんとも形容しようがない、暴力以外の熱気、「何か」を感じとってしまって以来、ぼくはこの作品が好きなんですが、その続編。馬鹿度アップ。殺戮度アップ。往時アメリカのB級冒険活劇映画の再生産なんですが。予算がどのくらいか知りませんけど、ロバート・ロドリゲスってギャラ以上の仕事を情熱でもってやっちゃう人ですよね。
タランティーノもそうだと思うんですよ。ぼくは実はタランティーノは別にハリウッドに認められるくらいすごい仕事をしているとは思っていないんですけど、タランティーノは毎回、明らかにギャラ以上の仕事を情熱だけでやってのけていて、その熱気量がドえらいんだと感じています。転機になった『パルプフィクション』だって当時落ち目だったトラボルタを引っ張ってきて、わざわざダンスさせるんですから、見上げたもんですよ。
そういう情熱が評価と作品とうまく繋がっている監督だと思います。
ロドリゲスも同じく。でもロドリゲスはメキシコでヒスパニックのひとで、この部分は絶対に譲らない。のでタランティーノみたいにハリウッドに特等席を貰える事はないと思います。
いってみればロドリゲスは映画への情熱に対してハリウッドから拒否されている監督です。ですがハリウッドが拒否すると言う事はロドリゲスの制作方法は間違っておらず、ちゃんと理解されているという事でしょう。
お前の映画は面白いし、客も入るから支援するけど、第三世界でヒスパニック系の俳優達をハリウッドブロックバスター映画ばりに活躍させるお前にアメリカ合衆国のシンボルの一つであるハリウッドは特等席を用意してやらないぞ、という。

二十一紀の『ブレードランナー
『わたしを離さないで』なんとも上品と言うかソツがない映画に仕上がっていると思います。テーマは毎回なんらかの映画で繰り返されているもの。
ただし今迄は『人間とそうではないがそっくりな存在は同じか?』という世界観に沿っているんですが、第二次世界大戦から一周し、再び『強者が生き残る為に弱者が切り離される世界』を時代が迎えているいま、そのような作品に仕上がっています。

物事には法則があって、その法則通りに生きていれば成功する。失敗するのには原因がある。そういった因果律を信じて生きているか。世界はそういう法則に乗っ取って動いては居ない、因果律など成立しないと信じて生きているか。とかそういう差が個人の思考にはあると思うんです。
『わたしを離さないで』は因果律を信じていない世界です。世界は偶然で動いている部分があるので運が悪ければ、最初から強者(因果律を信じて居られると言う事はその因果律が揺るがない世界に住んでいられると言う事です。特権階級と思って間違いないでしょう。あるいは因果律を信じていなくても自分を鈍化させることで自分の世界を脅かす存在に蓋をしている可能性があります。設計図通りにプラモデルを作れば箱に描いているようなプラモデルが必ず出来上がる、そういう約束事が人生の大前提と信じているひとです)の為に死ぬ環境下に生まれる事もある。でもなんとかならないだろうか。生まれた瞬間に自分より上位の存在の為に死ぬことが確定している人間が抵抗する。そういう映画だと思うんです。

二十一世紀の『ミュンヘン
アメリカンスナイパー』空爆を撮った映画。終盤近く、アメリカ軍の戦闘ヘリが建物にロケットランチャーをぶち込みます。その後に砂嵐が襲ってきて、砂嵐のなかを兵士が走って行くんですが、手振れがひどくて視点は兵士視点。表面だけなぞると冒頭にあった911の再現ともとれます。911は確かにショッキングでしたが、イラクでは日常的な風景なんだと示唆しているように思えます。はからずもアメリカはイラクに攻め込む事によって911を何度も再現してしまう羽目に陥る。
そしてそれを体験するのは兵士である。そりゃ兵士は病みますわ。九割くらいイラクの戦闘シーンなんですが、銃撃音や戦車や車のエンジン音が増幅されているために腹と頭にずっしり来ます。愉快な映画ではない。
内容からするとポール・ハギスの『告発のとき』を連想するんでしょうが、ぼくが観て連想したのはスピルバーグの『ミュンヘン』でした。

大監督がコメディタッチで青春映画を撮ったらこうなる
青春デンデケデケデケ』香川のド田舎でロックをやろう、というそれだけのお話。ただし大林監督なのでその辺の手腕は見事。時々、すごく前衛的な映像が入るんですよ。コアな。
それが嫌味にならずに物語をテンポよくロマンティックに見せているのでこの辺は鍛え方が違うんでしょう。
92年の日本の映画界はまだ元気だったんだなって感じですかね。笑えるし、情緒があるし、愛と死が背中合わせにあるし、観て損はないのでは。
ぼくは面白かったです。

漫画版から入りました
花とアリス殺人事件』
劇場アニメであるからには動かさねばならぬ、という強迫観念に憑りつかれたのか、バレエのシーンや走っているシーンが意味もなく強調されている映画。会話はリリカルでユーモア。リアクションも同様です。褒めてるんだか貶してるんだかよく分かりませんが、ぼくにとってはそういうフラットな作品です。
道満晴明版のコミックがあるんですが、アニメ版と相互に補完しあっています。
道満版のコミックは謎の少女陸奥の周辺を補完。アニメ版は主人公周辺を補完。
百合好きは観ていいでしょう。

マジンガーZとかルパン三世のフィギィア好きなんだ。オタクだろ? 
片腕マシンガール』ひどい! すごい面白いんだけど。面白さを語るのが野暮ですよ、というサブカル的なギャグを仕込んで先制攻撃してくる卑怯さ、下品さというか。下品さの後ろ暗い部分をくすぐってそこを楽しんでもらうんだけど、逆に観客の口を封じるというか。迂闊に語ると鼻持ちならないやつになりますよ、という。スプラッターは全然問題じゃなくて、その辺の根性が下品ではあります。その凡庸さを自覚している分、吹っ切れているので面白いんですけど。辻褄のあわない部分を紋切り型の映像と音楽、台詞で押しきるのはいいと思います。
要するに東宝スコープのパロディなんですけど、現代においては東宝スコープ映画は紋切り型のギャグになるって事ですよね。
オタク向けじゃないですよね。サブカル向けです。片腕がマシンガンの少女なんていかにもじゃないですか。
冒頭の十分くらいで行われる「この映画の楽しみ方」が全てを物語っていると思います。そういう横溢している「お約束」を編集でまとめるのが上手い作品です。ですのでテンポがすごくいい。90分できちっとまとめてあります。

