負け続けても頭の中の叫びに従う少女達『咲-Saki-阿知賀編』

アニメコミック感想

銀座パレードの中継は無視した。メダリストの凱旋は国民の士気を高揚させるだろう。政治的にも使えるかもしれない。
だけど僕が感じたのは敗者たちのことだった。メディアは彼らを取り上げず、単なる敗者として扱う。ただし、四年後に勝者になれば別だろうが。

ここでいう敗者とはオリンピックに出場せず、候補のまま終わった選手、あるいはそれ以前の選手候補も含む。
彼ら、彼女らの努力の量はメダリストと遜色がない筈だ。彼らを指して「叶わない夢をみるからこうなるんだ」とは僕は言わない
何も出来なくとも、達成しえなくとも、最後まで諦めなかったという時点で彼らには誇りに思っていいものを持ちえている。
何もせず全てを「才能の有無」にまる投げし、努力を放棄して自由に生きる権利を主張しつつ「敗者の人生は惨め」と語りながらも、結局はマスメディアにコントロールされているひとたちこそ現実を見ていない。自分の無気力を「才能の有無」と「人生に失敗は効かない」という理論と結び付け、自分の思考、自分の頭の中身といういわば「誰もが犯しえない自分だけの領域」にまでメディアと他人にコントロールされている人たちは自分が恥ずかしくないのか?

そう突きつけているアニメと漫画が「咲-Saki-阿知賀編」だ。また「咲」だ。この作品がどれだけ好きなのか。
でも今回書きたいのは映像面の話じゃない。

「阿知賀」はとにかく敗者の登場回数が本編の「咲」より圧倒的に多い。それも負けた後の人物まで活躍するのも特徴だ。
上位二位をキープした者が勝負を続行可能というルールも手伝っている。

「阿知賀」は敗者に人気が集まっている。晩成高校の小走先輩、ファンの間では通称ニワカ先輩の所属する晩成は予選で歯牙にもかけていなかった阿知賀に敗退する。
傲慢なニワカ先輩は読み手に訴える。思いあがった思考停止がニワカ連中に負けるぞ。昨日のビリが今日トップを走っているぞ。
ただしアニメでは改悛した晩成の生徒達が泣いて互いを慰め合う姿が追加されている。
これが本当の思考停止の末の思い上がりなら泣くことはない。慰めあう仲間も存在しなかったろう
もしここでニワカ先輩が「才能がなかったんだよ」と諦めていれば彼女は救いようのないキャラになっていたはずだ。
傲慢かつ、思考停止。反省も自省もなく、それどころか麻雀に対する熱意すらも皆無。
彼女は麻雀を止めて別の才能とかいう幻を求めてふらふらと人生を消費するに違いない。
                           
その反証が「咲」本編で敗退した龍門渕における「阿知賀」での姿だ。和に負けた筈の透華は相変わらず意味も無く偉そうだし、純も横柄だ。その一方、一も智紀も相手を尊重する姿勢に変化はない。皆変わっていない。一番の辛酸を舐めたはずの衣に至っては負けた試合から何かを持ち帰って変化さえしている
衣は宮永咲という宿敵の名前を覚えていない。彼女にとっての麻雀とは敵の存在や勝敗は関係なく、自分の頭のなかの価値観にマッチしてさえいればそれで幸せな存在だからだ。それは龍門渕のメンバーすべてに該当する。
自分のなかの価値観という誰も犯しえない領域。自分が全てを決定可能な世界。
勝敗は関係なく、いかに好きな麻雀を打ったかに終始する。
以前の衣は勝負に勝っても決して満足しなかった。衣の勝負の世界には常に敗北という影がちらつき、彼女の麻雀の動機は勝ってその影を振り払うことだった。だから負けると恐怖を覚える。麻雀に恐怖を覚えていたと換言してもいい。
それを変えたのは麻雀が好きだったからこそ、勝負の恐怖に正面から向き合えたからだ。龍門渕メンバーのサポートも大きい。

阿知賀メンバーと東京で合流する鶴賀も負け組だ。智美と加治木に至ってはもう来年も存在しない。
だけど彼女達の姿をみると僕たちは安心する。どころか阿知賀を鍛える姿に頼もしささえ感じる。
彼女達の麻雀に対するスタンスは変わっていないからだ。
きっと智美も加治木も変わらず麻雀を続けるだろう。
高校を卒業しても鶴賀の麻雀部に顔を出すに違いない。

