「アクセルワールド」はサイバーパンクの夢を見るか?

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

アクセルワールド」の感想をググってみたら「この作品はサイバーパンクだ」という意見が圧倒的に多かった。
そもそもこのネット検索行為がアクワのアニメを観て、原作も読んで「これってサイバーパンク?」みたいな疑問が生じた末の行動だったので僕間違ってますか駄目人間ですかという気分に襲われた。

確かにアクワにはサイバーパンクを連想させるキーワードとガジェットがちりばめられている。
「フルダイブ」「ニューロリンカー(神経接続)」「アバター」「脳のクロック数増幅」「ローカルネット」「グローバルネット」「スタンドアローン」「量子」だけど僕には全然ピンとこなかった。主人公にして「ブレイン・バースト」の風景を「ただの、対戦格闘ゲーム」と言わしめ、作者にしてからが「つまりこれは対戦ゲームであり」とか「対戦をふっかけられ」とか「古典サイバーパンク作家の悪夢のような」という言葉を使うからだ。
この時点で僕は「原作者の川原さん自身が、あんまり自分の設定を信用していないんじゃないか」という考えに至った。

サイバーパンクの状況設定とは要約すると情報の量が主人公の運命を決めるものであり、主人公の意思で運命が決まってしまうセカイ系(僕はこのマスメディアが用意した言葉があまり好きじゃない)作品の設定とは相反するものだ。

システムとルール、情報が全てだ。国家さえ情報によって薄められてしまう。ハッキングの場面ではどちらのシステムとルール、情報が勝っているか競い合う。情報を多く持っている者がサイバーパンク世界の勝者であり、それゆえに彼らは情報を求めて探検をする。サイバーパンクの物語に、小説にしろ映像にしろ必ず登場する人体改造とは、既存の肉体のルールとシステムをより優れたものにする為の拡張技術だ。USBでHDDや外部ドライブを増設したり、時には外部システムに繋がるように。

一方アクワは自分の立場を確保する為に競いあう。システムとルールは「ブレイン・バースト」内とキャラの潜在能力で既に決定しており、そのなかで「どのようにして闘うか」主人公は思考する。探検とはすなわち黒雪姫を救出する為に行われるものであり、「黒雪姫」という単語が示すようにこれは「ファンタジー世界のシステムとルールに不慣れな勇者候補が手ほどきを受けながらお姫様を助ける」物語だ。

しかしこのお姫様救出劇は意外とサイバーパンクの定義にハマってしまう。
ハマってしまう型をこの作品は備えているだけで、その周囲には隙間と矛盾が一杯あるのだけど。だけど川原作品に特有の、物語の持つ全てをエモーショナルな方向に向けてしまう技量によって、サイバーパンクという定義自体が作品のなかで無効化されてしまうのだ。

「これだけ感情をゆさぶる物語なら特にサイバーパンクじゃなくてもいいじゃん」という思考の上に色んなサイバーパンク用語や景色が雨のように降り注ぐので、「じゃあ、別にサイバーパンクでもいいか」という思考に上書きされてしまう。

まどかマギカ」が魔法少女とはいいつつも、武器は銃器や刀、弓矢といった即物的なものであり、しかし少女達やQBさんが「魔法少女」と連呼することによって魔法少女ものになってしまうように。見事なラストにうっとりして見逃してしまい勝ちではあるけれど、最終回のまどかの奇跡ですら「契約の際のまどかの願い」であり魔法ではないのだ。

  • アナーキニズムなき世界

海外生まれの正統派サイバーパンク作品にも対戦を取り扱った作品はある。
マイクル・スワンウィックとウィリアム・ギブスン共作の短編「ドッグファイト」だ。

この世界では、観衆の目の前の仮想空間で小さな自律型戦闘機が激しく飛び交い、どちらの戦闘機が生き残るか勝負する。
しかしてこの作品のキモにしてからが戦闘機をポケモン改造よろしくいかに優れた基本パラメーターに改造するかがポイントであり、ドラッグによる妨害ありと既存のシステムなど完全に無視してしまう。
システムとルールが違法いかんよりも、いかにして相手より出しぬけるかというのを主眼とするこの作品は、サイバーパンクの本質を的確についている。登場するヒロインもシステムを改竄する能力を持ったエンジニアだ。

