ファンタジーの頂点のひとつ。『かみちゅ!』
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- 発売日: 2010/06/02
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- 作者: 鳴子ハナハル,ベサメムーチョ
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先月広島の尾道に『かみちゅ!』の聖地巡礼に行って来た。その二日後には僕は『かみちゅ!』のBDBOXを注文してしまった。
さらにここ数日ぶっ続けで全十六話を消化してしまった。6年も前の作品なのにどうして夢中になってしまうのだろう。
それは『かみちゅ!』が傑作だからだ。
『かみちゅ!』を日常系とするアニメブログが目立つ。しかし僕は『かみちゅ!』を日常系という枠には納めない。
『かみちゅ!』は私見ではファンタジーの部類に属する作品だからだ。
- 氾濫する日常系アニメ
日常系という枠組みがなにを意味するか不勉強な僕には把握できない。とりあえず流通している言説に沿うなら「キャラクターたちの日常をゆるく描いた作品」あるいは「僕たちが住む現実世界の日常に根拠を持つ作品」となるのか。
その文脈で『かみちゅ!』を語ると確かに日常系に分類可能だろう。
しかし『かみちゅ!』は日常系じゃない。ファンタジーだ。僕たちの知らない別空間を描いているからだ。
八十、九十年代にラノベがアニメの原作として重宝され、同時にファミコンでも剣と魔法の物語が発売されはじめた時から一般のアニメ、ゲームファンの間でも頻りに「ファンタジー」という用語が使われるようになった。
でもそれは本当にファンタジーなのだろうか。
トールキンの『指輪物語』やグインの『ゲド戦記』エディスンの『ウロボロス』ルイスの『ナルニア国物語』等は確実にファンタジーだ。それは別空間を描いていたからだ。
アメリカにもイギリスにもどこにも存在しない空間を精密に簡潔に描きだしていった結果が『指輪物語』『ゲド』『ウロボロス』『ナルニア』だ。文章で知らない風景を描写され、指摘されて読者は気付く。「知らない風景だ。僕たちの知ってる風景じゃない」
日本のファンタジーはそれらの模写に過ぎない。のは別に全く構わない。問題はある時点でそれらがテンプレ化してしまったことによる。似たような設定とキャラクター、どこかで見たようなストーリー。みんながルールを共有可能な世界。
その時点でファンタジーはファタンジーじゃない。みんなが知っている、説明しなくてもほぼ通用する世界価値観という点においてそれはむしろ「日常系」に分類される。
- 現実世界におけるファンタジー世界の構築。
ファンタジーとはなにを指してそう呼ぶのか。僕たちの卑近な世界を扱っていようとも、別の視線で細部まで描かれることで生じる現象そのものだ。その現象によって僕たちが知らない新しい世界が創造される。
『かみちゅ!』は80年代の広島、尾道が舞台になっている(作中では尾道は「日の出町」という架空の町に設定されている)。
『かみちゅ!』は尾道に住む、一晩経ったら神様になっていた中学生とその同級生、家族の日常を軸に物語を描いている。
- 中学生の神様の為にリアルな日常と尾道を描こう。普段認識している現実を凌駕するくらいに。
『かみちゅ!』は日常の描写が半端じゃない。人物の動き、顔の表情ひとつにしろ「確かにこういう動きはするな」という細部にまで手を入れる。僕たちが普段スルーしてしまうような人間の動きを『かみちゅ!』は徹底的に描く。
僕たちはその動きを知っているはずだ。でも『かみちゅ!』というアニメに指摘されるまで全く留意していなかった。
それほどまでに『かみちゅ!』はリアルな動きを捉え、再現している。
人間らしく動くことを前提にしているので、アニメが持つべきキャラの端正さや美しい見栄えなどは二の次にされている。
その為に作画が崩壊しているような印象を受けるシーンさえある。
それは尾道という舞台も同様だ。『かみちゅ!』は尾道の日常も徹底的に描く。萌えアニメでありながら、時として激しく萌えアニメという自分の存在を否定してまで尾道を微細に描く。
「これは萌えアニメではおいしいシュチュエーションだな」という展開が『かみちゅ!』にはふんだんに用意されているが、『かみちゅ!』は萌えに走らない。萌えに使用するべき箇所を割いて代わりに80年代の尾道やその日常を描写する。
萌えに使用するべきシーンと引き換えに細部描写をとる。
しかし『かみちゅ!』が現実と接点が皆無なアニメーションというメディアである以上、尾道の日常を完璧に再現するのは難しい。
そこで『かみちゅ!』は圧倒的な細部を重ねてイメージを醸造する。
