グダグダにしないと壊れそう。ナヲコ 『プライベートレッスン』

コミックナヲコ感想

なずなのねいろ (1) (リュウコミックス)

なずなのねいろ (1) (リュウコミックス)

ナヲコ先生の最新刊「プライベートレッスン」を前々回の「みなみけ」10巻同様正月休みに読んだのですよ。
というか、これ2011年8月26日が初版だし。積読がひどすぎ。

ピアノの教師で、いとこでもある、とり姉の元へ毎日ピアノレッスンを受けに通うたまこ。人見知りが激しいたまこは誰の気持ちでもきちんと受け止めてくれるとり姉に憧れていた。ピアノレッスンはほぼ口実。勿論ピアノも好きだけれど、ピアノを教えて貰っている間だけはとり姉との時間が独占できる。ところがとり姉はたまこの他に、同じ教室の女の子にもピアノを教えていた。また、たまこがとり姉に憧れているように、とり姉にも憧れている人物がいることが明らかになる。
それはとても当たり前のことなのに、たまこは何故か釈然としない。たまこと一緒に過ごした時間はとり姉にとっては意味がなかったのか。わたしもとり姉にとってはその他の女の子でしかないのか。自分の気持ちに整理がつかなくなったたまこは……。
とり姉も葛藤していた。誰でも受け止めるのはただ、そう見えるようにしていただけ。自分の行動に限界が見えたとり姉は。

ナヲコ先生はグダグダ関係を引き伸ばす百合作品が多いです。
というか見ているとこのひとははっきりさせるのが怖いんだろうなと。言語化したがらないんですよね。
「すき」っていうのが照れ臭いというか、そんなんじゃなくてひたすら怖い
言語化したがらない人には2パターンあると思っています。

「言語の力を信じていない人」

「言語の力を信じている人」

です。「言語の力を信じている人」とは「言語で人が変えられると信じている」と言ってもいい。
ラブストーリーとかで「好き」とか言わずにイルミネーションとか使って告白する漫画とかドラマがバブル期ありましたけど、あれは言語の力より、そのほかのメディアで伝えた方がドラマチックになるし、説得力も増すだろうなとか考えているんだろうなと思っています。そこまで考えてないよとかいう制作者は論外として。

で、「好き」って言語化しないのは言語の力を信じているので、言った途端に関係性が固定されてしまう、あるいは破綻してしまうと思いこんでるパターンもあります。「好き」とかいわずにグダグダ展開を延ばす恋愛漫画はこのへんを応用してます。
ただ、連載とかだと仕方ないじゃないですか。読者と編集者の意向もあるし、バッサリ「好きだ」とか言って「…うん、あたしも好き」とか言ったら、後は進展させるのが困難になるじゃないですか。
桃森ミヨシ先生のハツカレとかは「好き」って言うのがスタート地点になってるからあれはあれでいいんですけど、あれは告白するっていう行為が暗黙の了解になっている。その後は好き合っているのが大前提になっているので、あれは言語の力を信じているほうなんですよ。
「好き」という言語が関係性を育むキーワードになっている。

  • 「好き」は死んでも言わない。言ったら多分俺は死ぬ。

ナオコ先生の「プライベートレッスン」もそうなんですけど「voiceful」も最後まで「好き」って言わないんですよね。
言わないまま全一巻の物語が終わってしまう。
関係は進んでるんだけど、それだけは言語化して再確認している。しかし本質には言語で全く触れない
18禁のエロ本「DIFFERENT VIEW」でもナヲコ先生は「好き」ってあんまり言わなかったような気がする。
短編集「からだのきもち」でも「好き」っていうのは一編しかない。それも回想のなかだけでそれにも「スキ」とカタカナ表示するマスキングがかかっています。

これは「好き」に限らない。「なづなの音色」ではヒロインのなづなは過去に姉に暴力を受けています
それも言わない。
現場を描写しない。描写してはいけないものなので描写しません、言語化しませんじゃないんですよね。
「好き」と同様、それも言語化してしまうとグダグダに付き合っている姉との関係が壊れるのが怖いから言わない。
それはDV特有の関係性なんじゃないのかって言うと、DV特有の関係性ですよね。
無駄な描写をグダグダ重ねるより、回想で暴力の前後のシーン数コマ入れてあとは普通に生活している
ふとしたきっかけでトラウマみたいなのがちょろっと表出する。滅茶苦茶怖いです。読んでるとなづなはいつどんなきっかけでトラウマが噴出するんだろうとハラハラします。
それなのに「なづなの音色」には「DV」「トラウマ」という単語が一切出てきません
それでいてナヲコ先生の暴力との関係が描かれている
言語の力っていうのはそういうことです。

北野武監督の映画が怖いのもヤバい顔した連中がピリピリしてて、いつ暴力シーンになるか分からないからです。
だからコアなファンの間では初期作品のバイオレンスの念押しシーンはいらないと言われているし、北野監督も後になって段々削ってきます。逆にいらない筈の間のシーンが非常に多い
クローネンバーグやコーエン兄弟、スピバ、フィンチャータランティーノなんかの映像派はとことん見せます
ただし、あの人たちは映像を信じている、「映像で人を変えられる」と信じているので中途半端に見せるんじゃなくて弾が身体に喰い込んでも穴のあいた部分から血がゴポゴポ吹きだすとこまでしっかり見せます
さらにクローネンバーグ「ヒストリー・オブ・バイオレンス」ではラストの食事のシーン、コーエン「ノーカントリー」ではコンビニでの親父との会話、スピバ「宇宙戦争」ではキャッチボールのシーンなど、暴力以外を描写することで監督たちと暴力の関係を描いているように思えます。どのシーンも殴る蹴るなどのシーンではない筈なのに強烈な暴力に満ちています。
ヒストリー・オブ・バイオレンス」に至っては食事のシーンなのに暴力の他に有り得る未来さえも暗示しています。

