ミリマスはじめました。

砲雷撃戦18、お疲れ様でした。
ミキは可愛いなあ! 九月は同人誌の詰めとか、東京に何年振りかに遠征したりでブログ更新は全然後回しでした。砲雷撃戦18、お疲れ様でした。今回の遠征でツイッター支部で合流している二次創作勢と実際に逢って生声聴いて生顔見るのはほぼ済んだんじゃないかな。

ラーメン二郎
んで、砲撃終わって東京で何を食おうかと売り子してくれた友人と話してたんだけど、ぼくはラーメン二郎を第一候補にあげた。アニメやネットで頻繁にネタにされる二郎。しかし関西には二郎は存在しないので、関西民にとって二郎は違う国の食べ物、画面越しに眺めるだけの食べ物なのだ。関西民にとって二郎はテレビのCSで観る北海道の市場で食べる美味しい激安海鮮や、スウェーデンシュールストレミング、鯨のブリーチングと同じ存在なのである。
関東民はもっと二郎を誇ってよいと思う。

黒い病原体(レコード時代の邦訳っぽく)
Killing Jokeの新譜『Pylon』が10月にリリースなのでした。

I AM THE VIRUS


相変わらずハードな打ち込みとギターサウンドに乗せてヴォーカルのジャズが単語シャウト連発というやかましい内容になっております。
ただし、単語は韻を踏んでいて聴き心地はいいのでそこらへんはやっぱりプロだなとは感じる。
jokeのここ数年のざっくばらんな主観としては2010年に『Absolute Dissent(日本語盤『宣戦布告』)』をかなり自信たっぷりにリリース、日本のレコード会社もそれなりに乗り気で日本盤をリリースしたのだけど『Democracy』『キリング・ジョーク2003』『ホザンナ・フロム・ザ・ヘル』のハードな打ち込みの流れに逸れるバンドサウンドが悪い意味で軽い音の仕上がりになってしまって一部の固定ファン以外からは「まーたいつものjokeの空振りか」みたいな扱いを受けて不振。続く『Mmxii』は日本語盤はなし。しかし内容は打ち込みガンガンで攻めてくるハードな内容と実はインダストリアル路線のjoke好きな人にはかなりいい感じの出来だった、というなんだか不幸な流れでした。(あっぼくの主観ですよ)
その辺はjokeも心得ていたらしく、ツイッターの告知ではいきなり「Heavy.」と宣言。サンプルを聴くと告知通りの内容になっていたのでした。
でも日本語盤の噂的なものは全く聴かないので今回も廃盤になる前に輸入盤買います。
未だに9.11やブッシュの映像を公式PVで晒すあたり、こいつら、本当にブッシュ政権嫌いなんだなーって気がします。フロントマンのジャズ・コールマンはイングランドヒンドゥーペルシャの混血なので色々思う所はあるんでしょう。

水樹奈々をあなどっていたぜ!
アニメは何をクリアしたっけ。『シンフォギア』がすごい面白いアニメでした。このアニメ、面白いんだけど実は結構変な所を狙ってくるアニメで一話はお墓のシーンからいきなりライヴ会場と落差が激しく、後半も秘密基地に侵入してきた敵の女ボスを銃で撃つとおっぱいで弾かれるなど、狙ってるだろ、みたいな変にお高くとまらない、いわゆる『おクールジャパンアニメーション』が好きな連中の眼から逸れるような工作をしつつ、なかなかにぶっ飛んだ内容でありました。これ突発的に色んな要素が入るんだけど物凄い勢いで突っ走るから破綻を感じさせないのが偉大。
主人公が闇落ち暴走化しても、それになんの落としどころも付けることなく普通に終わらせて違和感感じないのは結構大変なことですよ。

ブラム・ストーカーの長編
『吸血鬼ドラキュラ』で有名なブラム・ストーカーの長編『七つ星の宝石』がナイトランド叢書から発売されるので予約したのでした。このご時世によりにもよってブラム・ストーカーの短編じゃなくて長編なのかよ……売れるのかよ……奇特な……。俺が助けてあげなきゃ……。
好きなものに熱中できるってすごく立派な事だと思うの! だから、私が買ってあげるからナイトランド叢書は好きな本を出していいのよ!