ガンカタではない
リベリオン ワルシャワ大攻防戦』ロマンティックな音楽が流れたら必ず『マトリックス』の戦闘シーンみたいなスローモーションで超現実的な謎描写が入る映画。まあ、それは置いておいて普通にいい戦争映画。脚本がうまい。海外で賞でもとった原作小説があるのかなと思うくらい。
ヒロインが街を歩いていたら突然爆撃があって血と肉の雨が降って来るとか、修道女におっさんが「神様は何してんだよ」って罵声飛ばすとか、そういう「安定している我々の世界は不安定の上に成り立っている」描写に優れている映画だと思います。『わたしを離さないで』に戻りますが、あの世界で因果律を信じている強者でも、戦争と言う偶然に襲われれば不安定の世界を直視せざるを得ない。むしろ不安定の世界で生きていく為には「不安定? それがどうかしたのか? 厳しい世界を生き残るのに他人から搾取して何が悪い?」という開き直りが必要だという事でしょう。地味にお勧め。

ゴジラが来るぞ
『イントゥ・ザ・ストーム』終盤あたり、カメラが空撮になり、ぐっと引いて発生したド級の竜巻がどんどん大地を凌辱しながら前進していくシーンがあるんですが、これって怪獣映画の撮り方じゃね? とか思ってしまった。パニック映画とはいえ、モンスター映画の要素が強いように感じる。
人間ドラマというのは本番が始まるとパニックの為のギミックでしかない。主人公の親父が登場人物のなかでも飛び抜けて頭がいいんだけど、彼が手を回してもどんどん竜巻に台無しにされてしまう。打つ手打つ手が全部無効になる。それが絶望感を煽ります。ユーチューバ―が出てきて「竜巻を撮ったらヒーローだぜ!」ってはしゃいでいるんで、こいつらが道化の狂言回しみたいな感じなのかなと勝手に思っていたんですが、竜巻が本気だすと瞬殺されるので、バカは生きていちゃいけない世界観なんだなと思いました。

エアコレクト

エアコレクト
訪れた古本屋の写真をスマホに撮ってエアコレクトするという習慣をはじめた。ついでだからツイッターにもアップロードをはじめた。

ちなみにエアコレクト、エアコレクターとは、類似性のある地形や看板、食べたラーメン等と言ったいわゆる「自宅に持ち帰って保存することが不可能なものを写真などのデータ形式に収めてコレクションする」という行為。発祥は恐らくブログ『蒐集原人』のとみさわ昭仁さん。
みんなもソシャゲのカードを集めたり、ブログや創作、二次創作SNSの作品をブクマしたりするよね。あれもエアコレクトの部類に入る。

なぜ古本屋をエアコレクトし始めたのか? 友人に昔影響を受けた本を購入した古本屋を説明する時にことごとく潰れていた店が非常に多かった為に「なぜ俺は記録しておかなかったんだろう」という後悔の念から「じゃあ、いまのうちにはじめとくか」と思い立ってはじめたものです。
あと、ぼくはブックオフも近場の古本屋として結構利用するんだけど零年代後半くらいかなあ。なんかブックオフがすごい店舗を増やしていた時期があったんですよ。で、そのなかには買うような本は置いてないんだけど、普通のマンションの一階にブックオフの店舗がテナントとして入って居たり、潰れかけのショッピングモールにテナントとしてブックオフが入ったんだけど、田舎なので異常に狭い上に品数も極端に少ない、という存在理由がよく分からないおかしなブックオフも結構あって面白かったんですね。でも十年代後半からブックオフ縮小のあおりを受けてどんどん閉店していったんですよ。
今思い出すと「あのブックオフは変な立地条件にあって買うものもなかったけど都筑道夫の文庫だけは異常に充実していたなあ」とか「山のど真ん中にブックオフがあったけど、入荷状態が変に良くてハヤカワNVの『モダンホラーシリーズ』がほぼ100均で揃ったなあ」とかなかなか味わい深いものがあるんだけど、いま現地に足を運ぶと全部なくなっているんだよね。不況の影響とかあるのかなあ。本も売れないし。
古本屋は出版業界の最底辺だしね。そういうのモロに食らうと思う。
で、まあ、せっかくスマホの時代でもあるし、思いついたらその場で写真も撮れるし古本屋のエアコレクトはじめました。
旅行でも行くことになったら事前にグーグルで周辺の古本屋を調べて、現地ではスマホのグーグルで再確認してどんどん写真に撮っていくよ。

エアコレクト弐
んで、神戸に遊びに行った時に上崎書店と昇平堂書店に行ってきた。早速エアコレクト。これも特殊な古本屋なのでついでに紹介するね。
写真は上崎書店。

写真の上部を見て頂きたいんですが、給水か排水パイプっぽいものが剥き出しの状態で走っていますよね。保温剤巻いてないし、ボックスがあるから電送管かもしらんけど。ついでに柱も剥き出し。
実はこの店、地下鉄の地下街の廊下の端に本棚を延々と並べただけのちょっと構造がオカシイ店なのだ。
んで写真には撮らなかったんだけど、本屋の対面には何故か卓球台がずらーっと並んでいる。
同じ地下街には値段設定が昭和のまま止まったコーヒー一杯二百五十円の喫茶店があったり、昭和から営業している床屋が組み込まれていたりする。
つまりこの上崎書店は昭和高度成長期時代にサラリーマンが会社の帰りに床屋に寄ったり、気分転換に卓球をしたり(手軽な娯楽)、コーヒーを飲んだりするついでに利用するような店だったのだ! おそらく! それがそのままの形で平成二十七年の現在に残っているのである!
そんな時代から半分置いてけぼりにされたような店の棚には函物のおそろしく色あせた本が全体の九割を占めている。恐らく昭和時代から全く品が動いていないのだ。全集も揃いが紐で括られて無造作に積んである。
かといって置いてある本は現在の古本相場では屑価値レベルのものが多い。いや、ぼくは古本道を極めてないので実はすごい本が埋まっている可能性も否定できない。高度成長期時代から品が全く動いていない気配だからな。現にこの店は古本界隈では老舗らしく、ツイッターに写真をアップロードしたところ、とみさわ昭仁さんと柳下毅一郎さんと共に酒を飲みながら古本屋をまわるせんべろツアーを行ってる安田理央さんから「神戸の上崎書店ですか」とのリプライ。え、安田さんは東京じゃん。この店、そんなに有名なの……。いやあ、まあ、説明したとおり、ちょっと構造とか品揃えとか、平成の時代におかしいわな……。

とかこんな変な体験も出来るので、エアコレクトは楽しいよ! 


上崎書店の隣にある昇平書店。


泉堂書店は休みだった。残念!

