『忍法怪奇幻想譚』

 

 

 怪奇幻想というのは非常に分かり易い快楽趣味である。危ないとか、きわどいとか、グロいとか、そういう趣向に乗っかった便利な快楽だ。アブない快楽を愛好する私、というナルシズムに簡単に浸れることもできる。私たち怪奇趣味者は楽な快楽に乗っかっているという自覚がなくてはいけない。では、なぜ名作といわれる怪奇幻想譚は何十年経っても読まれるのか。単に楽な快楽なだけなら直ぐ消費され尽くされ、消える。たとえば山田風太郎はどうだ。なぜ、あんなに再販を繰り返し売れるのか。現在『忍法帖』シリーズが河出文庫と角川文庫で復刊し新たなファンを増やしている。

 2201年6月、風太忍法帖の第五作目『忍者月影抄』が河出文庫から復刊された。かつて女遊びに耽っていた将軍吉宗は現在、奢侈を禁じている。この欺瞞を嘲笑する為、尾張藩主宗春が吉宗の元愛妾を天下に晒すよう尾張柳生と甲賀忍者に命じる。吉宗は対抗策として江戸柳生と伊賀忍者に秘命を下す。

 山田風太郎も危ないとか、きわどいとかグロいとかの文脈で語られ易い作家である。アブない作品を愛好する私に酔える上に説明もラクチンだからだろう。怠惰だ。慢心である。逆に問いたい。それだけの理由で歴史に残るものなのか。

 山田風太郎の第一の魅力として美文があげられる。筆圧が強く説得力がある。華麗で読者を魅了する力に溢れている。

 次の山田風太郎の大きな魅力として時代劇、伝奇小説のフォーマットを巧みに扱う点が挙げられる。時代の隙間にある空白を想像力、絵空事で埋めるのが時代劇、伝奇小説の醍醐味。山田風太郎はこれが桁外れにうまい。時代考証は当たり前のように正確にこなす。恐ろしいのは時代研究が進むほど、空白に埋め込んだ絵空事が説得力と強度を増す点だ。普通は逆だ。

 奇想もズバ抜けている。『忍者月影抄』もお馴染みの奇想バトルは途中から読者の想像をこえてくる。

 これだけの要素があるから現在、山田風太郎作品を読んでも唸るしかないのである。

 他に山田風太郎の作家性である「諦観の念」が作品に色濃く反映されている点が挙げられるが、それは今回論じない。明白すぎるからだ。

 わたしは山田風太郎の大ファンだ。作品の魅力もさることながら、読み返す毎に山田翁から「楽な快楽に乗っかるな」と叱られるからである。