ヨルムン再考。最終兵器『ココ・ヘクマティアル』

アニメコミックヨルムンガンドヨルムンガンド PERFECT ORDER感想

ヨルムンガンド 1 (サンデーGXコミックス)

ヨルムンガンド 1 (サンデーGXコミックス)

10月9日にヨルムンの二期放映が決定した。
当サイトにおける一期終了直後の感想はこっちです。

んで原作を読み返したんだけど、なんだか90年代臭ヨルムンムンだなあ、という気がしたのです。非常に。
90年代臭っていうのはもちろん、あかほりさとるとかそんなんじゃなくて、原作者の高橋慶太郎が冷戦構造世代だなあっていう意味なんだけれど、七十年代末期に生まれた高橋が80年代ギリギリまで続いた冷戦に反応してしまう(ように見えるんだけど)のは仕方がないとも思うのです。

あ、これはコミック『ヨルムンガンド』の話であってアニメ『ヨルムンガンド』とは一致しませんよ。たぶん。
原作改変もありうるかもしれんし

話を元に戻すと高橋は今は存在しないソビエト連邦を知ってる世代なんだよな。というのは非常にデカイことで、世界にこれ以上は存在しないっていうくらい巨大な大国であったアメリカとソビエトが牽制し合ってたって言うのは、もうこれは歴史の上でWW2くらいに貴重というか、希少というか、二度と体験できない事だと。
現に今、冷戦を知らない世代が出てきているというのは冷戦がWW2と同一の存在になりつつあるという証拠でしょう。

往時のスパイ小説とか有名な「007」シリーズとかでは、第三者の悪意によってアメリカとソビエトが緊迫状態に陥るシュチュエーションが最終フェーズっていうのはものすごく沢山のバリエーションとしてあったのです。

高橋と同年代の僕としては、それはヨルムンでもガンガンに表れていると感じてしまうのです。というか感じざるを得ない。
そういう思考になっているのかもしれない。
基本的にヨルムンの戦場って均衡が取れているんですよね。それがココの介入によってパワーバランスが崩れてしまう。
その辺がココの見せどころな訳だけど、ココが到着するまでは戦場は膠着状態です。
戦闘が率先して行われている場合も多々あるんだけれども、少なくともココが到着した時点では一時停戦状態で、みんなが兵器を欲しがってココに群がる。
以降、ココの介入によって巨大な勢力が小勢力を叩く湾岸戦争ライクな戦争体制、WW2みたいな独裁者に対抗する一致団結戦闘態勢、ゲリラが大国に反抗するベトナム戦争っぽいシュチュに移行するっていうのがヨルムンの戦場のパターンです。ヨルムンは戦争の歴史の集大成な形になっています。
すると、僕みたいなバカは停戦状態(冷戦状態)を破る契機のココさん=核兵器とか考えてしまうのですよ。こういう思考をしてしまうオレっちも90年代だなあと。

んでいまのフィクション世界で核兵器が有効かっていうとそうでもない。もうFPSとか、映画とかでも核兵器が街のど真ん中で爆発しちゃったのでどうしましょうみたいなクライマックス的な扱いが非常に多いのです。
使ったら最後だぜ、という危機感がない。というかドラマを盛り上げる道具になっている
カクヘイキヲツカウ、イケナイヤツ。オレ、ユルサナイ。シンダナカマノタメニ、タタカウ。コレ、セイギノミカタノシゴト。

考え直してみて脅威なのは核兵器に限らず、アルティメットウェポンとされていた細菌兵器や宇宙戦術がフィクションの世界ではもうガシガシに使用されている事実で、むしろ現代においては、それを使用した後の世界の戦場はどうなんでしょうという扱いになっている。
ジャーヘッド』でも細菌兵器に対する訓練と、対細菌兵器の薬を飲むシーンが喜劇として描かれているんですが、どう観てもそんなもんは効果がありそうな気がしないんです。これは明らかにおバカなブッシュが「大量破壊兵器は存在する」として架空の想定のもとでガンガンに虐殺を行った行為へのパロディである訳です。んなもんは存在しないよ。
訓練も無意味だ。というかもし戦場でそんなもんが使われたらそんなショボイ装備と訓練で通用するかバカ。

そしてさらにこう訴えます。みんな死ぬかもしれないけど、対究極兵器の装備をした連中が戦場の跡を継いでくれるだろ。
戦争は続行される。消耗品の俺たちは戦争のフェーズにおける第一段階に過ぎない。

そういうのを観ているとこの世の中に最終兵器っていうのは存在するのかという気がしてくるのです。
ヨルムンでもココさんが武器を提供した途端に戦場が再びヒートアップするのです。ココさんは冷戦をブチ破る契機ではあるけれど、最終兵器な彼女が戦場を去った後でこそ、本当の戦火が生まれるのです。終末は訪れないのです。

こういう思考でいくとウォッチメン』はいいタイミングで映画化されたなと。
ウォッチメン』では「どんな究極兵器でカタをつけるよりも牽制し合う状態が続くのが一番の平和だからずっとこのままでいようぜ」とかいう結論が「世界団結」というオブラートに包まれてズカっと提示される。
「敵を外部に作った世界団結は虚構」というのは冷戦世代のニクソン政権があの時代まで続いてあの後も続くという設定から明らかです。

ネタバレになるといけないのでこれ以上は考察できんし、言っちゃいけないんだけれども、ココも一見、似たような思考をします。
キャッチフレーズの「目標は世界平和」とはそういう意味ともとれます。
しかし、近年の世相が示すように究極兵器での抑圧、牽制というのはグダグダになってて有効ではないのです。
それはココさんも劇中で告白するように熟知しているし、周囲からも指摘されます。
ヨルムンの終盤の状況を『逆襲のシャア』とか説明できたのは90年代までで、『逆襲のシャア』のラストがそうであったようにあの結末はファンタジーでしかないのです。あのラストが今観るとどことなく白々しい予定調和っぽいものに映るのも、現代においてはファンタジーでしかないからです。

ココさんが最終的に提示するのは膠着状態そのものではなく、それでも戦争は続くからどうしましょうという、9.11以後の世界への人間性に対する問いかけです。そういうことをするのには非情な決断もいるのだよとココさんはヨナ君を通して読者やあるいは視聴者にも突きつけてくるのです。そういう行為に対する堂々としたココさんのスタンスを耳にすると僕としてはどうしようもない恥ずかしさを感じてしまうところとか、決断主義も含めて、やっぱりタカハシ君は多感な時期に冷戦を体験してしまった90年代のフォロワーではないかと言う気がしないでもないのですよ。