神は細部に。後半。情報の主導権を制作が握った後半の『TARITARI』

アニメTARI TARI感想

CSで観ていたのでやや遅れ気味で『TARITARI』の最終回を観た。
最初は単純なエンターテイメントだったのだが、六話の和奏の吹っ切れと同時にこの作品はかなりキレのある物語として機能しはじめた。
エンタメとしての片鱗は残したままラストを走り切った感がある。

僕は以前「『TARITARI』はエスタブリッシュメントショットが非常に多い」と取りあげた。
その最後に話数が進めばエスタブリッシュメントショットは減り、ブラッシュアップされていく、と書いたが後半はエスタブリッシュメントに限らず、あらゆる面でブラッシュアップされていった。特に説明が減った。
前半六話との大きな相違はこの点
につきる。
説明が減ったことで『TARITARI』はキレのある作品へと変化した。
一方、説明が削られたことで全体を把握できなくなる視聴者も生じた
少なくとも僕の周囲ではそうだった。理不尽、無理のある展開、あの設定は必然性があったのか
この記事ではそういう『TARITARI』後半が説明しなくなったことを最低限の範囲で、『TARITARI』厨であり紗羽ちゃん萌えの僕が作品擁護として説明する。
というのは冗談だけど(笑)、そういう経緯があった為、後半のテクニック解説の折りにも目についた問題点に触れた
記事が長くなったのはその為だ。すいません。書いている最中、随分、分かり切ったことを説明しているなあ、という気分に何度も襲われたので「それぐらい言われなくても知ってるよ!」という方には申し訳ない

  • 設定から展開を広げる。

これは和奏とまひるの関係にとどまらなくなった。あらゆる人物の設定から物語を展開しはじめた。
それも三者による介入によって奇妙にねじれていく展開に。

まず紗羽の夢である騎手になる、という展開は以前から馬に乗るシーンが度々登場していた。この設定に親という第三勢力が介入することにより親との確執から夢の挫折、新しい希望の獲得へと目まぐるしく変化を遂げていく
その際、和奏がアドバイスを施し、紗羽に一端距離を置くことをすすめるが、これは和奏のまひるとの確執を解消した設定をそのまま紗羽にも当て嵌めている。ちなみにまひるの回想に口語が増えたのは確執が過去になったからだ
ウィーンの戦隊ヒーローへの憧れの設定としなびた商店街の売上を伸ばす町内会という設定、オペラにはお金がかかるという展開に基づいたアルバイト展開は、和奏と紗羽の「挫折しながらも夢を諦めない」という未来に対する結論をコミカルに表現したものだ。白祭中止と再開も然り。和奏と教頭、まひるの関係についてもこれも和奏とまひるの関係をそのまま教頭にはめ込んだだけに過ぎない。
まひるの遺品だとばかり思っていた楽譜も、実は教頭とまひるの合作というのは、歌という設定が対立構造を一気に纏めてしまうのに決定的だ。
ラストの太智の紗羽への告白と、紗羽にバッサリ断わられるのも同様だ。この繰り返しで行くときっと太智は別の形で他の誰かと恋を成就させるだろう。

監督の橋本は制作日記で、
「13本を1,2話で1つ、3,4話でまた1つのお話という風に2話ごとで構成してあります。」
と語っている。基本設定に対し、ワンセット二話ずつ話を展開させている。

『TARITARI』は最後まで笑いと怒りが同居したまま、過去と未来がそれぞれの志向性を維持したまま走り切った。
だからああいう形になったんだと思う。
その証拠に誰もが「『TARITARI』らしい最終回」と捉えたはずだ。設定から物語を展開すれば最後までブレないからだ。

優れた物語は常に対立構造を持つ。『TARITARI』は感情はともかく時間も対立させた。過去になにがあったか。現在なにが起こっているか。それらは今後どう結合していくのか。視聴者はこの優れたミステリ、サスペンス構造に目が離せなくなる。
『TARITARI』は設定厨だ。きっと設定集を作成すればとんでもなく分厚い書籍に成る筈だ。
それを忠実に守っている(守らされている)スタッフは好きだなあとしかいいようがない。

  • 縮小図をあらゆる細部に嵌めこむ。

つまり奇妙な展開も俯瞰すれば結局は個人個人の設定を生かして同じテーマを何度も強調しているに過ぎないだけだ。
それが縮小図と化しただけだ。
縮小された話がファクターとして機能し、徹底的なリアルさの積み重ねによって細部から全体がねじれていくので奇妙な感覚を受ける
しかしこのミニマムな部分にテーマ、主題を込める、というテクニックを『TARITARI』は説明しなくなった。
前半の『TARITARI』だったらくどいくらいに第三者的なキャラに喋らせていただろうが(来夏あたりじゃないか)そういうことをしなくなった。
どの展開にもミニマム、縮小図を嵌めこみ、簡潔に示すようになった。