ところでアマゾンの紹介に寄ると「古代エジプトの女王、復活す? エジプト学研究者の謎めいた負傷と昏睡。密室から消えた発掘品。奇怪な手記……。星はめぐり、女王復活の時は迫る――」とあるのでエジプト絡みなんだろうけど。パルプマガジン時代にそれやられても別にふーん、またなの? お前そのネタやらないと死ぬの? みたいな感じなのですが、ストーカーは19世紀のアイルランド人なので、この頃からイギリスでは「エジプトは謎の場所!」的な発想があったんですな。でもこの前に『アラビアン・ナイト』あるんだし、ドイツのロマン派も流行してるのであるといえばあるよね。ごめん。

ドラキュラ城崩壊
突然思い出したのだがピーター・へイニングが編んだアンソロジー『ヴァンパイア・コレクション』に寄るとアメリカで『吸血鬼ドラキュラ』に関する不穏な風評があったそうな。実は『吸血鬼ドラキュラ』はストーカーとその仲間内でしか分からん秘密の教義に基づいて作られた『切り裂きジャック事件』の謎を小説化したものなんですと!
その後に続く初の映画化『ノスフェラトゥ』も監督のムルナウはオカルトな人だったらしくこの映画には解読すればオカルトな秘密が詰まっているらしいのですが、好きな人には好きなひとが続くものだなあと色々思う事ですな。


八月の狂詩曲
実はあんまり黒澤を観ていないので、隙あらば観ねばならんと単発的に観ている。
『生きものの記録』は原爆による人間関係の断絶を描いていたような気がするのだが『八月の狂詩曲』は修復を描いているような気がするので、この二つはセットにしてもいいと思う。
原爆が長崎に残した後遺症をアメリカからやってきたリチャード・ギアが目の当たりにして「オウ、スンマセンデシタ」という身も蓋もない映画、といえばそうなるのだが、いきなりケロイド見せつける訳でもなく情緒的に魅せる事に特化している。不気味な映像やロマンテックな映像が村瀬幸子の語りと同時に突発的に挿入されるんだけど、ざるのように回収していくので「じゃあ次は?」って続きが気になるんだよね。ポリティカル要素が強い割にはなんだか先が気になる展開。『シンドラーのリスト』も大概にポリティカルなのだが、あれも非常に続きが気になる映画でつい最後まで観てしまう。
反戦映画とはかくあろう、という見本みたいな映画。


『哀しき獣』
CSでなんとなく録っておいたのを観たのですが、大変面白かった。
えこれって韓国と中国なのっていうくらい異世界感が強い。美術とカメラの勝利でしょう。俳優のおっさん方も非常に好ましい。獲物が銃じゃなくて包丁とバットっていうのも痺れるよね。上映時間140分らしいんだけど、全然苦痛にならなかった。あ、もう終わりなんだ、みたいな感じ。
ぎらついた感じはなく、寧ろ主人公ハ・ジョンウは疲れてぼろぼろの状態で、最初のシーンも小汚い場所が多いんだけどそこはかとなく哀愁があって、その実、裏には沸々と煮え渡るような熱気が見え隠れしているので、いつ爆発するのか目が離せない。ジョンウは過去にトラウマ抱えてるちょっとヤバい系の主人公やね。で、ジュンウは借金があって賭け麻雀で負債を返そうとしてるんやけど、自棄になっているので負けて喧嘩ばかり。そんな所へキム・ユンソクが「カネやるから韓国行って人殺してこいや」って煽ったらあかんやん……みたいな感じでひりついた薄い膜が貼りついている、そんな雰囲気がずっと持続します。それと韓国ノワール映画っていい顔の親父が並ぶから画面を観てて気持ちいいよね。下品さがない。

話逸れるけど押井監督っていい顔のおっさんに美少女が一人、みたいなやっぱり気持ちいい画面を作って最終的に美少女だけの『アサルトガールズ』に辿り着いたと思ってるんだけど、ストーリーはともかく、まあ、あれもそれなりに気持ちいいじゃん。