心境の変化など。
ここ最近、加齢がひどくなったせいか、死を異常に考えるようになってしまった。
結果として「自分の楽しみを優先したい。だから各自が何かをするのは勝手だけど俺の邪魔だけはするなよ」とかいう偏屈ジジイみたいな思考になってきた。あー、偏屈ジジイってこうやってつくられていくのね。
すごくネガティブな言い方になったけどポジティブな言い方をすれば「好きな事をするのに他人の視線や評価を気にしなくなった」という事で、旅行に出かけたり、イベントに参加したり、そういうのが非常に多くなりました。

閉じてるんじゃないんですか? と言われればそうではない。口に出さないだけで、ぼくの脳内では常にサラエボベイルート、シリアの内紛が渦巻き、ヨーロッパが難民化する、という事を考えている。一方でブックオフスマホでパシャパシャ撮ったりしていて、非常にチグハグなのだが。
でもみんなもそうなんじゃないんですか。テロがあったって仕事にはいくし、ブックオフは営業しているから古本を探す。LINEで友人と旅行の計画を練る一方で別の友人の親が死んでいく。近所の家から母親の怒鳴り声と子供の泣き声が響いてくる一方で、どこかの戦場では少年兵がAKで大人を撃ち殺している。
池澤夏樹っぽく言えば我々が視ていなくても風が吹けば椰子の葉は揺れるのである。
椰子の葉が揺れるごとに騒ぐのもそれはそれでいいし、いまは椰子の葉が揺れようが他に優先したいことがあるのならそっちにかかわっていればいいじゃないですか。世界に椰子の木が何本あると思っているんですか。椰子の葉が揺れる毎に反応するなんて不可能ですよ。
思考=口に出す、ではない。必要があった時に自分が出来る必要なアクションをすればいい。その時が来ても「その前にアレしときゃよかったな」と後悔しないようにやりたい事をやっておく。「その時」は誰にでも平等に理不尽に舞い降りる。それが「死」である。
まあ、死ぬとまでは行かないまでも、日常レベルで考えると、仕事が次第に忙しくなって自由が利かなくなる場合だってあるし。
こう書くと全力で生きているっぽいポジティブなイメージが醸造出来てしまうが、「死」「遊べるのはいまだけ」が動機づけになっているので、平たく言うと刹那的ではある。自棄を起こさないように気を付けたいですね。

ヴァルキリードライヴプロジェクト
ヴァルキリードライヴマーメイド』がアツい! 兎に角、このアニメ、徹底的に「押さえてある」のだ。
シナリオやキャラクターはもちろんの事、音楽や作画など徹底的に基本を押さえている。ものすごく教科書的な方針を応用力で魅力的に魅せるのに成功している。レズビアン描写、過剰なエロス、ドタバタ展開などともすれば「バカアニメ」で止まりそうな題材を徹底的に基本を押さえることで視聴者にアピールしている。観て欲しかったら観て貰えるようにとにかく押さえられる基本は全部押さえている。安定感がある。
んで、ポルノ描写も激しいのだが、おっぱいや股間は光で徹底的に隠す。このアニメはエロ要素も重要なポイントなのでそこは外せない。でも光で隠せば大丈夫。地上波で放送出来る。保守層から変ないいがかりをつけられる可能性はないし、いわれもない。
金子ひらく監督は表現者としてそれでいいのか! いいのである。ヴァルキリードライヴマーメイドは地上波では映像にマスキングが掛かっているが、ソフトを買うか、有料CSで18歳以上ならアダルトコンテンツとして扱われるので光で隠されることもない。金子監督は地上波で自分の映像が規制されてもそんなに痛くないはずだ。
ふと思い出したのが、リドリー・スコット監督作品だ。リドスコ作品はガンガンに修正やシーンのカットが入りまくりで時としてシナリオが本来のものより全く変わってしまう場合があるが、リドスコはそんな事は気にせず、どんどんプロデューサーのいいなりになってカット、修正を入れまくる。リドスコはディレクターズ権限を獲得しているので、とにかく劇場公開に漕ぎつけた後はソフト化する時に周囲の目を気にしないで自分好みに変えらるのである。
ので話を戻すと、ぼくはこのアニメを「馬鹿な百合厨のために頭のいい人達が作った作品」だと思っている。
「百合厨のための作品」と書いておいてなんだが、実はこの作品は百合厨のためだけの作品ではない。
例えばキャラクターを要約してみよう。

・敷島魅零「生体兵器・シスコンをこじらせている・ギャル・バカ正直・レズ」
・処女まもり「「処女」と書いて「とこのめ」と呼ぶ名前・若干いじられ気味・細かい事は気にしない・背が低いのに敷島魅零より年上・ノンケ」
・時雨霞「眼鏡・ショートヘア・タイツ・格闘家・妹気質・レズ」
・シャルロット・シャルゼン「女王様・権威主義者・自由奔放・ポンコツ・性的アピールが過剰・レズ」

一部だけだが、この羅列された要素を観ていい感じに「うっ」とくるひとも居る筈だ。この「うっ」と来たひとにばっちりハマるアニメなのである。
勿論、百合厨向けにもいいアレンジがなされているのだが、どうもSNSでの動向を見ているとBL好きだがヴァルドラにハマって百合に来ちゃった腐女子のひとも少なからずいるようだ。SNS上でBLとは別にわざわざヴァルドラ専門のアカウントを作っている人もいる。彼女達の発言を聞いていると、レズビアンの物語なのにBL的な要素も入っているらしい。
もう直ぐ最終回である。第二期が非常に待たれる作品である。

映画
二ヵ月間ブログを放置していたので映画の感想が溜まっている。長くなるのでこれは次回更新に振りますね。

ミリマスはじめました。

砲雷撃戦18、お疲れ様でした。
ミキは可愛いなあ! 九月は同人誌の詰めとか、東京に何年振りかに遠征したりでブログ更新は全然後回しでした。砲雷撃戦18、お疲れ様でした。今回の遠征でツイッター支部で合流している二次創作勢と実際に逢って生声聴いて生顔見るのはほぼ済んだんじゃないかな。

ラーメン二郎
んで、砲撃終わって東京で何を食おうかと売り子してくれた友人と話してたんだけど、ぼくはラーメン二郎を第一候補にあげた。アニメやネットで頻繁にネタにされる二郎。しかし関西には二郎は存在しないので、関西民にとって二郎は違う国の食べ物、画面越しに眺めるだけの食べ物なのだ。関西民にとって二郎はテレビのCSで観る北海道の市場で食べる美味しい激安海鮮や、スウェーデンシュールストレミング、鯨のブリーチングと同じ存在なのである。
関東民はもっと二郎を誇ってよいと思う。

