「咲-saki-」「阿知賀」の決断力と行動力、表現的曖昧さ

咲-saki-アニメ

  • 決断力と行動力

早速、記録をつけてみる。アニメとか映画とか。好きな「咲-Saki-」でいいじゃん。
で、いきなり話が逸れるが僕はアンディ・マクナブやR・ラドラムの冒険小説が好きでその映画化である「ジェイソン・ボーン・シリーズ」が輪をかけて好物だ。とにかく観ているだけでハイになるからだ。ハイになる原因はボーンや悪役の行動力と決断力にある。僕は彼らの行動を傍観しているに過ぎないのだが、彼らの行動に決断としての結果が下された瞬間、すげえぜ!と感心する。

ボーンを車で追いかける悪役→しかしボーンは段差の違う橋の下の路→邪魔な車を破棄→橋桁へ走る→既にボーンとの距離は離れ過ぎている→追いかけるのを止めてとにかく銃を撃つ→倒れるボーン→確認の為に橋の下へ→ボーンの姿はない→後ろから悪役を襲うボーン。実は死んだフリ。

というプロセスにある通り彼らは一つの状況に対して選択の幅が尋常じゃなく多い。さらにそれらを選び実行に移すスピード。
科白なんかなくったって行動さえ観ているだけで、そのプロ志向に僕はハイにさせられてしまう。
これはSF作家、故伊藤計劃氏もブログ「第弐位相」内で指摘している。

「咲」に話を戻す。僕は咲シリーズの、特にアニメの対局シーンではハイになる。それは「咲」のキャラ達の選択の幅と決断力、行動力が「ボーン・シリーズ」と同様、プロ志向だからだ。
麻雀とは手元にある牌をいかに選択するかというゲームだ。そこでは様々な選択の幅がある。点数、上がるタイミング、相手を封じる、流す、この他にも枚挙に暇がないけれど、これら全ての決断と行動をいかに素早く正確にこなすかがポイントだ。
「咲」ではキャラが強ければ強い程、これら選択の幅が広く早く、決断と行動が強力になる。
主人公の咲に至っては嶺上開花のみを目指してるんじゃないかと思える程、ひたすらゴールに近づくだけの牌を選び、バンバンカンをかます異常な決断力と行動力の持ち主だ。
僕らは彼女の行動をただ傍観するのみだ。はじめて彼女がアガった時点で「そうだったのか」と例えようもない高揚感に包まれる。

それは他の強豪キャラも同様だ。でもそう簡単に狙った役で上がれるものか。そういった当然の疑問が僕らの頭には浮かぶ。
だけど、納得できる、させてしまう描写が原作にもアニメにもある。今回はその描写について、アニメに限定して色々足りないかもしれないけれど話してみようと思う。
それが表現的曖昧さだ。漫画はもうちょっと、まとまってから。

  • カメラの後追い。

「咲」シリーズの牌の動きを観ていれば分かるが、常にという訳じゃないけれど、カメラは微妙に牌の動きの後を追っている。通常なら待ち変えているところへ牌が走るものだが「咲」は逆だ。上がった瞬間も最初に牌の俯瞰図を見せることなく、倒れていく牌をカメラが追う。カメラが落ち着いてはじめて牌の種類を知る。
これはキャラの行動、決断力が観客の視線の先を走っているからだ。

  • 常に画面が動く。

牌を卓の上で走らせるのは決断力と行動力のあるキャラだけだ。そうではないキャラも当然存在する。普通の打ち手だ。かおりんとか。
勿論、強豪だって牌の手を止め思考する。ただそこで静止画を使って思考のモノローグを流すだけでは、決断力と判断力の補強に支障をきたすばかりか足を引っ張る。
そこで思考画面ではキャラを動かす。加治木が牌を捨てながら次の手を思考するシーンでは掌と身体が動いている。しかし次のシークエンスでは考え込んだ加治木の掌が完全に止まる。すると彼女の代わりに今度は画面が下から上へと動く。
これは他のキャラのモノローグシーンでも同様で常に下から上、上から下、右から左、左から右へ、あるいはカメラが引いたり、ズームしたりと動き続ける。
画面が止まればキャラが動き、キャラが止まれば画面が動く。常に画面は動き続けているので遅滞がない。
次の決断と行動を示唆し、促している。
完全な止め絵の部分では、稲妻を模した枠組みや炎や稲妻といった溜めのエフェクトが代わりに動く。かおりんは豆電球。
大抵はこの直後にツモかロン、鳴きが待っている。行動と決断の結果だ。

  • シークエンスに対して数の多いカット

赤土が阿知賀麻雀クラブ内で「正気か?」と聞いて→五人の目が一画面に表示→雀卓のカバーを取る→練習開始という流れがある。この間10秒もない。5人分の目のシーンは5秒もないから余程のファンでもない限り、どれが誰の目か正確には区別がつかない。しかしカバーをとるシーンに繋がることによってメンバーの決断と行動力が同時に示され、さらに試合前の緊張も醸し出している。
こんなシーンもある。すばらが牌を切るのを躊躇する。照に直撃される恐れがあるからだ。すばらは「こんなもん当たったら事故だってーの!」と決断して牌を切る。切った牌へ画面が切り替わる。そこへ照の顔のアップ「ロン」すばらは目を回す。これも合計10秒もないが、画面の切り替えを早送りすることで緊迫感が生じ、すばらの葛藤と照の問答無用の辣腕が強調される。

これらの表現は目まぐるしく動く。時には視聴者の完全な把握を防ぐ。結果、映像表現として曖昧になってしまう。
だが、キャラクターの決断力と行動力による予断を挟まない画面の動きに物語も牽引され、併せて視聴者も先へと引っ張っられる。
これらは上記した「ジェイソン・ボーン・シリーズ」のポール・グリーングラスダグ・リーマンによる映像手法と同等のものだ。
当然「ボーン・シリーズ」以前以後にも同手法を多用した作品、監督は存在する。「カメラの後追い」はスピルバの「プライベート・ライアン」を例に挙げると分かり易い。「常に画面が動く」は「ロボコップ」でヴァーホ−ヴェンが使った手だ。「シークエンスに対して数の多いカット」は映像派のフィンチャーやトニスコ、リドスコが好んで使用する。これらのなかには「ボーン・シリーズ」には使われていない表現方法もある。表現方法技術の結晶のひとつが「ボーン・シリーズ」に過ぎない。だけどこれはすごいことで、だから僕は興奮させられる。

  • 「咲」の映像による設定、シナリオ、キャラの裏打ち。

列挙したように「咲」アニメシリーズは豊潤な映像手法を駆使している。それが「場の支配」や「能力」「異常なツキ」という和の言い分に従うなら「そんなオカルトありえません」といった展開を支えている。

余談だけど、その集大成が「阿知賀」の玄の決断だ。だからあのシーンはテレビの最終回に相応しいといえる。原作の持つ、選択の幅、行動力、決断力、それを支えるアニメの表現技術が全て合致している。

「咲」テレビシリーズは原作の魅力のみならず、小野学監督とGONZO第5スタジオ、スタジオ5組といった秀逸なスタッフに制作されることによってあれだけの人気を獲得したと断言してもいい。