価値観と思想を巡る戦場の風景

世界各地の人種が集合して競う大会が絶賛進行中なのだが、僕は子供の頃からこのオリンピックとかいうやつがすごく不思議だった。盛り上がれなかった。

「世界各国の選手が集う」とアナウンサーがしきりに喧伝するオリンピック会場は僕にとって全然世界各国じゃなかったからだ。
確かに国名だけでなく、肌の色が違うと言ったあからさまに人種の違いを認識させるアピールはあったものの、選手は同じユニフォーム着てたし、大会のルールに従うし、苦情を訴えたりトラブルが起こるとオリンピック委員会が会議を開いて物事の方向を決めるし、なんていうか、そこからは「国家」とか「民族」とかいうものの空気が伝わってこなかった。

僕にはオリンピックは、昔から存在しているシステムのルールに従うと言った点において、やはり雑多な人種が集まりつつも既存のシステムに従う日本の大相撲とか野球とかとそんなに感触的な違いはなかった。

んで、僕はそういうのを日本のアニメとマンガ、小説にも漠然と感じていて、このボンクラはどうしてそんなどうでもいいことを考えているのだろうかね非国民めとなるべく思考から除外するようにしていた。

勿論、冨野と宮崎の存在が目に入らなかった訳はない。むしろ彼らが与えた影響は大きいが、彼らはあまりにもまっとうに作り続けた。僕のアニメに対する思考の土台作りには巨大な存在だった為にそれ以上意識の上にシフトしてくることはなかった。今でも友人と冨野作品、もっぱら機動戦士ガンダムの冨野が純粋に拘わった作品だけどその話になっても不真面目な僕たちの俎上にのぼるのはモビルスーツのディティールやキャラの造詣面といったノスタルジーな方面にばかりに傾いて「ファーストガンダム」以降は、ジオン、連邦という二極化された戦争を拡大することに務めたガンダム世界の思想、価値観に重きを置くことはない。

僕の最初の契機は友人が持ってきたトップをねらえ!だった。敵は宇宙怪獣という訳が分からない存在。そこではあからさまに「相手は訳の分からん存在だから気を抜くと問答無用にブッ殺されるぞ!」という強迫観念に後押しされた世界があった。
僕は「これだ」と思った。ルールとかシステムとかそんなのは全然介入する余地がない。むしろどちらのルールとシステムが優れているか豪快にしのぎを削り合う。
往年の日本の特撮映画やアニメにありがちな宇宙人とモニター越しに会話してどこか両者の妥協点を見つけましょうみたいな呑気な気配はなかった。
「トップ」には「価値観が平行線を辿るなら殲滅しかない」みたいなバッサリと関係を切り捨てるダイナミズムがあった。

この映画と海外SFの手法をダイレクトに取り入れた桁外れの傑作「トップをねらえ!」はセンセーショナルな話題を呼んだ。

反面、日本のアニメエンタメは普通のルートにまた戻った。システムがあってルールがあって、人種が違ってもみんなそれに従順に従う。ルールから外れたことをするとシステムから外されるとか、権利を失うとか、死ぬとか、関係が切れるとか、なんだか巧妙に騙されている気分になっていた。僕は価値観や思想の違いを取り扱っていた小説や海外映画を読んだり観たりすることでそのストレスを解消していた。村上龍や彼に影響を受けたライフハックなんかがホームページ「人種が違う時点で価値観が違うということを前提に世界にコミットせよ!」「日本の若者は日本と世界の価値観のブレに気付いている!彼らこそ希望だ!」みたいなことをアジってて僕は魂を荒ぶらせていた。近くにある本屋ですら自転車で二十分かかる田舎に住んでいた僕には世界に通じるコネクションが皆無で方法すら存在しなかったのだけど。
光回線普及率90%!とメディアは宣伝していたけど、僕の地域は残り10%に該当する地区だった。