  • 設定から展開を広げる・其の二「なぜ歌がテーマ?」「なぜ急にマンション建設計画?」

ここで「設定から展開を広げる」に戻ってこの項目を補強させ、問題点を解消する。

「歌」は基本設定の時点で和奏とまひるの関係があった。この「歌」は声楽部を離れた来夏が、接点があまりなかった紗羽、来夏と和奏、太智、ウィーンと結束する契機になっている
この五人の結束の経過がなぜ上手くいったかは「セリフ」の項目で述べる
設定展開として和奏はまひるとの確執を解消し、歌を自分のものにした。次に女子三人はオペラを観に行く。これが白祭のオペラへと展開していく。このオペラによって、五人のなかで一番歌にこなれているという設定の来夏が俄然リーダーシップを発揮し始める。来夏の展開だ。来夏は白祭までこのリーダーの座をずっと維持する。さらにオペラを上映するには五人だけでは足りないという展開へ話は流れ、白祭中止を余儀なくされた生徒たちは合唱部の熱気と「最後の白祭」という逼迫した展開に協力を申し出る。そしてクライマックスへと続く。

第一話で来夏が声楽部を離脱し、ラストの駅前で一人「リフレクティア」を唄っていた姿に四人が迎合する時点で、街をあげての白祭は決定事項だった。

なぜ来夏は「リフレクティア」を唄っていたのか。「リフレクティア」は一部のメンバーが悪名高いeufoniusのシングル「リフレクティア」のカヴァー曲だ。「reflect」(反射)と「tier」(層・階)を組み合わせた造語となっている。
この先、人間関係が多数構造と化していく展開を歌ったのかもしれない。また『TARITARI』は光が差し込むシーンが異常といっていいくらいに多い。
リフレクティア」は『TARITARI』を制作したP.A.WORKSの担当したアニメ『true tears』のOPとして使用された。単にセルフ・リスペクトだけなのかもしれない。和奏とまひる、教頭の合作はリフレインが多い。これかもしれない。説明したように『TARITARI』は設定を使って同じテーマを反復している。これかもしれない。セリフのなかに他人のセリフが入っていることもある。
理由は山のように見つかるが、このあたりは『TARITARI』厨の僕の妄想だ。

話を元に戻す。なぜ、急にマンション計画なのか。これは別に急な出来事ではなく、二話と三話で校長がホイホイと合唱部・バドミントン部を承認した時点で伏線が用意されている。マンション計画はこの時点で決定していたので校長は強気にでれない。むしろ生徒に申し訳ないのでギリギリまで好きにさせてやりたい。


大まかな設定と1クール放映という項目が決定した時点で『TARITARI』スタッフは全体の設計図を構成していたはずだ。
それが原作付きにはないオリジナルアニメの強みだ。

大ヒットアニメ、まどマギ」の構成がエキセントリックながらもまとまっていたのは、『TARITARI』と同じく、設定から話を展開したことによる。また1クールと大まかな設定が決定してから制作を開始したので、設計図を引きやすかったのだろう。「まどマギ」で議論を呼んだ脚本担当の虚淵玄は2009年の時点でオファーを受けている。本放送は2011年一月だった。
あの奇妙に歪みながらもブレなかった展開は、僕たちがテレビの前で目にする一年前から練りに練って計画されていたと踏んでいいだろう。

  • リアルな会話。

ネットでは、少なくとも僕の周囲では合唱部に所属する個人のスタンスを「お気楽」と判断し「その癖批判されると切れる」と指摘する意見が少なくなかった。それが良い悪いは別にしてだ。
またけいおん!』と比較する意見もあったが、これが不勉強な僕には理解できなかった。
けいおん!』は一方視点で描かれているのに(けいおん部」が意味も無く優遇されていたのは物語全体が「けいおん部」の視点になっていたからだ。一部のラノベの主人公が意味も無く優遇されているのと全く同じだ。よくネットで見受けられる一部の対象に対し、一方的なバッシングを行うと言うのは一方視点が引き起こす特有の現象だ。セカイ系作品が「閉塞的」と評されるのは一方視点の純度が限りなく高いからだ。あ、僕は『けいおん!』大好きですよ)のに『TARITARI』は多数視点で描かれ、ただ起こった現象だけを映像にするというリアルな手法をとっているからだ。
語り口の時点で全く違う両者を比べるのはあまりいい手段ではないと思える。

話が逸れた。『TARITARI』ではこの多数視点を採用したので、キャラの行動の元である心理描写を簡潔に示した。それを補うために相対的な喋り方や行動、説明されていないキャラの行動を他のキャラを借りて説明することが必要とされるようになった。その結果として全編を通して一見歪ともとれる展開が見受けられるようになる。特に会話だ。