風の音、波音、尾道の全景、洗濯物が窓に当たる音、蝉の鳴き声、学校の日常風景、尾道の日常風景、カラスの鳴き声。ポンポン船のエンジン音。尾道特有の頭上を走る大量の電線。地形故に住宅地と海岸が異常に近接している線路。向島と本土を繋ぐ尾道大橋、フェリー。斜面に沿って建築された民家。正月に聞えるお祭りの楽の音。冬の海に漂う蒸気。
萌えと引き換えに『かみちゅ!』は上記の人物の動きと併せてこれらを大量に導入する。頻繁に挿入される尾道の風景は、時としてドラマ性や萌えさえも阻害する。最終話ではロマンチックなシーンにさえ尾道の全景を組み込み「ここは尾道」と主張する。
しかしこの細部の導入によって『かみちゅ!』はアニメの尾道と日常のイメージを限りなく現実に近づける。なぜならこの景色すらも、僕たちが普段スルーしがちなものまで描いているからだ。
『かみちゅ!』を昔を懐かしむ映像アーカイブとして捉えているひともいるようだが、それは間違いだ。
尾道を微に入り細に入り再現しているのは往時を懐かしむためじゃない。ディティールの補強だ。それが正確に過ぎないからアーカイブとしても機能する。
八話の作画監督だった山下祐は「(監督の)舛成以外は現場は同世代で無駄に熱かった」とコメントしている。
原作を担当したベサメムーチョの一員である監督の舛成考二(ベサメムーチョとはプロデューサーの落越友則、監督の舛成考二、脚本の倉田英之の合同ペンネーム)もそれなりに熱かっただろうが、どこか一歩距離を置いていたことがうかがえる。
だから『かみちゅ!』は映像アーカイブという思考をしてしまうひとは恐らくテンプレな思考をしてだけだ。しかもテンプレ思考をしている自分に気が付いていない。
美少女がメインならストーリーがない萌えアニメ、昭和が舞台なら映像アーカイブ。作品がそうではなく、そのひとがテンプレ化しているだけだ。
よほどの仕事をしていない限り、アニメには、作品には、ちゃんと持ち帰るべきものがある。小説、映画、アニメ、音楽、絵画、あらゆるものにそれは言える。
勿論、僕でも観ていてムカつくくらい手を抜いた作品は存在する。テンプレ思考に応えるためのテンプレ作品。
- ボードリヤールの提唱する消費型社会において、中学生の神様はどういうスタンスをとったのか。
物語が氾濫する現在、作品にとって重要なのはそれが内包する価値の有無ではなく、いかにイメージを共有できるかになった。現代フランスの思想家ボードリヤールは著作物を通して消費社会では、商品の価値より宣伝が意味を持つと説いた。
アニメも然り。僅か数十秒のテレビやネットの番宣、雑誌の1P弱の紹介文に目を通し、数話だけ消化して「こういう話か」と納得させる事項が中身よりも重要とされる。そうしないと作品が溢れる消費型社会の現代において視聴者は作品選択の基準が困難になる。
制作者サイドの視点で語れば、いくらいい作品を作ろうがイメージの伝達に失敗すれば視聴者に選んでもらえない。
極論を言うとイメージの共有さえ達成できれば中身なんかどうでもいい。
ドラッガーと女子高生、野球部、甲子園といった誰にでも共有可能なイメージを優先させた『もしドラ』が前代未聞の大ヒットを飛ばしたにも拘わらず、肝心の中身がからっぽだったのにはそこに要因がある。
『もしドラ』の原作者、岩崎夏海は、AKBをヒットさせた秋元康の元で働いていた。この事実は「表情をみただけでそのひとの感情が大体分かる」と豪語し、作品にも反映させた彼にとってはとても重要なことだったのだ。
ネット社会においても作品自体には価値を置かず、宣伝文句や伝え聞いた評判、マスメディアが発表した売上数だけで作品を評価するといった状態が、主にまとめサイトを中心に日常茶飯事と化している。
ともかく、ディティールの小さなイメージを一つの方向に向けて大量に積み重ね集束させて統合すると大きなイメージが完成する、というのは『TARITARI』の項目でも触れた。『かみちゅ!』は尾道に価値を見出し、追求し尽くした作品だ。
しかしビジネスでもある以上、上記したようにイメージの共有も避けて通れない。そこでスタッフがとった手法が価値を訴える手段と同じ『かみちゅ!』の世界観を細部まで繰り返し描く、ということだったのではないか。
一話の冒頭でゆりえが「わたし神様になっちゃった」となんの前触れも無く光恵に告白するが相手にされない。それを耳にした祀は、尾道を背景にしながら、バカな方法から正統な方法まで、あらゆる手段を講じてゆりえが神様になったことを証明しようとする。
ここで既に『かみちゅ!』はコメディであることや八百万の神の神道、土着信仰をベースに描かれていること、三人が作品の中核であることやそれぞれの性格、尾道の景観がストレスフリーで繰り返し説明されている。