思うにこの時90年代の日本を席巻していたのは遅まきながらに上陸したレーガンの思想だった。
強者のための日本。弱者を切り捨てる日本。男性にはマッチョが求められ、強くて速くて巨大なものが勝者だった。
筋肉ムキムキの主人公が空を飛んだり超絶技を駆使して悪役をやっつけるドラゴンボール」「幽々白書」「ジョジョの奇妙な冒険なんかは「スーパーマン」「キャプテン・アメリカ」「バットマンの日本版だ。

この間に「トップ」をさらに先鋭化させた新世紀エヴァンゲリオンがあって、価値観を擦り合わせるのをメインとしたこの作品の波に僕も当然のった訳だが、劇場版のまごころを、君にはちょっと違うかなみたいな雰囲気があった。「人間が違うなら価値観が違っても当然じゃない」という当たり前のことを登場人物が延々と禅問答として繰り返していたからだ。観念的な問題だから仕方ない。こういう流れになって当然だ、と帰りの電車の中でガッカリしながら諦めた。
ポスターになった巨大な綾波のおっぱいはちょっと堅そうだなあと思いながら。

ところが90年代のしっぽからゼロ年代初頭にかけて様相が違ってきた。それ以前にもパトレイバーOVA等の動きはあったかもしれないが不勉強な僕は作品を知らない。
僕にとっての次の契機は押井守「劇場版パトレイバー」「劇場版パトレイバー2」「イノセンス」テレビアニメシリーズ「攻殻機動隊S.A.C」「攻殻機動隊GIG」だった。(「劇場版攻殻機動隊は国家というものが消失していたに伴い思想は未来の世界におあずけという形になっていた)
「僕のための作品だ」と思った。それまで疑問に感じていたことが全て体現されていたからだ。しかも大好きなアニメというジャンルで。

そこでは物語の時代設定、場所設定、状況設定などは明らかにされていない。
とにかく日本ではないどこか(「パト」は日本だけど時代設定は不明だ。「イノセンス」「攻殻」はあれはもはや日本じゃないだろ)で混濁した一ヶ所にそれぞれ思惑、思想、目指しているベクトルが全く異なる人間が投入される。
人種は問題じゃない。価値観が全く違うという点において彼らは異民族だ。
監督が彼らにゴーサインを出す。「好きなように動け。この世界の基本的な物理法則に従う以外にはなにをしても構わない」
彼らは一斉に動き出す。場所は限定されているので当然彼らは自分のしたいことをするといってもその場所から抜けだせないのでおのずと行動の範囲は限定されてしまう。
だけど、価値観とか思想とかがナチュラルボーンに違う彼らは同じ状況下にそれぞれのベクトルが真逆な意思表示と行動を下す。
「この世界を維持しよう」「この世界は不快だ」「この世界に自分の思想を反映させよう」「この世界の愛する人を守ろう」
「この世界で金儲けをしよう」「この世界を告発しよう」「この世界に自分の景色を上書きしよう」
こんな滅茶苦茶なことがあるかと思いつつも、僕は待ち望んでいた展開に釘付けになった。
フィクションの創造力が現実を凌駕して「これはあるかもしれない」という世界を繰り広げていた。
カオスな状態をどう収束させるのか、どう結末をもっていくのか、気になって仕方がなかった。

なにしろ彼らの行動を見れば分かる通り、基本的に知性が高く、言語が通じる連中だからだ。「トップ」以降アニメやSF、映画や小説で重宝されるようになった宇宙怪獣とか異星人、サイコ野郎や、世代の違いとかで多用された抜け穴「話し合いが通用しない相手」が適用されないのだ。かといってこれらの作品は話合いになっても「エヴァ」みたいな禅問答になることはなかった。
殴り合うとか、銃をぶっ放すとか、相手の本拠地に侵入するとか、ハッキングするとか要するに「価値観、思想の衝突」「価値観、思想への介入」「価値観、思想の上書き」をアクションという形で表現した。