例(1):七話の会話から抜粋。合唱部の部室にて。

来夏「違うんだって体育館のステージでやるんだから。体育館一杯にお客さん集めて、わたしたちの最初で最後の晴れ舞台なんだよ」
ウィーン「サイも来る?」
紗羽「サイはもういい」
和奏「普通に合唱じゃ駄目なの?」
来夏「うーん、でもそれじゃ声楽部にまけちゃうよね。やっぱり合唱は人数多い方が迫力あるし」
紗羽「教頭には負けたくないな
和奏「うん
ウィーン「じゃオペラはどうかな」

主体性に推された無邪気さと同時に、教頭と声楽部に負けたくないという相対関係、また来年はない、という逼迫感が整理されないまま会話にごちゃまぜになっている。これが細部からねじれた展開と化していくが、最終的にはこの会話が発火点になってクライマックスにまで繋がってしまう。
この会話の時点で既に微妙にずれてきている。

これをキャラの深みが設定と絡んでいると受け取るか、高校生のお気楽な会話と行動ととるかはこの記事を読んでいる方に任せる。
僕は前者だ。この会話には全員がなぜ合唱部をはじめたかという経緯が縮図として詰まっているこの感情があったからこそ、一話の最後で「リフレクティア」を一人駅前で歌っていた来夏に迎合した。ラストで来夏がリーダーシップをとるのはこの時点で伏線になっている。
僕はこの会話そのものに合唱部という存在自体がミニマムなものとして嵌めこまれている気がする。

例(2):八話の会話から抜粋。音楽準備室前にて声楽部と対峙する合唱部。

声楽部「先輩達ってお気楽でいいですよね」
紗羽「うるさい」
和奏:来夏「え……?」
紗羽「笑わせないでくれる?教頭に敷いてもらったレールをただ走ってるだけのひとがなに偉そうなこと言ってんの?
知らないからってなにもできないとおもってる?そのお目出度い頭でものを考えるのもいい加減にしたら?」

和奏「紗羽……」
紗羽「まだこれからなのになんで無理って決めつけるの?」
来夏「……あれ?」
紗羽「うまくいくかもしれないじゃない!それなのにチャンスも貰えないなんておかしいよ!」

紗羽のセリフには前日父親に指摘されて気付いた自分の甘さと、それを擁護したいという本心がやはり相対化されたまま、整理されることなく、それ故に混乱した不気味な形で会話と化している
「うるさい」から「いい加減にしたら?」までは紗羽が父親に指摘されたであろうこと。紗羽の夢を目指すスタンスには色々問題があった。夢中だった紗羽は第三者が見れば呆れる様な失敗を犯す。それが全て父親の指摘に縮小図として表現されている。
それ以降の「まだこれから〜」は紗羽の言い分だ。これも夢中で周囲が見えなかった紗羽なりの言い分の縮小図だ。一話から八話までの紗羽の行動の動機は全てこの科白に凝縮されている。紗羽が合唱部になぜ迎合したのかこれで解決するはずだ。そして問題を処理しきれていない紗羽は声楽部に挑発されたのをきっかけに分裂思考的な科白を縮小図として垂れ流す。

この科白は、紗羽が父親と同じ科白を声楽部に投げつけられたのを契機に、鸚鵡のように再度自問自答しているに過ぎない。
普通、人はおしっことうんこを人前でしない。オナニーもしない。そういう個人的な行為を人前でやれば周囲は驚愕し、こいつは危ない、と判断するからだ。例えが極端だけれど、混乱している紗羽は判断がつかないまま人前でいきなり個人的な行為を行ったに過ぎない。このシーンの直後、紗羽は和奏に腕を掴まれ我に帰る。
これを、キャラの心理葛藤を示す為にスタッフが紗羽にとらせた残酷なセリフと行動と判断するか、自分たちの問題を棚に上げての短絡思考ととるかはこの記事を読んでいる方に任せる。
僕はやはり前者を選ぶ。

こういったセリフの生々しい残酷さや不快感は『TARITARI』のテーマである「葛藤」を縮小化してそのまま会話にはめ込んでしまったからだ。
もし『TARITARI』が全編に説明を施していればこのような唐突感はなかっただろう。
しかし、キャラが理不尽とも思える行動をとる前後には必ずその理不尽な行動の要因ともなるべき要素がキャラの周囲で勃発していることは必ず描写されている
単にそれをいちいちキャラの口を通して説明しなくなっただけのことだ。ブラッシュアップされた展開に対し一部の視聴者がよく分からない状態になったともいえる。
とりあえず「青春」で片付けている場合もあるようだ。この「青春」が『けいおん!』と比べられる要因になっているのかもしれない。確かに『TARITARI』は青春を扱っているが、別にここで起こることは青春特有のものではなく、一般の人でも同じ状況になればやっていることだ。自分はそうではない、と主張する人もいるかもしれないが、その感覚はそのまま『TARITARI』のキャラにも当て嵌まる。多人数視点でこそ起こる現象だ。

