『神話の舵を取れ』

 

  アラン・ムーア作、ジェイセン・バロウズ画の『ネオノミコン』(国書刊行会)は優れたクトゥルー神話の一部だ。同時に近年、ラヴクラフト作品への批判高まる潮流に乗った優れたラヴクラフト批判の書でもある。

 断っておかなければいけないのは、ムーアが熱烈なクトゥルーファンであること。ムーア原作の『ウォッチメン』の映画版では変更がなされているけれど、原作では人類全体の敵になるのは疑似的なクトゥルーの邪心だ。そしてムーアはクトゥルー神話と同じくらい魔術に精通している。

『ネオノミコン』を読んで目につくのは全編に渡ってパラノイアックに散りばめられた数えきれないクトゥルー関連のキーワード。ラグクラフトの諸作品を解体、再構築し、舞台を現代に移して、不可解な連続殺人事件を追跡する連邦捜査官達の物語として一つのクトゥルー神話を仕上げるラヴクラフトへの愛。

 そしてやはり全編に散りばめられたどうしようもなく男性優位社会的で、人種差別的で、貧困層への差別。決定的なのはこのコミックの主人公が女性であること。ラヴクラフトは書かなかった。女性が主人公の作品を。そしてもう一つ。膨大な数の書物に目を通していたラヴクラフトが知らないはずがない。「サバトにはセックスが必ず付随するもの」。だがラヴクラフトはセックスを完全に無視した。

『ネオノミコン』はラヴクラフト作品への限りない愛を表明しながらも、上記した作品に対する批判を物語内で行っている。自らがしつこいくらいにラヴクラフトがしなかった(できなかった)描写を実践することで、ラヴクラフトに対して「アンタこれアカンでしょ」と暗に批判している。

『ネオノミコン』は構造としてラヴクラフト諸作品の歪んだ縮小図を作品内部に埋め込んである。縮小図がねじれることで全体を俯瞰した時、作品全体がさらに巨大な歪みを持つことに読者は気付く。それもクトゥルー神話特有の歪み。だから読者は読み終えたあと、忌まわしい人間社会から離れ、アウトサイダーになることでのみ得られる解放感を味わう。

 優れた作品は対立構造を持つ。『ネオノミコン』はラヴクラフトの諸作品と対になることで、極めて高レベルのクトゥルー作品となる。

近年、ラヴクラフト作品に対する批判を含みつつ、彼への愛を表明する作品が続々と刊行されている。ラヴァルの中編『ブラック・トムのバラード』。ジョンスンの『猫の街から世界を夢見る』。ダトロウ編の『ラヴクラフトの怪物たち』。

『ネオノミコン』は続編が予定されている。一巻で判明しない不可解な描写もある。まだ序章に過ぎない。