『かみちゅ!』のスタッフは尾道と『かみちゅ!』の世界観に価値を見出した。次はなんとかしてスタッフの見出した価値を、僅かでもいいから視聴者にイメージとして共有して欲しい。それは先に書いたようにスタッフが度々萌えのルールから逸脱しつつ、懸命に『かみちゅ!』の世界を繰り返し訴えたところからも明らかだ。
『かみちゅ!』はテンプレ作品とは手順が真逆になっている。テンプレ作品では価値よりイメージの共有が優先されるが、『かみちゅ!』は価値が優先されている。その後に共感が必要とされてイメージの共有に手を伸ばしている。そこには矛盾を含むスタッフの思考錯誤の痕がうかがえる。手慣れた手順で施される宣伝と、価値の主張。
随分話が逸脱したが、誰も知らない価値を異常に描くという一点において『かみちゅ!』は既存のテンプレ作品とは違う、新しい別世界を創造している。
『かみちゅ!』とは80年代のリアルな尾道が舞台となっており、そこには中学生の神様がいて手軽に奇跡が続発する物語。
- 厳密な考証の上で中学生の神様を作ろう。
でも『かみちゅ!』はそこに留まらない。細部を描写する作業に利用可能な箇所はまだ残っている。
神様は中学生という設定の細部だ。
『かみちゅ!』は日本の八百万の神を奉る神道、土着信仰をベースにしている。主人公のゆりえがいきなり神様になった背景にはこれがある。そして尾道は圧倒的な神社の数でそれを体現している土地だ。
八百万の神や神道、土着信仰の特徴は「差別しない」「理屈を必要としない」だ。誰にでも平等に理屈抜きで、何の前触れも無く不思議な現象が起こる。柳田國男の著作を読めば納得がいく。
これだけでもかなり理不尽なのに『かみちゅ!』はその現象を説明しない。
起きた現象だけを画面に描きだす。傍から見ているだけでは訳が分からない。しかしリアルに忠実に再現しているので筋は通っている。
筋は通っているのに理不尽。
『かみちゅ!』ではリアルな80年代の尾道を舞台に中学生の神様が活躍し、理不尽な出来事が頻出する。しかもそれは厳密な考証を根拠にしているので全く問題がない。だから登場する人物は不思議な出来事に遭遇してもあまり驚かない。
- 中学生の神様をつくることとはディティールのはなしに落ちつくのですが。
これってもう僕たちが知っているアニメの日常じゃない。別世界のアニメだ。
これが僕が『かみちゅ!』を日常系ではなくファンタジーとする所以だ。
鳴子ハナハルのコミックもディティールの再現においてはアニメと同じくする。
ディティールに手を抜くと『かみちゅ!』はファンタジーではなくなるからだ。おそらく一般に流布している言説に沿った「日常系」コミックになってしまうだろう。
コミックオリジナル要素を混ぜ込みながらも鳴子ハナハルの『かみちゅ!』がブレなかった要因は、鳴子ハナハルの漫画家としての力量は勿論のこと、細部に手を抜かなかったからだ。
『かみちゅ!』は思春期につきものの恋愛描写にも手をぬかない。
恋愛描写自体は単なる青春ものでありながら、きっちりと描かれているので別空間を破壊したりはしない。
丁寧に描かれた各エピソードも喜劇悲劇が混ざり合い、笑いと涙を誘う。
やさしい視点とエモーショナルなセリフに溢れており、過度な刺激で視聴者を無意味に挑発する愚行は絶対に犯さない。
子供は不器用ながらも子供の成すべきことをし、大人は子供を助けはするけれども守るべき一線は越えない。
声優も選別してある。主人公の一橋ゆりえにはアイドルグループ活動を経験してはいるものの演技に関してはド新人のMAKOを起用した。三枝祀役の森永理科、四条光恵役の峯香織は新人の域を脱しつつあり、独自のポジションを獲得している最中だった。
その周囲にはベテラン声優が配置されている。
劇中にはドン臭いゆりえを周囲がサポートする描写が頻繁に挿入されるが、それは声優陣の面子を反映しているかのようだ。
- こうして神様で中学生が誕生する。
こう書くと『かみちゅ!』はすごく面白そうな作品に思えてくる。
その通りだ。6年前に制作されたこのアニメは冒頭に書いたようにかなりの傑作だ。
それはなににおいても『かみちゅ!』が稀有な「正統ファンタジー」というポジションを獲得しえた作品だからだ。
- 作者: 柳田国男
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- 作者: 昭文社旅行ガイドブック編集部
- 出版社/メーカー: 昭文社
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- 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
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