『アマガミSS』のキャラをエロい視点で真面目に眺めてみた。

アニメアマガミSS感想

アマガミSS 9 桜井梨穂子 上巻(初回限定生産) [Blu-ray]

アマガミSS 9 桜井梨穂子 上巻(初回限定生産) [Blu-ray]

アマガミSSのTV版をCSのリピートで全て観た。
アマガミでは学校内でのプールのシーンが目立つ。要するにこれは羊水のイメージであり、あけすけに言うと不能」の要約なんだろう。
主人公が体験するスケベイベントは少なからずフェティシズム 、つまり奇形の性癖として描かれているが、これは主人公と少女たちの不能感」を前面に押し出しているからだろう。
その証拠にアマガミ内では完全に合意の上で行われる性行為は大体が健全なものだ。少年少女時代を脱したイベントの象徴だからだ。

ところでアマガミを通して強烈に印象に残ったキャラが二人いる。森島はるかと桜井梨穂子だ。
個人的には中多紗江が大変よろしく、今野宏美のCDまで購入してしまったのだが、それはキャラを相対化出来ないファンとしての愚行と解釈し、甘くみてください。すいません。

はるかと梨穂子は強烈に印象に残った。逆に薫にはかなりの好意を抱いたものの(梨穂子より好き)、彼女のエピソードは驚くほどに覚えていない。

それは何故か。薫はアマガミ内において殆どのキャラのテンプレ設定を踏襲しているからだ。
一方、はるかと梨穂子はそれなりのテンプレを維持しつつも、他のキャラから一線を画していた。
はるかと梨穂子に限っては前述した不能感」を感じなかったからだ。

まず冒頭にあげたプールのシーンにおいて梨穂子はアニメ版はカットされていたような気がする。
このへんはうろ覚えなので勘弁してください。はるか先輩は入りたがろうとするが、同級生の響に止められてしまう。
むしろ、後のEPでははるか先輩は眺めるのをよしとする体質だ。
はるか先輩がプールに入るシーンは、市営のプールという「学生」つまり不能者以外も共有される空間において重視される。

  • 性欲よりも精神世界解放のはるか

アマガミの主人公のヤリたい感は異常だ。こいつ裏で何回隠れてオナニーしてるんだよという想像が容易に成り立つ。
これは他の少女たちも同じくする。これは一重に性行為が少女達が持つテンプレ設定の裏にある「家庭、将来の事情」に抑圧された結果の脱出口として用意されているからだ。
だから毎回、初体験のシーンでキャラのエピソードは幕を閉じる。
少女たちの世界が主人公の世界と連携をもって構築されるからだ。

はるかは一切の精神的抑圧要素が皆無と設定されている。
むしろ、不快に感じる出来事があれば可愛いいものを眺めるとか、自由奔放な行動にでるとか、身体を動かして能動的に動く。
歪んだ形で解消されることはない。
この好き勝手で無邪気な行動は時として幼児退行的なものとして扱われ、それがはるかの「可愛いところ」「弱点」としてアピールされるが、これは健全なストレス発散法の一種だ。
「誰かがわたしの人生の邪魔をしている」「社会が人生を阻害している」「不遇は環境のせい」とする思考を抱き、阻害、疎外的環境を己の負のスパイラルの元凶とみなし攻撃する行為と較べて、どちらが「発散方法に問題がないか」とすれば断然、はるかの方が問題がない。

はるかはどこででもバッティングセンターにしてしまえる能力を包括している。
玉拾いにつきあわされるのは主人公だ。僕がはるかに強烈な印象を抱いたのはこの「つきあわされる」感覚だ。
恋人に付き合うのはやぶさかではないだろう。やぶさかでない事もあるだろうが、この「適度につきあわされる」のも恋愛の一方向である。
この場合、主人公は精神と肉体を「たまひろい」という形ではるかに強制的に共有をせまられる。
そこにはそれなりのキャラの(というか精神世界の)強度と柔軟性が求められる。はるかの傍若無人振りを笑って済ませることができる主人公の精神は実はかなり高めに設定されていると踏んでいいだろう。