『吸血髑髏船』
日本のゴシック映画! という惹句に引かれて買ってしまった。映像の汚さはそれはどうでもいいんだよ。本当にこれゴシック映画だから。
新青年』に掲載された怪奇短編をそのまま映像化したような佳作。『新青年』自体が古いので今読むと「なんだよ、それは!」ってなるんだけど、あの小説群にあったのは独特の文体で雰囲気を作って結構無茶なお話をそれなりのものに仕上げるテクニックと語り。夢野久作とか小栗虫太郎とか久夫十蘭とか。
夢野久作の短編なんてほとんど文体と語りで勝ってるようなもんばっかりじゃないですか。
『瓶詰地獄』とか遭難した兄妹が無人島に辿り着いて近親相姦したから罪の意識に苛まれて身投げするだけの話じゃないですか。それを短編一本に仕上げるんだから大したもんですよ。
『吸血髑髏船』もそういう「雰囲気」だけで勝ってる正攻法の映画。ゴシックとホラー、怪奇と見せかけて実は過去の船舶ハイジャック事件の首謀者が…。一方、ハイジャック事件で死んだ姉の魂に操られていると主張する少女は妄言かと思いきや背後にはマッドサイエンティストが、という滅茶苦茶な要素が渾然一体となっている。

どですかでん
うわー。インダストリアルだ。って思ってしまった。有機的というよりは背景も登場人物もかなり無機的に近く、けったいな人間関係も「そういうものね」で済んでしまうなかなか乾いた作品。その割にはごちゃごちゃした色彩で、黒澤は初のカラー映画ってことで奮発したんだろうけど、それがよからぬ効果を生んでなかなか前例のない下品ではあるが、どこかに法則性のある本当にドライな映像になっている。ドライなのには理由があって、その一つにこの映画、全然臭くないっていうか臭いすらないのね。それくらい映像は乾いているんですよ。普通ドライにしようと思ったら無駄なものをばんばん削ぐのが常套なんだけど、この映画無駄が一杯あるのね。それなのに匂いがしない。ってことは実は映像に無駄がないんでしょう。あとすごいフラットだし。その癖、集落の人間はえらくドメスティックな関係にあるので誰かが死んでも、誰かが悼むし、誰かが悲惨な目にあっても誰かが助けに入ろうとするので、観客は突き放されることなく観られてしまう。絶望の後を希望が追いかけるほのぼのした作品ではある。

ヒミズ
観てなかった。
かなりノイジーで歪んだ登場人物たちがぞろぞろ出てくるのですが、まあ、彼ら彼女らにも変なのには事情があって、その辺を監督は3.11に求めているんだけど、それはちょっと違う気はする。ただし、絶望の度合いは強く、それを希望が追いかけるという『どですかでん』と一緒で実はほのぼのした作品で、それにごちゃごちゃしたノイズやら聖書やらなんやらが付いているからなんかすごそうに見える。いや、面白くかなり上級に入る映画だと思います。目が離せないし、ラストまで一気に叩き込む。染谷将太君が異常にぐちぐちしている一方、やっぱり絶望しかない二階堂ふみは壊れていたりパンツモロ出しとサービス満点な上に染谷君を気遣ってくれる。
そう。ぼくは染谷くんが気に喰わないのだ。染谷くん、いい加減にしとけや。
じゃあ、この映画の話の軸はなんなのっていうと絶望してる子供を大人が守ってくれる所だと思うんです。渡辺哲が泣けるんですわ。「子供は未来だからそれだけで俺には価値があるんだ!」って染谷くんをかばってヤクザのでんでんに泣きつくところは本当にいい。
でんでんも結局、ほだされる。自暴自棄になってる染谷君に「お前は病気だ。周りが見えなくなって悪い選択しかできない病気に罹ってる」って言ってくれる。
大人が子供を守る。とても当たり前のことなんだけど身に染みる。
要するに大人はみんな、非常にドメスティックな雰囲気。園子温は家族を失った染谷君への希望として新しい家族を提示しているようにも見えます。
『ホテルルワンダ』観た時の「あーやっぱ最後頼りになるのは家族と信頼できる友達だけだな」っていうのを強烈に思い出しました。