千里山の怜と、新道寺女子の煌に関しては負けを決定された存在だ。特にアニメ版のこの二人に関しては負ける為に勝負を続行する
そこに勝敗はもう介入しない。端的に言ってしまえば仲間さえも眼中にない。自分が納得できるか、否か、それだけだ。
もしここで一打でも手を抜けば、二人共に一生後悔するだろう。なにかで成功しても「あの時の一打」が心を蝕み続ける。
命を削って自分の麻雀を貫き通した怜に至ってはなにも言う必要はない。煌と一緒に玄に勝利を譲る麻雀をした彼女は「才能がなかった」から負けたのだろうか?敗北した彼女は負け組か?人生の惨敗者か?バクチな人生に全てをかけた無様な負け犬か?彼女は身体を蝕む麻雀を早く切り上げて人生の設計を立てなおすべきだろうか?それが現実だろうか?
麻雀を止めて普通の人生を送って普通の成功をし、しかし失敗も普通だから、竜華のひざまくらの上でグチってゴロゴロしていればストレスも解消するし、病気に倒れることもないだろう。彼女がそれで満足なら、僕は何も言わない。                

阿知賀女子も負けのキャラだ。赤土が最たるものだろう。「阿知賀」という世界の中でも恐らくトップクラスの打ち手の赤土は、しかし僕の目には現在、一番ビリを走っているようにみえる。一番怯えているという方が正しい。過去に阿知賀を敗退に追いやった彼女はそれ以来、麻雀が怖い。
それでも阿知賀のコーチとしていられるのは麻雀が好きだからだ。単純に勝敗にこだわっていれば赤土は麻雀を止めていただろう。「才能がない。人生を立てなおそう」だけど、赤土がいなかったら阿知賀こども麻雀クラブは存在していなかった
赤土が不在だったら、穏乃や憧、玄は和と麻雀を打つ機会があっただろうか。穏乃は全国に出場している和をテレビで目撃して自分も全国に行きたいという「夢」を持っただろうか。阿知賀麻雀部は再結成しただろうか。
仕事を続けながら阿知賀麻雀部を率いる赤土は灼をはじめとして阿知賀の尊敬を一身に受けている。
                  
「才能の有無」とはマスメディアも便利な言葉を考案したものだとつくづく思う。
どんなに努力しても勝負に勝てない原因は、失敗するのは「才能がないから」だと言えばそれで片付く。努力も辛いから止めよう。
「才能がなかった」場合、人生の損失は大きい。「叶わない夢をみるのはやめよう」
自分の立場を放棄して無責任になれるという点ではテレビの後継者たりえる大発明だ。これで権力はまた力を蓄える可能性が生まれた
でもちょっと待って欲しい。みんなは好きなことをやっていたんじゃなかったっけ?もしかしてやはりマスメディアが「夢」とすり替えて持ち上げている勝利至上主義の為にやっているのか?
だったらさっさと止めろ。きっと勝っても次の勝負に勝ちたくなって堪らなくなるはずだ。負ければ異常な精神の責め苦を味わうだろう。勝ち続けてもいつかやってくる負けに怯えて心はぼろぼろになってしまうだろう。
自分の勝敗にこだわるだけではなく、関係のなかったはずの他人の勝敗にまで気をとられるようになる
あれ?待ってくれ。僕はなんの話をしていたんだっけ?勝ち?負け?人生の損失?失敗?僕は「阿知賀」の少女たちが追いかけている「夢」や「好きなこと」の話をしていたんだ。これだと「自分自身にすらコントロール不可能な肥大した自尊心」の話をしているだけだ。「勝つ」「敗ける」「失敗」は「夢を叶えること」と「才能の有無」とは全く関係のない話だ。誰が「夢を見ると人生を棒に振る」なんて話をすり替えだしたんだ?
「夢を叶える為には勝ち続けないといけない世界」?現実的にならないといけない?
赤土や鶴賀の三年生は現実的じゃないのか?彼女たちは負け組の脱落者か?

きっと負けた少女達の頭の中では僕たちには聞えない叫び声が響いているはずだ。
当然だ。彼女達の頭のなかは誰にも覗けないからだ。
彼女達は自分の頭の中の叫び声にのみ従って歩いている。
バカな僕も見習う必要がある。

エクスターミネーター

エクスターミネーター

アメリカは今日もステロイドを打つ USAスポーツ狂騒曲 (集英社文庫)

アメリカは今日もステロイドを打つ USAスポーツ狂騒曲 (集英社文庫)