  • 性欲よりも食欲の梨穂子

梨穂子も「つきあわされる」感が非常に強かった。
主人公に好意を抱きつつも、梨穂子に優先されるのは性欲よりも食欲だ。
茶道部に所属しようが喰うのが目的であるし、ストレスも喰うことで発散されている。はるか同様、性行為が脱出口になっていない
梨穂子は身体を使わないが、神経を異常に使う気質があることが度々押し出される。
ストレスフリーな環境でありながら、自分からストレスを醸造している。
その補助として「天然」設定が導入されている。梨穂子に天然要素がないと、救いようがない見ていて辛いだけのキャラになっている可能性が高い。
そういえばはるかも天然が入っているが、この二人は独自の世界を構築しているので社会的にみればそう写るんだろう。
補助を必要としない要因はおそらくここだ。

はるかとは真逆なキャラながらも、最終的には主人公がつきあうことで梨穂子の食への傾倒は改善されていく。
梨穂子は個人的に前半の食のシーンが圧倒的に記憶に残っているが、後半になるに従って梨穂子と食に対するイメージは薄くなっていく。
恐らく主人公と付き合うことで食のシーンが減り、不能感が薄くなっていくからだ。
多分、梨穂子は主人公と深く付き合えば食への依存度は低くなると思われる。
前述したように主人公の精神は高めに設定されている。梨穂子の食欲も我慢ができる。
アマガミを安心して鑑賞出来たのも主人公の精神が高めに設定されているからだと思う。

はるかと梨穂子の共通点をまとめると、「つきあわされる感」「天然」だ。
世界を個人的に構築している二人は恋愛を純粋なものとして捉えている。
他のキャラのように補助的なものとはとらえていない
アマガミでは「不能」のヒロインたちは主人公の補助を求めている。はるかと梨穂子には補助を求める感覚がない。
個人的に世界を構築しているふたりは、特に食べものと言う物質的なものに依存しないはるかは最初から周囲と対等に付き合う癖がある。
極めて個人的なはるかは封建社会を解体してしまう能力がある。

  • 性欲の達成というゴール。

繰り返すがアマガミのヒロインのテンプレ設定として自虐的、劣等的に成らざる得ない環境があげられる。
薫がキャラとしては魅力的なのに、僕の薫のEPに対する印象が薄いのは恐らくテンプレ設定を一番踏襲しながらも、物語的には強調されていなかったからだろう。ただしそれが逆に爽やかさと潔さを身上とする薫とマッチしている。薫に魅力を感じたのはここだ。

ともかく、落とし穴的な境遇を主人公と共に這い上がり、一緒に歩んでいき、共有し解消していくのがアマガミだ。

アマガミセックスシーンがカタルシスとして描かれているのは思想面の共有から身体の共用の術へと移行していくからだ。
だから、一応ははるかも初体験を経過する。もっとも彼女の場合は確認作業の側面が強いのだけど。
社会が「国際的な自由市場」を提唱する現在、社会全体が封建的に成らざる得ない。
そこからは都合の悪い他人は容赦なく排除される。結果、最後の砦として「家族」が残される。
この家族も結局、崩壊しつつあるのだが、どうして家族が重要視されるかというと身体を共有しているからに他ならない。
夫婦間のセックスにしろ、前提として身体の共有がある。
「自分の遺伝子」という身体を情報的に扱ってまでもやはり身体はどこかに残る。その結晶が子供だ。
他人の身体を大事にいたわるというのは、人間性をはく奪しきっても共通して残る価値観をいたわる、共有している事に他ならない。
アマガミにおいてセックスがエピソードのゴールなのは、他人の身体と自分の身体を共有する作業が完了するからだ。
ゆえにアマガミの実質上の最後のひとり、綾辻のEPにおいてカタルシスに設定されているのはセックスではなく、子供を連れた家族ぐるみの創設祭の訪問となる。
リア充め許さん。

児童虐待、DVを病気とするのは、家族間における最後の価値観が剥奪されているからだ。これは病気と呼称して差し支えないだろう。
職場の上司、僕たちの親の口癖が「最後は結局、家族が頼り」なのは高度成長期の体験という、国際的な自由市場の準備をしてきたからだ。利己的な周囲に囲まれ、失敗すれば社会的制裁を受ける。これだと家族以外には頼れるものがない。

一方、国際自由市場を知らない爺さん、婆さんが口にする「家族が頼り」は肉体の価値観の共有を意味する。アマガミのセックスはこちらを指す。尤もそんな爺さん婆さんもいなくなりつつあるが。

