ヨルムン妄想

アニメ「ヨルムンガンド」の一期が終了した。見栄えしなかったというのがファンとしての正直な感想だ。
ネットの評価も芳しくない。「面白い」「評価すべきだ」という意見も聞くけれど具体的にどこを評価すればいいのかは明言しない。ただ漠然と「面白いと思うんだけど」という意識だけはある。
僕はチナツのファンなので彼女が登場した時はこれで盛り上がるかなと予想したけど、意外と話題にならなかった。
ぱんつはいてないのに。
原作は掛値なしに面白い。僕はファンだと公言する。
アニメはその原作をひたすら誠実に再現しているのにどうしてだろう。
丁度、劇中でココの家族が語られる時のように、正体のはっきりしない捕え所のないものがある。

ヨルムンという作品には明確な時代設定がなされていない。連載時には既に落ち着いていた(そうかな?よく知らない)紛争地帯を現役の戦場として扱ったり、終盤ではアレがキーパーソンになったりと時間軸は正確ではない。
だけどあの世界は明らかに9.11以後を描いた現代だ。それは登場人物が「国家」「国境」「紛争」「民族」「右」「左」「PMC」といった言葉を臆面もなく口にすることで強調されている。

9.11以後の世界とはなにか。それは戦場と日常がごちゃまぜになって区別がつかない世界だ。
ベトナムと冷戦を湾岸戦争によって上書きされてしまった僕らは、最早いつ戦争が、テロが起こっても違和感を抱かなくなっている。朝起きてテレビやネットで「アメリカ軍が再侵攻」と報じていても驚かないだろう。「ああ、またか」と怠惰な思考の流れに乗せて朝食を食べるという行動へと移るに違いない。
数年前、テロリストに一般人が捕まって殺害され、それがネットに流れたあの瞬間「アメリカは制裁を下すだろう」と誰もが考えたはずだ。
某北の国がロケット打ち上げを宣言すると、いつ戦争状態に突入するか予断を許さなくなる。
政治的軋轢と戦争の間に存在しなくてはいけなかったプロセスが、既に僕たちの頭からはすっぽりと抜け落ちている。

ヨルムンでもそういった表現は多々ある。街の中華料理屋の前に米軍ヘリを横付け。白昼のドバイで銃撃戦。最盛期のオーケストラをココはこう語る。「フランスで警官隊を相手に二万発撃った」
ヨルムンは街中に戦場を持ち込む倫理感の持ち主だ。日常と戦場の壁や、移行の手続きが全くない。9.11以後の世界だ。
そこにヨルムンが支持される要因がある。ココのキャラ造形や武器商人という設定も素晴らしいが、それ以前にヨルムンとは僕達の為の物語だ。

  • マンガのはらわた

これらの一連の流れを補強する為にコミックのヨルムンでは現実的な画面構成がとられてる。
それは「カメラアングルが実際に即した撮り方以外では絶対に実行されていない」ということ。
ジョジョドラゴンボールといった漫画のように高高度を高速で飛ぶキャラを前方から捕えるとか、街の上で展開されるバトルを描写するとか「これ誰の視点?」といった漫画にはつきものの、漫画家が創造力を存分に発揮しえる構図をヨルムンは周到に避けている。
「どこかの誰かの視線」「設置できるはずの視線」といった実に映画的な、ドキュメンタリー的な構図でしかヨルムンは物語を語らない。結果、非常なリアリティを獲得している。

  • アニメの嵐

アニメは原作に忠実だ。特にカメラアングルは派手な構図が目立つ現今のアニメ界において、退屈といっていいくらい現実に即したアングルで展開する。原作に即した、と言ってもいい。
これは上記したようにリアリティを獲得する上では尊重したほうがいい手法だからだ。
でも画面はリアリィティを追及したにも拘わらず、どこか間延びしている。