黒い病原体(レコード時代の邦訳っぽく)
Killing Jokeの新譜『Pylon』が10月にリリースなのでした。

I AM THE VIRUS


相変わらずハードな打ち込みとギターサウンドに乗せてヴォーカルのジャズが単語シャウト連発というやかましい内容になっております。
ただし、単語は韻を踏んでいて聴き心地はいいのでそこらへんはやっぱりプロだなとは感じる。
jokeのここ数年のざっくばらんな主観としては2010年に『Absolute Dissent(日本語盤『宣戦布告』)』をかなり自信たっぷりにリリース、日本のレコード会社もそれなりに乗り気で日本盤をリリースしたのだけど『Democracy』『キリング・ジョーク2003』『ホザンナ・フロム・ザ・ヘル』のハードな打ち込みの流れに逸れるバンドサウンドが悪い意味で軽い音の仕上がりになってしまって一部の固定ファン以外からは「まーたいつものjokeの空振りか」みたいな扱いを受けて不振。続く『Mmxii』は日本語盤はなし。しかし内容は打ち込みガンガンで攻めてくるハードな内容と実はインダストリアル路線のjoke好きな人にはかなりいい感じの出来だった、というなんだか不幸な流れでした。(あっぼくの主観ですよ)
その辺はjokeも心得ていたらしく、ツイッターの告知ではいきなり「Heavy.」と宣言。サンプルを聴くと告知通りの内容になっていたのでした。
でも日本語盤の噂的なものは全く聴かないので今回も廃盤になる前に輸入盤買います。
未だに9.11やブッシュの映像を公式PVで晒すあたり、こいつら、本当にブッシュ政権嫌いなんだなーって気がします。フロントマンのジャズ・コールマンはイングランドヒンドゥーペルシャの混血なので色々思う所はあるんでしょう。

水樹奈々をあなどっていたぜ!
アニメは何をクリアしたっけ。『シンフォギア』がすごい面白いアニメでした。このアニメ、面白いんだけど実は結構変な所を狙ってくるアニメで一話はお墓のシーンからいきなりライヴ会場と落差が激しく、後半も秘密基地に侵入してきた敵の女ボスを銃で撃つとおっぱいで弾かれるなど、狙ってるだろ、みたいな変にお高くとまらない、いわゆる『おクールジャパンアニメーション』が好きな連中の眼から逸れるような工作をしつつ、なかなかにぶっ飛んだ内容でありました。これ突発的に色んな要素が入るんだけど物凄い勢いで突っ走るから破綻を感じさせないのが偉大。
主人公が闇落ち暴走化しても、それになんの落としどころも付けることなく普通に終わらせて違和感感じないのは結構大変なことですよ。

ブラム・ストーカーの長編
『吸血鬼ドラキュラ』で有名なブラム・ストーカーの長編『七つ星の宝石』がナイトランド叢書から発売されるので予約したのでした。このご時世によりにもよってブラム・ストーカーの短編じゃなくて長編なのかよ……売れるのかよ……奇特な……。俺が助けてあげなきゃ……。
好きなものに熱中できるってすごく立派な事だと思うの! だから、私が買ってあげるからナイトランド叢書は好きな本を出していいのよ!

ところでアマゾンの紹介に寄ると「古代エジプトの女王、復活す? エジプト学研究者の謎めいた負傷と昏睡。密室から消えた発掘品。奇怪な手記……。星はめぐり、女王復活の時は迫る――」とあるのでエジプト絡みなんだろうけど。パルプマガジン時代にそれやられても別にふーん、またなの? お前そのネタやらないと死ぬの? みたいな感じなのですが、ストーカーは19世紀のアイルランド人なので、この頃からイギリスでは「エジプトは謎の場所!」的な発想があったんですな。でもこの前に『アラビアン・ナイト』あるんだし、ドイツのロマン派も流行してるのであるといえばあるよね。ごめん。

ドラキュラ城崩壊
突然思い出したのだがピーター・へイニングが編んだアンソロジー『ヴァンパイア・コレクション』に寄るとアメリカで『吸血鬼ドラキュラ』に関する不穏な風評があったそうな。実は『吸血鬼ドラキュラ』はストーカーとその仲間内でしか分からん秘密の教義に基づいて作られた『切り裂きジャック事件』の謎を小説化したものなんですと!
その後に続く初の映画化『ノスフェラトゥ』も監督のムルナウはオカルトな人だったらしくこの映画には解読すればオカルトな秘密が詰まっているらしいのですが、好きな人には好きなひとが続くものだなあと色々思う事ですな。


八月の狂詩曲
実はあんまり黒澤を観ていないので、隙あらば観ねばならんと単発的に観ている。
『生きものの記録』は原爆による人間関係の断絶を描いていたような気がするのだが『八月の狂詩曲』は修復を描いているような気がするので、この二つはセットにしてもいいと思う。
原爆が長崎に残した後遺症をアメリカからやってきたリチャード・ギアが目の当たりにして「オウ、スンマセンデシタ」という身も蓋もない映画、といえばそうなるのだが、いきなりケロイド見せつける訳でもなく情緒的に魅せる事に特化している。不気味な映像やロマンテックな映像が村瀬幸子の語りと同時に突発的に挿入されるんだけど、ざるのように回収していくので「じゃあ次は?」って続きが気になるんだよね。ポリティカル要素が強い割にはなんだか先が気になる展開。『シンドラーのリスト』も大概にポリティカルなのだが、あれも非常に続きが気になる映画でつい最後まで観てしまう。
反戦映画とはかくあろう、という見本みたいな映画。


『哀しき獣』
CSでなんとなく録っておいたのを観たのですが、大変面白かった。
えこれって韓国と中国なのっていうくらい異世界感が強い。美術とカメラの勝利でしょう。俳優のおっさん方も非常に好ましい。獲物が銃じゃなくて包丁とバットっていうのも痺れるよね。上映時間140分らしいんだけど、全然苦痛にならなかった。あ、もう終わりなんだ、みたいな感じ。
ぎらついた感じはなく、寧ろ主人公ハ・ジョンウは疲れてぼろぼろの状態で、最初のシーンも小汚い場所が多いんだけどそこはかとなく哀愁があって、その実、裏には沸々と煮え渡るような熱気が見え隠れしているので、いつ爆発するのか目が離せない。ジョンウは過去にトラウマ抱えてるちょっとヤバい系の主人公やね。で、ジュンウは借金があって賭け麻雀で負債を返そうとしてるんやけど、自棄になっているので負けて喧嘩ばかり。そんな所へキム・ユンソクが「カネやるから韓国行って人殺してこいや」って煽ったらあかんやん……みたいな感じでひりついた薄い膜が貼りついている、そんな雰囲気がずっと持続します。それと韓国ノワール映画っていい顔の親父が並ぶから画面を観てて気持ちいいよね。下品さがない。