暴力描写をしないで暴力との関係を描くというのは優れた作家の要素でもあります。

話が大きく逸れましたけど、「なづなの音色」はアマで検索かけたら品切れになってます。復刊されてもいいと思います。

ともかくナヲコ先生は「好き」とか「嫌い」とかいう言語化する行為に対して体力が持たないというよりは、言ったら関係が終わっちゃうと信じてるフシもあるんですよ。

その異常なまでのナイーブさっていうのが絵柄に極端に表れている作品です。やさしい絵柄とかそういうのを突きぬけてて、ここまでくるともうちょっと揺さぶりをかけただけで作品世界自体が崩壊してしまうような繊細さなんです。
ナヲコ先生は遅筆なんですけど、世界とキャラの関係を繋ぎとめつつ描いているからだと思います。

正反対の百合が、かずまこを先生の「純水アドレッセンス」です。保健の松本先生と生徒のななおの百合恋愛なんですけど、冒頭からななおの

「さよなら先生」

という否定的なセリフではじまります。言語を信じているからです。後はひたすらななおと先生がガンガン言葉で攻め合うんです。
恋愛って自意識過剰になって、思春期は特に青臭い否定的なセリフが飛び出しがちになりますけど、「純水アドレッセンス」はその「青臭いから説得力ある」みたいな感じでガンガン攻める。見ててうわーやめろーってなるくらいに読者がダメージ受ける程に、青臭いセリフでどんどん攻める。言語を武器に恋愛対象を追い詰めて本音を聴きだすんならともかく、「純水アドレッセンス」はエモーショナルなセリフだけで読者まで一緒に追い詰める力があります。

ナヲコ先生は追いつめられると持たないんですよね。多分。
で、追い詰められたら逃げるんです。ナヲコ先生のヒロイン達は。ぱっと恋愛対象の前から消えちゃう。で、また何かのきっかけを発火点ににしてぱっと現れる。これは「プライベートレッスン」でも表れています。
気持ちの整理がついているかといえばついていない。
それもなんとなく分かるような気がするんです。分かってる時点でちょっと僕はあぶないかなあとか思うんですけど。
映画「マトリックス」で役者選ぶ時に候補者はみんな「マトリックス」の概念が分からなかったんだけど、キアヌ・リーブスだけは「あ、俺分かるよ、マトリックスの意味」とか言ってネオ役に採用になった。それと同じくらいアブない。
そもそも「マトリックス」っていうのはボードリヤールの造語でSFのサイバーパンク一派が応用しだしたんですけど。造語なんだからいきなり言われて意味が分かる時点で本当はちょっと危ないんです。
ナヲコ先生のコミックスはそういう発してるものに読者の自意識まで巻き込んでしまう繊細さがある。
作中で自意識をこねくり回しているうちに周囲に撒き散らかしている。むろん、造語は一切使いません。
それが気持ち悪く感じないのはナヲコ先生の百合恋愛ってある程度猶予期間が限定されているからではないかと。
「これ以上関係を引き伸ばしたら人間関係が破綻の方向に向かうから止めよう」というセイフティーネットみたいなのがある。
「プライベートレッスン」にはサブヒロインとしてゆきみとみきっていう二人組が居るんですけど、この二人がセイフティーネットから外れている存在として描かれています。
このシーンはメランコリックに描かれていて、二人だけの風景の寒さと対置しながら不健全な環境特有の異様な甘ったるさがあります。

  • 音楽が好きとあなたが好きは一緒。

あとがきにあるようにナヲコ先生の作品は音楽が原点にあって、「voiceful」では歌、「なづなの音色」では三味線、「プライベートレッスン」ではピアノになっています。短編「からだのきもち」でもピアノが度々登場する。
ヒロイン達は音楽が好きで音楽に関しては「好き」といえる。
だから音楽を通してしか「好き」と相手に言えないんです。「プライベートレッスン」でははね先輩が体現しています。
「なづなの音色」ではなづなと姉が「voiceful」ではヒナがそうです。
ヒロインだけでなく多分、ナヲコ先生も音楽に救われているんです。だから音楽へのリスペクトが強烈だし、主題にしてしまう。
後書きを読むと「音楽」について誌面をさいています。
恐らくナヲコ先生は言語の力と同じくらい音楽の力を信じているからだと思います。
ただ、いきなりヒロインが消えて次の瞬間には表れているっていうのが、ナヲコ先生のポエジーなところです。
自意識過剰で、そのへんノレないひとにはノレない身勝手なシーンだとは思います。

常に崖っぷちを走っているような作品ばっかり描いてるし、ナイーブ過ぎますけど、それがナヲコ漫画の一番の魅力です。
「プライベートレッスン」はそういうところがブレていません。
上記しましたけど、絵のタッチは本当にゆさぶりをかけると壊れてしまいそうな繊細さです。
ここまで来ると漫画で音楽を描くことが、ナヲコ先生の不特定多数の社会とコミットする方法じゃないかとも思えてきます。
恋人同士になっても他人である作業を強迫観念的に確認しつつ、関係を継続するっていうのはしんどいですけど、それ故に麻痺したまま付き合う関係が多い現代社会では稀有な存在です。
ラストのページでは特別描き下ろしとして、たまこととり姉が手を繋いだまま眠っているイラストがあります。
ゆきみとみきと被って不安になりますけど、そのあたりが現在のナヲコ先生なんでしょう。
何年後か後には別々のベッドを使っても安心して眠れる、そういう展開があるような気もします。

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