  • 矛盾した映像

ヨルムンは「国家」と「社会」「罪」「思想」「情報」を描いた作品だ。アニメも然り。ただし、僕の経験だけで語ると「国家」と「社会」「罪」「思想」「情報」というものを映像の同一線上で扱うと緊迫した展開にも弛緩が介入してしまう。
「キングダムー見えざる敵」でアメリカ兵が仲間一人を助ける為にテロリストを虐殺した瞬間、僕はこの作品にシナリオの流れを感じた。
ミュンヘン」では逼迫した諜報戦に、しかしどこか居心地さえいいようなまどろみを覚えた。
ワールド・オブ・ライズ」ではテロリストの首謀者が実名で登場した瞬間、リドスコの構成した美術世界が原作によって崩壊したような錯覚を覚えた。

作品自体は秀逸だ。思うに「国家」「社会」や「民族」なんかに「個人の思想や苦悩」というものが挿入されると食あたりを起こす。
非常に相性が悪いというか矛盾した存在だ。当たり前だ。「国家」と「個人」は相対関係にある。
それをリアルな映像でまとめて把握しようとすれば当然齟齬が生じる。キングダムやミュンヘン、ワールドオブライズで覚えた弛緩の正体は多分そこだ。

アニメのヨルムンは物語としては優れているのに、映像に関しては、弛緩したような、間延びしたような、はっきりしていない映像だったのはこの辺に原因があるんじゃないか。

ではリアルな漫画ヨルムンは何故あれだけの緊迫感を持ちえたのか。それは漫画だけが独自のタッチを保持していたからだ。
高橋慶太郎の世界と言っていい。漫画のヨルムンは現実を描いておきながらも実は僕たちの現実とは全く違う、高橋慶太郎という作家だけが頭に持ちえている別世界を描写している。
キューブリックの「フルメタル」はベトナムだけど、あれはキューブリックベトナムだ。
スピバの「プライベートライアン」や「シンドラー」の第二次世界大戦は、スピバの第二次世界大戦だ。
リドスコの「ブラックホークダウン」のソマリアリドスコソマリアだ。

嘘を撮っているのではなく、彼らの作家と言うフィルターを通した時点で別世界になってしまう。また彼らは自分の別世界を制作するにあたって現実世界にあまり敬意を表していない。
作家性が存分に世界を再構築していると言い換えてもいい。だから彼らは世界を意のままにコントロールが可能だ。
高橋慶太郎も独自の作家性によって現代社会を高橋の現代社会に換えてしまった。だからあれだけコントロールが可能なんだと思う。
だからキューブリックリドスコは作品世界を守る為なら制作者同士の衝突を平気で行う。というかリドスコキューブリックが制作現場と仲がいいなんてイメージが僕には全然ない。作家性の強い映画監督を語る時、必ず引き合いに出される言葉は「周囲との衝突が絶えない」だ。

アニメは共同作業である以上、制作の過程で世界観の共有を強制されざるえない。
監督と脚本と美術と、色んな制作現場のひとが共有できる分かり易い、シェアし易い世界にしなくてはいけない。

  • 地獄のモトナガ

だからぼんやりとした責任のない僕の妄想には二期の映像も同じようなものになるはずだという予感がある。
ただし、スタッフが「独自のアニメのヨルムン」という別世界を共有可能になれば、観た目は同じでも全く違うものが生まれる可能性がある。
「国家」「社会」を背景に相反する「民族」「個人」「家族」を描き切った「ホテル・ルワンダ」みたいな傑作に。
原作にはそのポテンシャルがあるし、アニメ一期は後半の軸となる一人、ブックマンが登場したシーンで終わっている。

第一期を観てひっかかりながらも興味を抱いたあなたには引き続き第二期の鑑賞をお勧めする。
あなたが二期を観終えた時、タイトルである「ヨルムンガンド」の意味がよく分かるはずだ。それだけでも損はしない。
そしてその伏線が一期の一話から周到に張られていることにも。

あるいは元永慶太郎監督が現場に銃を持ちこんで一発ぶっぱなすとか。動画に「僕のココはこんな風に歩かないんですよ!」とリテイクを連発するとか。伊藤静の演技を「いままで何して生きてきたんだ」とボロクソにけなしたあとに「あ、ごめん、今のは石塚運昇に言うつもりだったんだ」と平気で言うとか。そういう地獄絵図を繰り広げて元永の構築した世界を他人に壊されないように唯我独尊な監督になれば、もしかしたら。妄想だけど。