話逸れるけど押井監督っていい顔のおっさんに美少女が一人、みたいなやっぱり気持ちいい画面を作って最終的に美少女だけの『アサルトガールズ』に辿り着いたと思ってるんだけど、ストーリーはともかく、まあ、あれもそれなりに気持ちいいじゃん。

『吸血髑髏船』
日本のゴシック映画! という惹句に引かれて買ってしまった。映像の汚さはそれはどうでもいいんだよ。本当にこれゴシック映画だから。
新青年』に掲載された怪奇短編をそのまま映像化したような佳作。『新青年』自体が古いので今読むと「なんだよ、それは!」ってなるんだけど、あの小説群にあったのは独特の文体で雰囲気を作って結構無茶なお話をそれなりのものに仕上げるテクニックと語り。夢野久作とか小栗虫太郎とか久夫十蘭とか。
夢野久作の短編なんてほとんど文体と語りで勝ってるようなもんばっかりじゃないですか。
『瓶詰地獄』とか遭難した兄妹が無人島に辿り着いて近親相姦したから罪の意識に苛まれて身投げするだけの話じゃないですか。それを短編一本に仕上げるんだから大したもんですよ。
『吸血髑髏船』もそういう「雰囲気」だけで勝ってる正攻法の映画。ゴシックとホラー、怪奇と見せかけて実は過去の船舶ハイジャック事件の首謀者が…。一方、ハイジャック事件で死んだ姉の魂に操られていると主張する少女は妄言かと思いきや背後にはマッドサイエンティストが、という滅茶苦茶な要素が渾然一体となっている。

どですかでん
うわー。インダストリアルだ。って思ってしまった。有機的というよりは背景も登場人物もかなり無機的に近く、けったいな人間関係も「そういうものね」で済んでしまうなかなか乾いた作品。その割にはごちゃごちゃした色彩で、黒澤は初のカラー映画ってことで奮発したんだろうけど、それがよからぬ効果を生んでなかなか前例のない下品ではあるが、どこかに法則性のある本当にドライな映像になっている。ドライなのには理由があって、その一つにこの映画、全然臭くないっていうか臭いすらないのね。それくらい映像は乾いているんですよ。普通ドライにしようと思ったら無駄なものをばんばん削ぐのが常套なんだけど、この映画無駄が一杯あるのね。それなのに匂いがしない。ってことは実は映像に無駄がないんでしょう。あとすごいフラットだし。その癖、集落の人間はえらくドメスティックな関係にあるので誰かが死んでも、誰かが悼むし、誰かが悲惨な目にあっても誰かが助けに入ろうとするので、観客は突き放されることなく観られてしまう。絶望の後を希望が追いかけるほのぼのした作品ではある。

ヒミズ
観てなかった。
かなりノイジーで歪んだ登場人物たちがぞろぞろ出てくるのですが、まあ、彼ら彼女らにも変なのには事情があって、その辺を監督は3.11に求めているんだけど、それはちょっと違う気はする。ただし、絶望の度合いは強く、それを希望が追いかけるという『どですかでん』と一緒で実はほのぼのした作品で、それにごちゃごちゃしたノイズやら聖書やらなんやらが付いているからなんかすごそうに見える。いや、面白くかなり上級に入る映画だと思います。目が離せないし、ラストまで一気に叩き込む。染谷将太君が異常にぐちぐちしている一方、やっぱり絶望しかない二階堂ふみは壊れていたりパンツモロ出しとサービス満点な上に染谷君を気遣ってくれる。
そう。ぼくは染谷くんが気に喰わないのだ。染谷くん、いい加減にしとけや。
じゃあ、この映画の話の軸はなんなのっていうと絶望してる子供を大人が守ってくれる所だと思うんです。渡辺哲が泣けるんですわ。「子供は未来だからそれだけで俺には価値があるんだ!」って染谷くんをかばってヤクザのでんでんに泣きつくところは本当にいい。
でんでんも結局、ほだされる。自暴自棄になってる染谷君に「お前は病気だ。周りが見えなくなって悪い選択しかできない病気に罹ってる」って言ってくれる。
大人が子供を守る。とても当たり前のことなんだけど身に染みる。
要するに大人はみんな、非常にドメスティックな雰囲気。園子温は家族を失った染谷君への希望として新しい家族を提示しているようにも見えます。
『ホテルルワンダ』観た時の「あーやっぱ最後頼りになるのは家族と信頼できる友達だけだな」っていうのを強烈に思い出しました。

相変わらず画面に漫画的な迫力がある。躍動感があるといえばいいんでしょうか。園子温監督ってかなり画面をコントロールしたがる監督だと思っています。
変なこと言うけど、園子温監督ってアニメ作ったらどうなるんだろう。特撮でもいいや。この二つって完璧に近いくらい画面をコントロール可能なジャンルじゃないですか。そういう事に気づいているアニメや特撮って実は限られているっていうか、制作スケジュール的にする余裕があんまりない気はするんですけど。

『サイタマノラッパー』
何もないがあるのよ! とは風香ちゃんの名言ですが、この映画には「何もないがある」
きついわ。地方都市の「何もない」がとてもよく出ている。あのね、白人のエミネムでもね、あいつはアメリカに住んでるし、ゲットーも近くにあるし、ライヴハウスはちゃんとあるし、黒人ラッパーだって居るし、本物の貧困だってあるじゃん!
でも地方都市の中流家庭にはそれはないじゃん! でも黒人文化は格好いいからね、主人公たちは真似する訳。でもあくまでも下手な模倣でしかない。だから薄っぺらい。それは本人たちが一番よく自覚してる。周囲も薄々それを見抜いているから主人公たちはことあるごとに馬鹿にされんのね。でも自覚してるから反論できない。でも、なにもない地方都市だったら薄っぺかろうが模倣するしかないじゃん!

最後は「えそれで終んの」みたいな終わり方するんですけど、その後のエンドクレジットがまた泣ける。
ぼくは零年代の日本映画にバイアスかかってて「大概どれもまあ、見れたもんじゃないだろ」って悪い思い込みがあるんですけど、そのせいでこの映画をかなり長い間スルーしてしまうという損をしていました。