以降、後に続くような作品がバンバン生まれた。広江礼威ブラックラグーン岡本倫エルフェンリート高橋慶一郎ヨルムンガンド」「攻殻機動隊OVAシリーズ」ゲームでは「MGSシリーズ」小林立が描く萌え麻雀漫画の咲-saki-」「咲-saki-阿知賀編」ですら勝負に勝たなければ自分の大切なものを守れないという強迫観念に背中を押されている連中が、麻雀というゲームを触媒に(麻雀にはルールというシステムあるのでそれをクリアする為に「咲」シリーズには異能力という常識を超える武器が付与された)微温的ながらも誠実に、価値観の違いをどこでどう決着をつけるかという描写に腐心しはじめた。

SFでも神林長平が「話合いが通じへんいうて互いの価値観を想像するのを放棄したら死んでしまうやろ!」みたいな脅迫を戦闘妖精雪風シリーズで読者に突きつけて細々とやっていたのだが伊藤計劃という押井守神林長平をリスペクトする作家が登場して今度は「場所を限定する」のではなく「状況を限定する」ことによって価値観、思想の衝突を押井守のエンタメ手法を尊重して物語りはじめた。
さらに伊藤計劃の物語は彼の好きなスパイ映画、スパイ小説の手法も取り入れ、主人公が世界各地に飛ぶ。場所が限定された世界ではないのなら主人公が好きに移動すればいい。これが受けない訳がなく、伊藤計劃は病気で倒れるまで日本SFの中心であり続けた。だから彼が死んだ時はショックだった。

またこの時期はアニメやSFの価値観と思想の問題に新しい局面が生まれた。ギブスンのニューロマンサースターリングの「スキズマトリックスで発生したサイバースペースという物理現象に左右されない意識のみの世界が生まれたからだ。
押井と後続の作家たちはこの時点で現実と虚構を区別する作業から離れだした。対立構造が消えて今度は価値観と思想のシェアを開始した。冨野と宮崎は相変わらず現実の身体に執着しているものの、それ故に価値観と思想の対立概念をギスギスしたものからオーガニックに語る手法に転じた。

一方、時代は弱者が圧倒的に増える様相を呈してきたけどまだマッチョな日本が台頭している。90年代の亡霊が与えたインパクトは強く、ネットでは「勝ち組」「負け組」「情強」「情弱」を自称する連中が溢れだした。90年代の疑似アメリカンドリームの反動で、夢を持たず理想を高くというマッチョ思想を矮小化しただけの思想と価値観も発生した。
その傍らで現実世界も虚構世界との区別を離れ始めた。レージやポイントといった虚構の数字が貯まれば現実世界の旅行や買い物がロハになるといった即物的な形で。
マンガやアニメ、ラノベの主人公はマッチョから細身になった。いかに情報を持っているかが勝敗を決め、レージポイントのように潜在的な数値を秘めているものが強者になった。
その反面、思想や価値観を手軽に主張できるようになったのでネットには大量に政治的主張民族主義、社会に対する声明を声高に訴える人々が横溢しだした。国境の境目が薄くなるとマスメディアは宣伝していたのに、一般レベルでは思想と価値観の衝突がヒステリックなまでに激化した、ツイッターミクシィ、ブログといった個人の意見を大量の他人が共有できるSNSが誕生したけど、実際には激しい価値観と思想の対立を煽るツールとしても機能するようにもなった。

オタクな僕はオリンピック中継を興味ないなあと眺めつつ、昨日買った「いま集合的無意識を、」をぼんやりとめくっている。その横にはけいおん!劇場版BD」が控えている。みんながオリンピック見てるのにけいおん優先したり、ブログ書いたりしてる僕は非国民だ。
さらに競技よりもイギリスのオリンピックのショボショボ振りやミサイルを公共の場に設置したり、危険地帯情報を携帯に配信するとかいった話題のほうに「あ、なんか世界中の人が集まってるんだなあ」という実感を覚えるのはよくないよね。