だから体罰の意味も違ってくる。爺さん婆さんの体罰とは自分の身を切る自己献身行為だ。よって地主の子供と言う神格化された子供を除いて体罰は他人身内分け隔てなく行われる。団塊世代以降の一部に残る体罰は利己的な社会制裁を意味する。
故に他人の子供を叩けば問題になる。「エヴァ」「まどマギ」「ココロコ」なんかの自己犠牲に対し猜疑がつきまとうのは両者の意味を混同しているからだ。
江戸時代の人間を集めて「まどマギ」を鑑賞させれば称賛を得るに違いない。

他人の為に献身的に振る舞う行為がよしとされるのは外的に他人と肉体を共有しているからである。
昭和初期や明治大正のみならず、平成の現代においても医者の地位が異常に高い要因はここに由来する。

綾辻疲労で倒れて主人公は見舞いをする。それ以降、綾辻は主人公のに不自然なまでに急接近する。肉体の価値観の共有という視点から眺めれば当然の流れだ。
特に綾辻は肉体と精神が乖離しているキャラクターだ。激しい精神のブレが関係の共有で振幅数を減らしても不思議はない。

異性との共有体験をもって乖離していた精神と肉体が同一するキャラとしてエヴァ」の碇シンジとらドラ」の川島亜美、「まどマギ」の焼ほむら(ほむらは同性だが)「ココロコ」の永瀬伊織の名が連なる。
共に他のキャラにない能力を備えながら周囲を信じず自分を卑下する。
綾辻も同じだ。彼女は極端な心身乖離キャラの系譜に属する。

はるかと梨穂子が身体的なものを優先しているのに対し、他のキャラは頭、自意識だけが肥大している。
思春期特有のナルシズムを有している。

極度の自意識過剰、利己主義者、ナルシストとして描かれている上崎裡沙が総括的なEPなのはコミカルに思春期を描いたアマガミに相応しいと言える。

  • 結局、おっぱいがいいのかよ。

僕が中多紗江に入れ込んでいるのは彼女が一番セックスアピールが激しいからだ。とか言ってみるが、存外、酔狂でもなんでもない可能性が高い。人間のプリミティブな部分を刺激するキャラだからだ。
そういえばココロコでも人気が抜群に高いのは永瀬伊織だ。

紗江は精神的にも安定しているし、一緒に歩んでいこうというテンプレ設定も固定されている。

一番不安定なのは七咲逢だろう。だから彼女は水泳部に所属している。温泉で初体験を迎えると言うのも因果な展開だ。
彼女は最後まで精神度の高い主人公に引っ張られていくタイプだ。一見主人公を引っ張っていくように見えるが、実は引っ張られているのは明らかだ。

民族、家族、血。これらは全て肉体的関係だ。恋愛アニメや漫画、恋愛映画を子供が見て「ちゅーすればいいのに」というのは無邪気さゆえのプリミティブな指摘だ。

  • 価値観の共有という形でみると、どうよ?

はるかも梨穂子も独自の精神世界の保持が異常に強い。特にはるかはラストに至って「警官ごっこ」を主人公と行う。
この時点で主人公の世界も独立しているとみていいので、齟齬が生じる余地がない。
よりかかっている訳ではなく、並列して立って居るので齟齬がない。肉体の共有も有する。結婚していることがそれを指している。
はるかの稚拙な行為も、バッティングセンターを家庭に持ち込んでいるに過ぎない。周囲がそれでよければ全く問題ない。
バッティングセンターだって「そういう場所」という設定が施されているから成立する。
なら自前のバッティングセンターでもなんら問題はない
梨穂子が糖尿病などの病気があぶない気がするが、そこらへんの展開まで求めるのは酷というか、視聴者の勝手な思い入れだろう。
まあ、精神的強度の高い主人公なので、梨穂子が食欲に走っても笑ってすませることが可能な気はする。

結局好きなのは紗江なのだが、これはしようがないよね。
キャラソン聴いてても紗江の唄う「あなた」って絶対僕のこと言ってるようにしか聞えないし
というより、決定的なのは創設祭のウェディング姿だろう。
この疑似結婚式は二人の肉体共有が社会的にも認知されていることを意味するからだ。
肉体の価値観の共有という観点から眺めた場合、紗江とはるかは他のキャラよりも社会的認知という点においてはるかに優遇されているキャラだといえる。けど紗江がやっぱり最強。
でも綾辻は子供まで作ってるんだよなあ。

エビコレ+ アマガミ(通常版) - PSP

エビコレ+ アマガミ(通常版) - PSP