今回の百合!
『Collectors(1)』西UKO。

コレクターズ 1

コレクターズ 1

西UKOの魅力はなにか。漫画の基本中の基本を守っている所です。基本とはなにか。五感を描くことです。触れば暖かくへこむ肌。石鹸の清潔な香りを放ちながら輝く首筋の産毛。そういうものをきちんと描いている。五感を描けなんて漫画のhow to本には描いてない。ぼくの読んだ範囲だとせいぜい「魅力的な登場人物を描け」とか「展開にめりはりをつけろ」「ジャンルの分類」とかそういうどちらかというとシナリオ的な要素が多い。後は身体の部分の描き方の基礎とかコマワリですかね。
多分、ぼくが五感を描けなんて書いてあるのを読んだのは純文学の入門書くらいのものです。それぐらい現代ではないがしろにされていることなんです。
でも西UKOにはそれがある。『となりのロボット』もいまにして思えばそういうテクニックがあった。だからあれだけ支持されたんです。内容もさることながら、内容に添った説得力があの絵にはあった。皆、無意識の内にそれに反応してるんです。読者も馬鹿じゃない。ちゃんと描けば「これはなにかすごい」って分かるんです。西UKOの絵柄にはそれ単体の力がある。あの絵に妙なポジティブさと多幸感があったのは百合で五感を守っていたからです。あの多幸感とポジティブさは百合の特徴です。『Collectors(1)』はその多幸感とポジティブさがより顕著です。百合クラスタは大体、あの感覚に惹かれて百合本を漁る。そこから枝分かれしていく。少なくともぼくはそうです。

『となりのロボット』はそういう百合と言う本来の形を維持したまま、内容的には新しい百合を描いていた。『Collectors(1)』は内容は旧来の百合なんだけど、五感をしっかりと描いている。ここで培われた能力が『となりのロボット』に生きている。ぼくとしては実は『となりのロボット』より『Collectors(1)』の方が好きです。四コマ形式で絵柄に重点を置いている分、百合特有の多幸感とポジティブさ、少しだけ覗く哀愁の度合いは桁外れです。百合世界の原初的感情「きらきらした儚いものに憧れる」という欲求を十分に充足させてくれます。

あなたが百合クラスタで『Collectors(1)』を読んでないなら是非読んで下さい。あなたが欲しくてたまらなかった百合があります。

デレマスはじめました。


先月は更新しなかった。二次創作関連で新しい事あったし、コミケ落選したり、仕事が辛かったり、四国に旅行行ったりしてて、まあ、ブログは最後の方に回すかな的な発想で。時間が空いてたらぼーっと音楽聴いてエネルギー溜めるとか。別にリア充になった訳ではないです。


息子の書いたB級小説が映画化。
『ワールドウォーZ』。原作者の親父、メル・ブルックス的にはどうなんだろう、というか映画監督だから「まあこれは映画化の際に仕方ないよね」みたいな観方をしたのもあったんではないかしら、と思う。と邪推する。全然関係ないんだけどこの映画をえらく貶しているサイトがあって、それが、もう凄い。過去のゾンビ映画を引用しまくって「如何に『ワールドウォーZ』が過去の名作ゾンビものに劣るか」みたいな記事書いてるんだけど、ひどく尊大な文体で書いてあるから映画の紹介したいのか、自分の知識披露したいのかよく分からない。

ところで、この「他作品と比較して長所(短所)を探す」ってのはぼくも時々やってしまうんだけど、ぼくとしてはあまりいい手とは思っていない。だってその時点で引き合いに出されたほうは何らかの形で劣る、みたいな言及の仕方になるじゃん。え、それは劣ってるんじゃないの、というのはそれはその点だけであって、他にも観るべきところは当然ある訳で、そんな事言われても、そうですねえ、みたいにしか言えん。

「作品を比較して新しい方を讃える(悪い点を指摘する)」ってのは昔から批評家とか翻訳家の権威が多用してきたパターンで、歴史は長い。だから読書熱心なブロガーほどこの影響は受けやすいのかなとは思う。そのブログを読んだ駆け出しブログが「成程、こうすれば簡単に長所と短所が洗い出せるのか」と思って引き継いでいく……みたいなパターンはあると思う。確かに簡単な方法ではあるし。ぼくとしてはここ一年前くらいからなるべくそういう言及の仕方は避けるようにしている。過去記事は酷いけど。かと言って単に作品を説明するのに昔の類似作を持ち出したりするのは仕方ない所はあるので、それはそれでしょうがないかなと思います。まあ、優劣を決めるのに比較を使いたくない、というそれだけです。


本編? ぼくは特に。普通のゾンビ映画だなって感じで。全然コメントになってない。まあ、そういう映画です。でもゾンビ好きは観たほうがいいし、原作は優れているのでセットでどうだろう。記憶に残っているのが、この映画、安全地帯がないんだよね。完全密閉された安全地帯があって浮かれてても、そこをゾンビに逆手に取られて逃げ場のない殺戮場と化して侵略されてしまう。
そういう「一人残らずゾンビにしてやるからな! みんなで歌とか歌ってんじゃねーよ! お前も仲間になれ!」みたいな制作側の執念は好きです。

ぼくは粗悪なブロックで遊んでいました。
『レゴムービー』ネットで「ここが再現されててリアル! こういうのレゴブロックであったよ!」とか言われても、ぼくはレゴブロックで遊んだ記憶がないのでよく分からんかった。親もやけに厳格だったし。その影響で遊ぶブロックはすごいでかいの。レゴの二倍くらいあるやつ。親的には口に入れて遊んだらヤバいことになるから気を使ったんだと思う。

『レゴムービー』はどうかっていうと、光の段取りがすごかった。ここに光源があるとしたら、ブロックがこう動けば光の差し込む角度や反射の仕方も変わる筈で……みたいな事にとてもこだわっていて、これはすごいなあとしか言いようがなかった。才能のある奴に金と資材を渡したらものすごい映画を作ってきた、みたいな感じはある。展開は観てる間は夢中になってたんだけど、今になってみると丁寧ではあるが普通のシナリオの運び方ではある。しかし観ている間はそんな事は全く感じなかった。そういうシナリオと映像が現代向けに綺麗にアップデートされてた感はある。

実録もの
ウルフ・オブ・ウォールストリート』プリオのベルフォートが兎に角いい映画。ドラッグ依存でセックス依存で、消費信仰の塊、ベル君。ただしモノローグのベル君が饒舌かつ、嘘を平気で吐くのを示している通り、口先だけは兎に角回る。ベル君が口先一つでウォール街をのし上がっていく痛快映画。重要なのはどう考えてもワルのベル君がヒーローに見える事。これ、ベル君はぼくらがやりたくてたまらないけど、社会的、倫理的、道徳的にアウトだから我慢していることを簡単にほいほいやっちゃうからなんだよね。ベル君は本当にいいキャラ。こいつ、ドラッグ依存でセックス依存で消費信仰の化身だから辛い事があるとすぐそっちに逃げちゃうんだけど、口先だけは回るからそれでなんとかなっちゃうんだよなあ。とことんアッパーの雰囲気で暗いはずの場面にもどこかユーモアがある。スコセッシもこんなの撮るようになっちゃったんだ、みたいな感じはした。


アニメは何をクリアしたっけ。『さばげぶっ!』は面白かった。肩の力を抜いて観られた。ちょっと撮りためて週二くらいのペースで消化するのが楽しみだった。普通に可愛いよね。

