「昨日」の風景『ガールズ&パンツァー』

アニメガールズ&パンツァー感想
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僕のアニメ最盛期には深夜アニメなんてなかったし、住んでいたのも田舎だったからガキが歩いていける範囲にレンタル屋も皆無だった。
仕方がないから僕は自動車で20分かかるレンタル店までオヤジに連れて行ってもらって数少ないアニメや映画を吟味して借りて同じタイトルを繰り返し観た。
特に「オネアミスの翼」は何度もレンタルして狂ったように観ていた。
大好きな坂本龍一が音楽を担当している「オネアミス」はセリフを空で諳んじられるくらいリピートした。
いつものように学校から帰った僕はオネアミスをリピートしていた。すると背後でそれを眺めていた母親が僕にこう尋ねた。
冒頭の墓参りのシーンだった。よく覚えている。
「それはいつの時代の映画なの?」
一寸驚いた。
オネアミスというアニメは、アニメというジャンルや、なにも事情を知らないひとには過去にあった出来事の再現アニメだと勘違いさせてしまう精巧度を持っているらしい。実際にオネアミスは墜落する飛行機の角度からオリジナルの言語まで微に入り細に入り作りこまれている。
だけど僕は応えなかった。当時はどう説明したらいいか分からなかったからだ。
こう説明すればよかったのだ。
「昨日の時代だよ」と。

ガルパン」が放送開始となった。好調のようだ。ミリタリスタッフが集結した作品に相応しく、戦車の細かいディティールや砲撃戦に注目が集まっているが僕がまず気に入ったのはレトロフューチャーがとても効果的に使用されている点だった。

レトロフューチャーとは懐古趣味の未来を指す。
マクロスF」のように鋭角化したノイジーな未来ではなく、デザインに昔の様式がとりいられている穏やかな未来像だ。
一方で映画「リベリオン」のようにディストピアを露骨に誇示する為に使用される場合もある。
ガルパン」では時代設定が明確化されていない。
だが軍事機器の描写だと僕たちの住んでいる世界よりやや先を歩いているように感じる。
一方で未来像にはアンバランスな小道具や描写も見受けられる。
それは明らかに「昨日」の風景だ。嫌になるくらい知っているけれど、絶対に引き返せない世界。
今日と明日に続いている世界だ。
ガルパンの世界には「昨日」が潜んでいる。

入部届け。箸。お椀。のぼり。木製の塀。昭和チックな木造住宅。戦車に手を振る人々。WW2時代のプロパガンダCMを揶揄した戦車部PV。

ファッションとしてレトロフューチャーを纏うのは全く構わない。だけど作品と噛み合わなければそれは本当にファッションになってしまう。
レトロフューチャーを着飾ったアニメは多く、成功しているアニメは少ない。
それは映画にも小説にも言える。

ガルパン」は過去と未来の時間軸が対立しつつ融和していく設定が冒頭から明らかだ。
ヒロインと姉の間になにがあったのか。ヒロインの周囲を取り巻くサブヒロイン達にも過去が潜んでいる。
一方で教官が訪れることで、なにより一話の冒頭において「ヒロイン達が手慣れた作業で戦車戦を繰り広げている映像」で僕たちはベタな掴みながらもガルパンの未来になにがあるのか期待してしまう。
過去を探りつつ、それが現在とリンクしていく。時間軸の対立構造だ。
それは、明日の風景と昨日の風景がごっちゃになって今日の風景を醸し出しているレトロフューチャーガルパンの世界観にとてもよく似合う。

ヒロイン達はグループ毎に行動し共同作業を共にする。グループ毎に食事をとるシーンが非常に目立つ。
特にヒロインのグループはおなじスイーツを分け合って食べたり、同じ店に足を運んだりする。戦車戦では他のグループより役割分担が明確化されており象徴的だ。

戦争とは国家や思想、民族間のコミュニケーションの齟齬だ。逆に戦争では兵站をいかに処理するか、すなわちどちらのコミュニケート技術が優れているかで優劣が決まる。
戦争映画や戦争小説では上官のシゴキを通過儀礼として結束が固まっていく。
シゴキのシーンで大体死ぬ奴が予想できるが、これは映像による非常に優れた暗示だ。
戦争映画の通例でみるならガルパンの少女たちの未来は優秀な部類にはいる。

名物となっている戦車戦から目が離せないのはFPSボードゲーム、シュミレーションゲームを模したリアルな3DCGIだけだからではなく、昨日から明日へ成長していく姿が映像そのものでなめらかに示されているからだ。楽しい戦車戦がいつまでも続いて欲しいと願うのは、少女たちの成長がいつまでも続いて欲しいと願う行為に他ならないんじゃないだろうか。
少女達が成長すればするほど、戦車戦はより緊迫感と臨場感、少女達のたのもしさを生み、面白い映像になっていくと僕は思う。

多彩な角度から撮られる戦車戦とは少女たちが脳内で把握、共有している戦場だ。それを視聴者に提示することで戦車戦を追体験させる。戦争映画、戦争小説では極めてプリミティブな手法ながらも、制作者の力量が問われる。
例えばリドスコの「ブラック・ホーク・ダウン」やグリーングラスの「グリーン・ゾーン」なんかがバイオレント描写を含みながらもモンドものに堕さないのは、切実な戦場を観客に追体験させることに成功しているからだ。

  • 制作者と一緒に作品を楽しむ。

水島監督は今回、作品解体能力で一話から「フィクション」であることをバラしてしまう。
バカな展開とバカなキャラ、テンプレな設定で視聴者に「おバカな作品ですよ」と断わりを入れる。
だがそこで「お前らこんなテンプレ作品観てて楽しいの?」と嫌みをいうことなく嘘をつく。
放送開始直後から作品全体を再構築していく過程を視聴者に見せるのだ。
学校、戦車道、キャラ、学園艦、戦車道大会。
少女達がゼロから戦車に馴染んでいくように、僕たちもゼロからこの世界に馴染んでいく。
色んなアニメや戦争映画の集まりでありながら、再構築によってオリジナリティを獲得していく。
アニメというジャンルや戦争映画に詳しいひとなら色んな部分にオマージュを見つける筈だ。
あまりにも細かすぎて一度観ただけでは見逃してしまう。流石にこれはスタッフもやり過ぎたと判断したのかツイッターによる解説も行っている。 
(過去放送分はtegtterで閲覧できる)  
それらひとつひとつを順々に組み上げていく。

古典映画「フランケンシュタインの花嫁」で花嫁が製造されていく過程を観た僕たちは「それ」が動き出すのを期待して待つ。
C・A・スミスのパルプホラー「イニュールの巨人」では巨人が作られる場面を読んだ僕たちは巨人が動くのを夢想する。

夢を見るというとても大事なことを忘れていなければ、これは制作者と共に行う楽しい共同作業となる。突飛な展開や細部が待っていようとも、共同作業なら些細な点にも目が瞑てしまう。荒を探すのはバカバカしいと思える。それより楽しもう。

この作品が最終回を迎えた時、多分僕たちは全体像に驚くことはないだろう。ありふれた過去の集合体だからだ。
でも、全体像を楽しんでいるはずだ。昨日から新しい今日と言う形が完成し、明日へ向かう準備が整っているからだ。
観ているだけでも面白い。過程を観るだけで面白い。
やはり、昨日と今日と明日の映像だ。

どうも一期だけらしいのだけれど、これは二期欲しいよなあ。戦車戦、永遠に続いてくれないかなあ。
観ている間、ずっとそんな事を考えてしまう。

光の塔 (ハヤカワ文庫 JA 72)

光の塔 (ハヤカワ文庫 JA 72)