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屍者の帝国

屍者の帝国

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

SF屍者の帝国感想

なんか今回はアニメとは違うSFのことを書くのでアニメクラスタの方は読まなくてもいいです。
あと、分かりきったことも書くので説教臭いのが嫌な人も読まないでください。
でも『屍者の帝国』が出版されて出版社にとって「伊藤計劃」というコンテンツが打ち止めになった以上、(「虐殺器官」の映画化が現実になれば別かもしらんけど)メディアに依存しきっている僕が「伊藤計劃」について語る機会が薄くなってしまうと思うので今の内に書いておきます。

日本の文化、特にアニメ、オタク文化について無邪気に「日本のコンテンツだ!」と叫んでいるひとをよく見かけます。
「海外に真似出来ない」と主張するメディアが沢山あります。
でも僕の過去の日記を読めばわかると思いますが、日本のコンテンツの殆どは源流がアメリカ、ヨーロッパ産な訳です。
さんかれあ」にしろ「アクセルワールド」にしろ「TARITARI」にしろ今流行っているオンラインのドラクエにしろ、FFにしろ、容赦ない言い方をすれば、それら全ての世界観、価値観は過去のUS、UKのオタク、サブカル文化の借りものです。

しかし、そういう状況は避けられないものですから、仕方がありません。
問題はそういう事を無視して声高に「新しい日本のスタイル」を叫ぶ現状です。
ネット界隈や出版業界を近年ヤケに騒がせて支持を得ている「叶わない夢を持ってもしんどいだけだから身の丈にあった生き方をしようよ」という「新しい日本のスタイル」も実はアメリカでは十数年前に発生している思想です。
もう映画にもなっちゃってます。社会問題にもなっています。
長引く不況と政治不信がトリガーになっています。
僕が「阿知賀」の項目で理屈をすっとばして「夢をみるのを諦めたらどうするの?」と叫んでいるのはそういう経緯があるからで、現にアメリカでは「カネも希望もないオレたちから夢をとったら後はなにがのこるの?」という状況になっています。
成功者であるビートたけし貧困層に「お前は才能ないから叶わない夢見るなよ」と発言して異常な反発を喰らった原因は恐らくそこです。
アメリカンバブル崩壊後に這い上がる唯一の手段としてアメリカンドリームが台頭しています。
ただし、夢に人生を過剰にかけてしまって、後の人生を台無しにしている人が続出しているのも事実です。
繰り返しますが、問題はそういう経緯を飛ばして「新しい日本のスタイル」に盲従する思考です。

まとめブログのアフィバブル崩壊アメリカのドットコムバブル崩壊と非常に似ている気がします。ただしこちらはオタク界隈だけで済んだ話ですが。
アフィバブル崩壊前に一抜けした関係者はそういう現状を知っていたのではないでしょうか。
こうしたいわば「新しいスタイル」を追求する前に「スタイルの過去を探る」行為は非常に重要なサバイバル術です。
そういう経過をすっ飛ばして新しいスタイルを追従するのは結局、アメリカンバブル崩壊を無視して日本バブル崩壊を喰らってしまい、後片付けをする、という現状を繰り返すだけで、えらくしんどいです。

一つの現状に対して意見を物申すとき、あるいはアクションを起こす時、そういう経緯を通して「じゃあ、オレはどうしようか」とするのが自分の本当のやりかたというものではないでしょうか。

日本のオタク文化に戻ります。現在日本の文化の源流が海外産であるのは避けられないのです。
しかし、今やオプションは沢山あります。自分のやり方がアメリカ、ヨーロッパの模倣でしかないと自覚した上で「じゃあ、オレはどうしようか」と選択するのは可能です。「恥ずかしいけど肯定しよう」とか「恥ずかしいから否定しよう」とか色々あります。その後でも「じゃあ、肯定するとして、どういう路線にしようか」という選択があります。
今の日本のオタク文化の大体の路線はこれです。