バブみ系ハーレム
ダンまち』。ベル君が可愛い。アイズもそうなんだけど、ベル君は可愛がり甲斐があるのでつい甘やかしてしまいたくなるんだよな。ベル君の周囲の女性はお母さんみたいな存在で、だから正直な感想はベル君は余所から観たらハーレム状態だけど、あれは御母さんたちが息子に世話を焼いている状態に近いので恋愛感情には発展しないと思う。ちょっと例外が二三人居るけど。純粋にベル君を恋愛対象にしているのはヘスティア様だけでしょ。しかし、家族の居ないベル君はアイズをお母さんの肩代わりとして恋愛感情を抱いており、ヘスティアはあくまで「神さま」なので何をしても「神さまの恩恵は有難い」にしかならないんだと思う。そう考えるとベル君って一寸地雷だけど。でも正直な所、男は女性にどこか母親を求めている部分はあると思う。これは覆しようのない事実。風俗だって、風俗嬢がママになってくれる商売が成り立ってるんだから。話逸れた。ヘスティアの愛情はベル君にいくら注いでも尽きる事はないので、本当はヘスティアがお母さんポジなんだけど。まあ、男はちょろいので、女の子がちょっと優しくしてあげれば「お母さんだ」って勘違いしてすぐそっちになびきますよ。紐は特になにも感じなかった。それより作画が丁寧じゃん。爽やかな美術とキャラデザでいいと思う。登場人物は全員爽やかなんだけど、時々、頭を整髪料で尖らせたヤンキー臭い兄ちゃんが登場すると「あ、ヤスダスズヒトのキャラデザ」と思う。

王立宇宙軍BDを購入しました。
オネアミスの翼』のBDを買った。いや金のある内に買ったほうがいいかなって。基本的に97年に音源をリマスタしたものをBDに落としたもの。だから映像自体はそんなに変わらない。ただ、宇宙船が離脱する瞬間に冷却用の氷がばらばら落ちるシーンは綺麗になってた。音を前面にしてあるので「え! そこでそんな大きな音だすの」みたいな感触はあった。解説書で山賀監督がえらく庵野にこだわっている。庵野を買っている。「庵野君は色気のある爆発シーンが描けるやつだ」ってすごいラブラブっぷり。解説書に載っているカットも庵野が担当した爆発シーンが多い。別の世界の話なんだけど山賀監督が実際に「別の惑星の話なんです」って言うと感慨深い。ところで『オネアミスの翼』の夜空って月は昇ってたっけ?

構成上の問題としてリイクニって最初の歓楽街のシーンでチラシ配ってなくても、たまたまシロツグがチラシをどこかで目にしてリイクニの家に行くっていう展開でも全く問題ないと思う。ただそれだとお客さんの興味というか、ヒロインの出足が遅くなるから恐らくあそこで出したんだろうし(歓楽街で宗教のチラシ配っているという対比みたいのも欲しいのかもしれない)、歓楽街でチラシを配っているっていうのもリアルというか「もっともらしい」よね。ぼくは『オネアミス』の「もっともらしさ」みたいなのが凄く気に入ってて、会話とか、ディティールとか、そういうもののもっともらしさが好き。まあよく出来た作品ですわ。

それからOPとEDに登場する「あの惑星の歴史」的な映像の一部はインターネッツが発達した現在、例えばツイッターの歴史フォトbot的なものをフォローしておけば元ネタを目にすることがある。これも「もっともらしい」工夫で好き。





サントラも引っ張り出してきた。ライナーノーツを読むと坂本龍一が最初にタイトルを聴かされて「右翼だ!」って勘違いしたとか。特にいまする事がないからちょっとズレたエコ活動をしている訳ではなく、昔から教授はこうだったんだよ。音楽すごくいい。40分あっという間。当時はアニソンばかり効いていたから、初めて耳にした不協和音がすごく新鮮で何度も繰り返し聴いたのを思い出した。

学生の頃観てから、ビデオテープをダビングしてテープが擦り切れるくらい観たり、社会人になっても、折に触れてはCSで観直したり、地上波で観たりしている付き合いが長い映画です。ぼく的には『エヴァ』より絶対『オネアミス』のほうに影響受けてる。『ガンダム』は新作が登場するとそりゃ観ますけど、それは新作だからであって、同じアニメ作品を繰り返し観るというのは『オネアミス』しかないです。

アニメ伊藤

アニメ伊藤
アニメの予告を観ていると面白そうだったり面白そうじゃなかったり、観てみると予想とは全然違うアニメで最初にこのアニメが面白いって言い出したのは誰なのか分からない状況がネットでは続いており、阿鼻叫喚の地獄の蓋が開いているので、アニメ公式サイトはピクシブやニコ動みたいにタグを付けたらどうだろうか。
『百合』『おっぱい』『バブみ』『アイドル』『コメディ』『エロ』等。そこまで考えてそれは伊藤計劃の『ハーモニー』じゃんって気付いた。
実際製作者がよかれと思っていた展開が視聴者にはダメージがデカすぎてネットで罵詈雑言を撒き散らすくらいならいっそのことタグ付けもいいかもね。
でもまあ、そうすると今度は視聴者が「舐めんな」って怒るんだろうな。


京都にいってきた
友人と一緒に京都にいってきた。友人が仕込み杖(傘)などを買う。ぼくは古書店巡りですかね。古書店組合のパンフがネットにアップされててそれを参考に足を運んだんだけど、パンフの地図には「なんの専門店なのか」全く書いてないから無駄足を踏むこと多し。美術書とかはぼくの範囲外だからな。基本、いい古本屋っていうのは「自分の求めている本がいかに安く売られているか」だと思うんだよね。
ブックオフとかフランチャイズ方式の店だと幅が広いし、本以外も置いてあるし、値段も画一化されてるから、厳しくはないんだけど、本当の古書専門店って本当に「そのジャンル」しか置いてないから自分に関係ないジャンルの古書店だとあまり魅力を感じないし、本の価値も、相場すらも全く分からないんだよね。

古本屋の後は二条城などに桜を観に行く。土産物屋がやけにワンピースとか銀魂とかとコラボしたグッズがあるから何事かと思ったんだけど、京都は新撰組関連があるのか……。

車で行ったのだが、個人的には京都旅行は電車やバスを利用したほうがいいかもしれぬ。

GJ部』クリア
仲間内でダべっている時にふとした瞬間に遭遇する「バチッと全員の気分が合致した気持ちのいい瞬間」を全十二話でとことん貫いてしまった。
一部の人達から「中身がない」「箱庭」と揶揄されてしまう日常系。しかしこれらの作品がどうしてもひっかかってしまう人達も存在するのだ。いくら『エヴァ』や『ガンダム』が凄かろうが、それは日本の同時代に生きていたからで、これがアメリカというかアフリカに持って行って受けるというかと言えばはてなでしょう。そもそも『エヴァ』だって『ヤマト』世代からは当時疎まれていたのだし『まどマギ』だってガンダム世代にいい印象を持たれていない。「よく分からないけど、よく分かる」同じ土地の同時代というのでしょうか。『GJ部』そういう「日常系」がひっかかってしまう人たちは観て損はなし。