一方、アクワは優等生なまでに合法に振る舞う。不良たちを退治するのにソーシャルカメラとブレインバーストを巧みに組み合わせて尻尾をださせ、彼らの身を合法の見本である大人の世界に任せてしまう。
不良たちが復讐する方法はルールを逸脱したゆえに非合法であり、それは純粋に悪として描かれる。あくまで既存のシステムから脱していない故に、ルールを脱したポケモン改造を行った者をネット世界が叩くように、アクワでもハッキングを行った者には厳しい処置がとられる。「直結」にしたってセキュリティ面でのメリットを優先した行為だ。
「ブレイン・バースト」は拡張していく世界ではなく、自閉した空間であり、何処かの誰かが設計した莫大なシステム上でポイントを競う。空を飛ぶのも加速するのもいかにしてルールの規程内で優位に立つかにかかっており、現存するSNSやネットゲームと遜色ない。
アクセルワールド」で強者、正義とされている定義は、情報強者になる為なら非合法を辞さずというサイバーパンクの世界では巨大企業や優等生といった情報弱者がとる愚行に他ならない。アクワの世界観はサイバーパンクの世界観に照らし合わせるとオワコンなのだ。

ここから導き出される答えは「アクセルワールド」とは未来社会のネットではなく、現代社会のネットを描いているという事実だ。
サイバーパンクじゃないって思うのはそこらあたりかもしれない。

  • 恥ずかしくない未来を子孫に残そう

いま、未来を想像するのはすごく難しい。技術革新が激しいので作家がいくら未来を生産してもすぐに技術がおいついたり、「それは合理的じゃない。もっといい方法が呈示できる」世界になっているからだ。アクワですら「ブレイン・バースト」を形容するのに「新しいものじゃない」と断言している。このあたりは川原さんも自覚しているらしい。だから彼の作品を中二と片付けるのは誤った誹りだ。(検索で「アクセルワールド」「批評」と打ち込むと、「アクワは中二」という意見が陸続と登場する)
海の向こうではイーガンやイアン・マクドナルドを中心に刺激的な未来世界が描かれているけれど、そこですら、一時期はスペースオペラ路線への回帰という退行が生じている。

世界各地の紛争地域ではゲリラたちは最新鋭の技術を使わず、特に情報のやりとりは人手による手法によっている。
アメリカという未来世界の技術をもった国と闘うのに、自分たちの国の技術では勝てないと知っているからだ。
優れた情報を持っていようが、より優秀なジャマーや、盗聴技術、情報機械の処理能力に妨害されてしまう。なら、システムとルールが改変不可能な原始的かつ平等な手段で戦おう。

情報よりも、アバターによるマンガライクな肉弾戦という古びたものを選んだ「アクセルワールド」のバトルは気のせいか、ゲリラのとっている手法と似ているような気がする。
そしてそれは日本だけでなく世界各地で同時多発的に起こっている。「アクセルワールド」と同じ年に公開されたキャメロンの大ヒット映画「アバター」の大方のプロットは「アクセルワールド」に驚くほど似ている。外部から挿入された勇者。導くヒロイン。より高く飛ぶ者が強者というルールを尊重しつつ、権力組織と闘う。

川原さんは、サイバーパンクというステロを使用して、純粋な騎士道物語を書こうとしているのかもしれない。
僕は川原さんではないから、真意のほどは分からないけれど。
だけれど、文庫のページいっぱいに書かれたSF設定を眺めていると、このひとはSFオタクの素養があるのかもしれないとは思う。
ラノベというジャンルに潜在しているSFオタク。僕もSFオタとしてはなんとも距離が取り難く、しかし「とある禁書」や「とある科学」のように気になって仕方がない作品ではある。