ニコ動を騒がせている初音ミクのPVにしろ、曲にしろ、乱暴にいうと大抵が80年代、90年代のUS、UK文化の再生産です。
悪く言うと派手で能天気、ポジティブな状況をポップでダンステイストで歌ったものはアメリカンバブルのあった80年代の影響下にあります。
ゼロ年代以降のヨーロッパのダンスミュージックはその再生産です。
陰鬱で悲惨な状況をオルタナ臭く歌ったものは90年代の影響下です。
80,90年代は無論、それ以前の70,60年代、またはもっと以前の音楽、政治、民族、思想情勢の影響下にあります。
もし日本の文化の影響があると主張するなら初音ミクにはもっと演歌テイストがあってもいい筈です。
存在しない訳ではないのでしょうが、支持されているものを観る限りでは演歌は脱臭されています。
「マイナーコードバリバリでノれない演歌やっても恥ずかしいし、支持されないし、売れている制作者が演歌を避けてきた」経過があるからです。「日本の演歌は初音ミクという最先端でやるには「恥ずかしい」から避けよう」
勿論、初音ミクの楽曲をアップロードするのは個人的な活動なので演歌をやってもなんら問題はありません。
むしろ演歌と初音ミクという組み合わせは希少なので、成功すれば新たなポジションを制作し、獲得出来る可能性があります。とかこうした発言が妙におかしいのはやはりどこかに「恥ずかしい」部分があるからです。

初音ミクは日本のSFの最先端とされています。ではその本体である日本SFはどうでしょうか。
今の日本のSFは僕がみる限り、「アメリカ、ヨーロッパを肯定しよう」という方向にありますが「アメリカ、ヨーロッパSFはすごいので尊敬するなあ」という憧憬だけに留まっている感が非常に強い気がします。
憧憬は悪くありません。ただし「憧憬だけ」に恥はありません。
結果、海外のサブカルオタク文化を無意識に肯定するので「アメリカSFに日本のオタク文化を融合させよう」という発想に辿りつき、なんら疑問をもちません。上記したように日本のオタク文化アメリカ、ヨーロッパの再生産です。
それ自体は別にいいことなのですが、恥がないのでアメリカ文化は消費をガンガン行う上に成り立っている、とか他人を侵略することでかろうじて成立しているのでその裏には常に恐怖がまつわりついているという負の側面が薄くなります。
逆に「日本のオタク文化!」という意識が先行しているのでウルトラマン地球防衛軍、少年自警団といったものに代表される「強いアメリカの軍隊」「賢いアメリカの科学者」「勇敢なボーイスカウト組織」というシンボルを反映した陽の要素が強くなります。
勿論、負の要素が強い作品も見受けられますが、そこには恥がないので負の要素の場合、露骨に科学者や政府機関、個人的組織といったアメリカSFが長年扱ってきた題材を無意識にコピーしてしまいます。
ですからその政府機関や科学者、個人的組織が消費型で成り立っているとかいう要素は排除されがちになります。
そういうことを失念しつつ、日本のSFは、厳重な計算上になりたっている緻密な世界観とか、海外SFと融合した日本文化とかいうものを信奉している気がします。
「オマージュ」「リスペクト」とドヤ顔で新刊を上梓します。
ここらへんが日本のSFファンが非現実的、と指差される要因であり、社会性がないと言われる部分ではないのかという気がします。

伊藤計劃をはじめとするゼロ年代作家はそういう「恥ずかしい」箇所に異常に敏感になりました。
伊藤計劃が「これまでの日本SFと違う」と指摘されるのは伊藤計劃が「恥ずかしい」という意識を持っていたからです。
一部の後続のSF作家やSFファンは伊藤計劃のSFで「恥ずかしい」という部分を自覚しました。そこがこれまでの日本SFとの差異です。