先月から今月は精神的に辛かったので映画観てないなあ。帰宅したら速攻寝て早朝に起きてシャワー浴びて出社とかそんな感じ。休日はひたすら寝る。

ロマンポルノ版
町山智浩さんが『狂った果実』は結構洋画に影響を与えている、的な事を言っていたので観る。んが様子がおかしいので確認してみるとぼくのはロマンポルノ版だった。しかしロマンポルノの傑作らしいので視聴続行。
暴力がセックスの暗喩だというのはなんとなく。ただそれだけでは片づけられないなにかもある。中上健次の『蛇淫』を思い出した。そんなこというと文学畑のひとが怒るの?

捜査が楽しくなる
ロボコップ』2014年のリブート。マーフィーがロボコップになる手順が丁寧になってる。倫理的。というかいきなり記憶を奪って現場に放り込み、牢屋のなかでアルマイトに盛ったベビーフードを食わせていたバーホーベンがひどすぎるのか。そのバーホーベンの呪いと言うか、そういうのから抜け出したいのはなんとなく感じた。主観だけど。
ヒットさせようとしたらバーホベン版のコピーをすればいいわけじゃん。丸写しじゃないですよ。でもやっぱりジョゼ監督は自分のロボコップを作りたかったような気がします。バーホーベン版みたいなものを期待して集まった観客に対しても。
どっちが勝ったんだって「勝ち組、負け組」みたいなゲスな話になるとバーホーベンにジョゼ監督は勝てなかったけど。そもそも「勝ち組、負け組」って二対項目で判断するのってあれ嘘ですからね。アジテーターが作った造語みたいなもんですよ。
でないと「なんで彼奴は金をそんなに稼いでる訳じゃないのに生き生きしてるんだ」「どうして彼奴は金を稼いでいるのにいつも辛そうなんだ」って状態に説明がつかないじゃないですか。

結果としては、ぼく的にはあんまり面白くない映画になりましたけど。まあ、雇われ仕事みたいなもんじゃないですか。ジョゼ監督が次になにを撮るのかは気になります。だってwikiで『ロボコップ リブート版』の記事を読むと素人でも分かるような滅茶苦茶な制作環境じゃないですか。特に脚本関連は。
あんまり沢山映画作ってる監督じゃないですし、ぼくも『バス174』しか観てないんですけど、すごくいい映画なんですよ。『バス174』今でも記憶に残ってるくらい。
バスのジャック事件をドキュメンタリーで撮った映画なんですけど、観てない人はよければ観てみてください。「『ロボコップ リブート』と同じ監督なの?」って吃驚すると思います。
だからぼくは『ロボコップ リブート』は失敗だったけど、ジョゼ監督はそうじゃないと思います

最強のブルース・リー、ドニーさん
『レジェンド・オブ・フィスト』ドニーさん映画。ブルース・リーが下積み時代、グリーン・ホーネットのカト―役として(当時中国では主役のヴァン・ウィリアムズより、ウィリアムズの助手役のブルース・リーが演じたカト―に人気が集中しており「カト―・ショー」と呼ばれていた)活躍した黒装束に黒マスクの男の恰好をドニーさんがリスペクトを込めて身に纏う。いや、なんかね。イケメンが新しい格闘技を使って活躍するだけでドニー支持者としてはそれだけで新鮮に映ってしまうんですよ。車のなかに突進して車内で身動きの効かない相手をボコるシーンは爽快でした。

アルカード映画
『夜の悪魔』アメリカへ田舎からアルカード伯爵がやってくるがこれが偽名。本当の名前はドラキュラ伯爵。アルカード(字幕では「アロカード」表示)はDRACULAの逆さ綴り。ALUCARD。という訳でたぶんこれが最初のアルカード伯爵映画。影の使い方がムルナウの『ノスフェラトゥ』っぽかったりシナリオにも工夫がしてある。蝙蝠や霧からドラキュラに変身するシーンにアニメを使ったり、沼からドラキュラ伯爵がスーッと浮かび上がってきたり、太陽の光を浴びると白骨化する伯爵など、人形の蝙蝠を糸でぶら下げていただけの31年の『魔人ドラキュラ』とくらべて12年の特撮技術の躍進を感じる。

ハムナプトラの元ネタ
『ミイラ再生』最初のハリウッドミイラ映画。いきなりチャイコフスキーの『白鳥の湖』が冒頭で流れるが、これ、トッド・ブラウニング監督の最初のハリウッド製ドラキュラ映画『魔人ドラキュラ』でもやってたよね。いい加減な。というか時代がおおらかでテキトーだったんでしょう。結構悪夢的な映像が多い。D・リンチが『イレイザーヘッド』を撮るときに「白黒の方が想像力が刺激されるからカラーにしない」っていう選択がベストだったのはこういう映画を観るとわかります。これカラーだとあんまり不気味じゃないと思う。かといって1932年のハリウッドにはカラーフィルムなどある訳はなく、白黒用に施されたメイクと白黒フィルムしか選択肢がなかった当時の思わぬ効果というやつでは。


今回の百合!
缶乃さんの『サイダーと泣き虫』が華やかでいいんですよ。缶乃さんは雰囲気だけで勝っている百合作家。奇をてらうことなく、ストレートに甘い百合を描く。とにかく綺麗な花束を集めて、そこにケレンミのあるデコレーションをする訳でもなく、とにかく綺麗な花を一杯集めて豪華な花束にしてある感じ。
百合不足で「とにかくふわっとした感じの百合が欲しい」とかいうふわふわしたいい加減なリクエストを出している疲れた百合好きにお勧め。
犬丸の『演劇部の魔女と騎士』とTONOの『ピンク・ラッシュ』も良かった。この二作品、とにかく無駄なセリフを削いでいって鋭利なナイフのようなセリフが多いのが特徴。その辺は「ガチレズ大井bot最高」って言ってたらしい小川一水も『魔女騎士』の解説で指摘してある。絵のタッチも自然とそうなっています。多少、厳しくてもいいからびしっとした百合が読みたい、というひとにお勧め。百合のシュチュエーションをたっぷり再現しつつ、鋭い台詞で読者をえぐるのはなかなか。