相変わらず画面に漫画的な迫力がある。躍動感があるといえばいいんでしょうか。園子温監督ってかなり画面をコントロールしたがる監督だと思っています。
変なこと言うけど、園子温監督ってアニメ作ったらどうなるんだろう。特撮でもいいや。この二つって完璧に近いくらい画面をコントロール可能なジャンルじゃないですか。そういう事に気づいているアニメや特撮って実は限られているっていうか、制作スケジュール的にする余裕があんまりない気はするんですけど。

『サイタマノラッパー』
何もないがあるのよ! とは風香ちゃんの名言ですが、この映画には「何もないがある」
きついわ。地方都市の「何もない」がとてもよく出ている。あのね、白人のエミネムでもね、あいつはアメリカに住んでるし、ゲットーも近くにあるし、ライヴハウスはちゃんとあるし、黒人ラッパーだって居るし、本物の貧困だってあるじゃん!
でも地方都市の中流家庭にはそれはないじゃん! でも黒人文化は格好いいからね、主人公たちは真似する訳。でもあくまでも下手な模倣でしかない。だから薄っぺらい。それは本人たちが一番よく自覚してる。周囲も薄々それを見抜いているから主人公たちはことあるごとに馬鹿にされんのね。でも自覚してるから反論できない。でも、なにもない地方都市だったら薄っぺかろうが模倣するしかないじゃん!

最後は「えそれで終んの」みたいな終わり方するんですけど、その後のエンドクレジットがまた泣ける。
ぼくは零年代の日本映画にバイアスかかってて「大概どれもまあ、見れたもんじゃないだろ」って悪い思い込みがあるんですけど、そのせいでこの映画をかなり長い間スルーしてしまうという損をしていました。

今回の百合!
『Collectors(1)』西UKO。

コレクターズ 1

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西UKOの魅力はなにか。漫画の基本中の基本を守っている所です。基本とはなにか。五感を描くことです。触れば暖かくへこむ肌。石鹸の清潔な香りを放ちながら輝く首筋の産毛。そういうものをきちんと描いている。五感を描けなんて漫画のhow to本には描いてない。ぼくの読んだ範囲だとせいぜい「魅力的な登場人物を描け」とか「展開にめりはりをつけろ」「ジャンルの分類」とかそういうどちらかというとシナリオ的な要素が多い。後は身体の部分の描き方の基礎とかコマワリですかね。
多分、ぼくが五感を描けなんて書いてあるのを読んだのは純文学の入門書くらいのものです。それぐらい現代ではないがしろにされていることなんです。
でも西UKOにはそれがある。『となりのロボット』もいまにして思えばそういうテクニックがあった。だからあれだけ支持されたんです。内容もさることながら、内容に添った説得力があの絵にはあった。皆、無意識の内にそれに反応してるんです。読者も馬鹿じゃない。ちゃんと描けば「これはなにかすごい」って分かるんです。西UKOの絵柄にはそれ単体の力がある。あの絵に妙なポジティブさと多幸感があったのは百合で五感を守っていたからです。あの多幸感とポジティブさは百合の特徴です。『Collectors(1)』はその多幸感とポジティブさがより顕著です。百合クラスタは大体、あの感覚に惹かれて百合本を漁る。そこから枝分かれしていく。少なくともぼくはそうです。

『となりのロボット』はそういう百合と言う本来の形を維持したまま、内容的には新しい百合を描いていた。『Collectors(1)』は内容は旧来の百合なんだけど、五感をしっかりと描いている。ここで培われた能力が『となりのロボット』に生きている。ぼくとしては実は『となりのロボット』より『Collectors(1)』の方が好きです。四コマ形式で絵柄に重点を置いている分、百合特有の多幸感とポジティブさ、少しだけ覗く哀愁の度合いは桁外れです。百合世界の原初的感情「きらきらした儚いものに憧れる」という欲求を十分に充足させてくれます。

あなたが百合クラスタで『Collectors(1)』を読んでないなら是非読んで下さい。あなたが欲しくてたまらなかった百合があります。