伊藤計劃の作品には政府機関が露骨に登場しますが、肯定的に描かれていません。
国民や他民族を征服しつつ、そこから活動資金を吸い上げている癖にデカイ顔をしている、という現状に政府機関に所属している主人公は「恥ずかしい」を感じています。
さらに任務達成のためには燃料をバリバリ食べる乗り物で移動したり、邪魔な他人を排除するという愚行を犯さないといけません。
そこから来るジレンマ描写に伊藤計劃は手を抜きません。
伊藤計劃の主人公の「恥ずかしい」は、伊藤計劃自身が感じている「恥ずかしい」なのです。
彼と同期の円城塔も「恥」を知っています。彼が伊藤計劃と同列の作家とみられるのはそこにあるのではないでしょうか。
ただし、伊藤計劃はジレンマに悶えつつ任務に従属せざるを得ない主人公の苦悩を物語り、一方、円城塔は、
「オレのやってることって矛盾だらけ!でもちょっと待って。それってハタから見たらバカバカしくっておもしろくね?」
という物語りかたの違いがあります。
伊藤計劃円城塔ともに、海外文学の影響を受けたことを肯定した文体でありながら、伊藤は万人に訴えるエモーショナルなものであり、円城が一歩距離を置いている醒めた諧謔を含んでいるのは、その視点の違いにあるのではないでしょうか。
インタビューやブログを読めば両者ともに海外の過去を、つまり自分の過去を存分に知り尽くしている作家とすぐに分かります。
二人共にイギリスコメディTV番組の代表格である「「モンティ・パイソン」のDVDBOXを買おう」とかいう探究心旺盛と言うよりは、どちらかというとバカな発言をしています。
彼らは「新しい日本SFのスタイル」を作りましたが同時に過去を探る作業を怠りません。ですから「それが直ぐに古くなる」ことを熟知しています。
その上で再生産を行っているというのはとても「恥ずかしい」ことです。しかし、以外に「恥ずかしい」と思っているひとはいません。それどころか、場合によっては過去を探ろうともしません。
「恥ずかしい」と思いつつ、再生産することの重要さを伊藤はブログ上でギブスンの「ガーンズバック連続体」を繰り返し引用して強く訴えます。

屍者の帝国』は自分の源泉が海外にあることを存分に意識しつつ「恥」を自覚している作家二人による作品です。
しかし上記したように伊藤と円城の立場は違います。
そこが『屍者の帝国』の下世話なポイントでもあるのです。
屍者の帝国』は「007」をはじめとするスパイ映画やスパイ小説、『ホームズ対ドラキュラ』『ディファレンス・エンジン山田風太郎の『忍法帳シリーズ』『明治時代小説シリーズ』における虚実ないまぜの歴史改変もの、一方で映画、ルゴシの『ホワイト・ゾンビ』ハマーの『吸血ゾンビ』の影響を受けています。
設定や文体、シチュエーションの時点で既に日本のオタク文化と海外SF文化の影響を受けています。ごちゃまぜにしています。
それでもこの作品がとても新しく見えるのは「恥」を知っている作家二人が、別々の視点で書き、融合しているからです。

きっとあと10年か5年間隔で伊藤計劃円城塔の影響を露骨に受けた作家が誕生するはずです。
ゼロ年代デビューの伊藤計劃自身が自分のことを「90年代の決断主義者」と認め、ブログで「90年代において80年代のサイバーパンクの影響を受けた作品が生まれた」と指摘することや、頼りになりませんが僕自身の経験でも10年、5年単位で成熟したエピゴーネンが現れています。
その作品は再生産でありながら、きっとなんらかの新しいものを含んでいるはずです。
その時、伊藤計劃は無効になっているかもしれませんが、伊藤計劃が指摘した事実は反映されているでしょう。
死に瀕して自分の思想を拡散させようとした伊藤計劃のプロジェクトは、多分、僕たちが知らない水面下で続々進行中なのです。

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

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