『TARITARI』のセリフには例に挙げたパターンの他にも「そんな御無体な」「理不尽だ」「短絡思考」と受けとられがちなセリフが多々見受けらるが、そのほとんどに行動の元となる葛藤や和解、動機などが詰まっている

  • 「物語の善意」と「視聴者への甘さ」を両立させた稀有な作品。

現今の一方視点のアニメでは「葛藤」をオブラートに包む。あるいは避ける
しかし多数視点の『TARITARI』はあまりオブラートに包まない。これがもしラノベブロックバスター映画のような形態だったら編集者やプロデューサーに「客に不快を呼び起こす」「つじつまが合わない」「荒い」として即カットか変更を求められるかもしれない。
しかし制作陣は多数視点の不快感を選んだ。物語としてはこちらのほうが正解だからだと僕は思う。
ただし、舞台を「青春」にして全ての不快要素を無効にしようとするあたり、まだオブラートに包んでいる感は否めない。

この相対化した問題を悪にも善にも区別しないという無差別的な視点は『もののけ姫』以降の宮崎駿や『太陽の帝国』以降のS・スピルバーグが獲得している。
これら以降のこの二人の作品が度々「気持ち悪い」「整理がつかない」「不気味」「混沌」と称されるのは相対化した問題をオブラートに包まないからだ。奇妙なねじれた展開も同様だ。
無論、他の映画監督も獲得しているだろうが、プロデューサーの意向で変更されている
ブレラン』のリドスコや『未来世紀ブラジル』のギリアムがラストを巡ってプロデューサーと争った経緯からもそれは明らかだ。
ただし、当時のリドスコやギリアムはまだ大御所の域に達していなかったので変更を余儀なくされた。
宮崎もスピバも大御所になってからこそだ。宮崎は多少暴走している感が否めないけれど。

そして皆がオブラートに包まれた一方視点作品の方が受け取り易い、というのは『ナウシカ』のラストでオババ様が「王蟲と心が通じ合えた」というどうしようもなく恥ずかしいセリフを口にするシーンで感動してしまったり(僕もした)『激突!』『ジョーズ』で悪役を倒した瞬間にスカッとするといった現象で明示されている。
こうすることで『ナウシカ』『激突!』『ジョーズ』では観客は誰を応援すればいいのか明確に分かるからだ。

一方、スポンサーの意向に邪魔をされなかった原作の『ナウシカ』は多数視点を採用しているので終盤に向かうにつれ、キレのある混沌の度合いを増していく。

『TARITARI』はリアルさを追求する為に既存のアニメが避けてきたことをあえて敢行している。宮崎とスピバを引き合いにだすから大袈裟に見えるだけで、これは物語として当たり前のことだ。
その結果として最終回が視聴者にどう受け止められたかはネットの反応を見れば分かる。「物語の甘さ」よりも「物語の善意」をよしとする。
物語から意味を汲み取れる
そういう本当の意味での「視聴者」から『TARITARI』は多く支持されたと言える。

  • 作品の細部に神は宿る。圧倒的情報量の統合作品。

支持されたのは、当然、前回の感想でとりあげた手法を前半で駆使した結果だ。そこには観客を呼び込むための「物語の甘さ」に満ち溢れていた。しかし後半は一転、細部は視聴者より、作品の細部に奉仕するようになった。それは視聴者に純粋な物語を提供する為に必要なことだ。
繊細さこそが細部へのこだわりを生む。その細部にこそ、作品の神は宿る。
『TARITARI』はイメージの統一に半端ではない情報量を詰め込む。一度ざっと流し観しただけでは理解しきれない。
一度だけ見ても十分に面白いが、それだと取りこぼしが発生してよく分からない状態が生じる。
しかし、ただボケッと見ているだけで済んでしまう作品と較べると遥かに完成度は高い
だから『TARITARI』を見ていて「どうして?」と思えるようなシーンはまだ沢山残っているが、その「どうして?」を解決するの『TARITARI』を「面白い」と感じたあなたの役目だ。

『TARITARI』は2012年の貴重な作品と言える。

ところで紗羽のおっぱいってサイズはいくらなんでしょうかね?設定厨の『TARITARI』ならこういう部分まで公式に決まってそうなんだけど。JRAの規定が46キロ前後だからかなりの細身が必要。紗羽ちゃんも細身ですが、それでも規程にひっかかってしまうのはどうみてもおっぱいが原因。紗羽ちゃんの夢を砕いた、けしからんおっぱいは彼女と一緒に僕が個人的に成敗します。
一時間くらいくれれば、ひと段落すると思います。