なぜ『中二病でも恋がしたい!』がつまらないんだろう。

アニメ中二病でも恋がしたい!感想

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Webを眺めると言う作業は僕は実はあまり好きじゃなくて、好きなサイトを巡回したらあとはあんまり見ないというか、見ても仕方ないみたいな先入観を持っているのだけれど、たまにネット界隈をウロウロすることがあります。
そこで中二病でも恋がしたい!がつまらない。どう観ればいいの」とかまどマギは物語としては」という記事を散見したりして「あ、見なきゃよかった」とうんざりするのだけれど、あんまりフラストレーションが溜まったのでどうして「中二病でも恋がしたい!」がつまんないと感じるのかそういう事をうあーっやめろーって感じで書きます。
あと、そういうひとは「中恋」にどう接すればいいのか。「まどマギ」はもう旬過ぎてるし。でももう、「中恋」も終わりだから正確には「中恋はなぜつまらなかったんだろう」にすればいいのか。

どうして中恋がつまんないと感じるかというと、映像で物語を全部説明しちゃうからじゃないですかね。
そもそも物語がはじまった時点でこの作品は「中二病とかなにか」とか「誰が真の中二か」「キャラの心の葛藤」とかを物語の枠組みで説明するのを放棄というか、止めていました。
放棄と書くのは「京アニ」が「けいおん!」という映像としては完成しながらも物語としては実は全く機能していない作品を作った時点で京アニが想定しうるレベルでの「映像作品」としてのフォーマットも完成しちゃったからだと思います

(12/20)この段落だけ要約しすぎて訳わからんので補足します。勢いだけで書いたからね。
D・リンチとかクローネンバーグ作品みたいに、映像だけで作品として成立するって意味です。
で、さらにこれらの監督作品みたいに、監督と制作が考えているストーリーが映像として表現されるには曖昧で抽象的過ぎるので、一部のひとには訳が分からない。意味が把握できない。
でもストーリーが観客にとって把握しにくい状態になっても、それでも映像作品として観れてしまうのが京アニ作品って意味です。すいません。

このフォーマットを打破するにはいかがなものか。京アニは原作付きの「氷菓」を作ります。
氷菓」の原作は物語性がすごく強い作品です。
フォーマットが完成している以上、それ以外の要素は外部から取り入れなければならないと判断したのかもしれません。
僕は京アニの関係者じゃないからそのへんは分かりません。
しかしそう仮定した場合、仮定ですよ、仮定した場合、急に「日常系ミステリ」を作りだしたことにも納得がいくようになるのです。
この記事とこのサイトは全部この仮定で喋ってますからね。

んで「中恋」です。中恋は原作付きですが、ほぼ原作を無視しています。今度は京アニは骨組みだけ貰って中身は自分たちでつくるという作業に手をつけたように思います。他の作品でもやってましたけど、今度はオリジナルキャラを大量に投入したり、尺を原作より異常に多くとってますよね。
物語性がありながらも、オリジナル。これ、京アニのはじめてのチャレンジですよね。
体質改善かもしれません。でないと生き残れない。組織はぶれているほうがいい。自然科学の分野でいうところの振り幅が大きい方が生態系として永く生き残るってやつです。安定してると硬化する。
でも完成された映像のフォーマットは変えようないし。変えようと思ったら細胞入れ替えるみたいにスタッフ変えなきゃいけない。
せめて方向性だけでも変えたいんじゃないでしょうか。

「中恋に石原はどうか」とかいう意見を聞きます。映像が京アニにしては古いとか。
石原はAIR」「ハルヒ」「Kanon」「CLANNAD」という「原作付きの映像化」京アニで一番最初にやってるひとです。
その後に山田監督の「けいおん」がきて武本の「氷菓」がきている。石原の「日常」
中恋は物語、映像手法ともに、「AIR」「ハルヒ」の頃に戻ったというか、戻らざるを得ない。
これは仕方がないことです。「物語」を京アニで作った強い実績があるのは石原、武本監督だけです。
でも石原、武本監督でも「原作」がないとやっぱりつらい。両者共に物語より映像が強いのを見ても分かります。
でも内容は物語のあるオリジナルにしたい。そこで脚本に採用したのが花田十輝じゃないでしょうか。
物語は限りなくオリジナル。でも物語性は獲得したい。しかし映像のフォーマットは完成している。

花田十輝は萌え、アクションなんでもこなしますが、なにより物語に意味を付与するのがうまいひとです。
いま再評価で話題になっているアイドルマスター XENOGLOSSIA」が一番顕著な例です。萌え、ロボ、アクション。そして物語としてはすごく破綻しているのに、それなりに見れてしまう。
意味付けがそれなりにされていたからです。一部のひとにはそうじゃなかったけど、一部の人には意味があるように思えた。
意味付けっていうのは凄く大切です。
仕事とかすげえつまんないでしょ?学校の授業とか。
でも「こうするのは○○だから必要なんだ」とか「こうすると爺さんの客が喜ぶ」とか意味があると分かると面白くなりますよね。「やんなきゃ」って思う。
「じゃあ、こうすればもっと爺さんは喜ぶかな」とか自分で創意工夫するようにもなる訳です。そうさせて貰える環境なら。
ライン工が限りなく苦痛なのは「AをBにCの方法で組み込め以上」とか言われて仕事に意味を見出せないからです。
勉強の理数系と一緒ですごく想像性がないからです。
でも理数系でも意味を見出すと凄く面白い想像性のある科目になりますよね。ライン工も「ああ、オレの作った部品が合体してテレビになる。子供たちが僅かでも現実から息抜きできるかもしれない」という意味を見出すと面白いかもしれません。

全然違うはなししますけど、僕はインターネットの文章って基本信用してないんですよね。
好きなサイト以外ウロウロしないのもそのせいです。
ネットの文章って限りなく乱暴です。
神とか天使とか萌え豚とかいう劣化した言語使ったり、意味も無く行間空いてたり、改行多かったり、太字、フォント拡大が多いです。映像挟んだり。
僕もこのサイトはじめた時はなんかそういうのを避けてたんですけど、徐々にそういうのが多くなりました。
なんでそういうことするかっていうと




「意味付け」されるからなんですよね。


こんな風にですね。なんか重要に見えますよね。


話を戻すと、花田さんはそういう「意味付け」する脚本をつくるのがすごくうまいひとです。例えば「アイドルマスター XENOGLOSSIA」は一言でいうと「説明が説明になってない」作品です。
乱暴にいうとwebサイトと一緒です。
作品中にインベルが春香ラブなことが提示されますけど、具体的な理由は提示されませんよね。
ラストの展開に繋がるもの凄く重要なことなのに。
でも春香の映像を沢山ストックしてるとか、常に監視しているとか、そういうストーカーみたいなことしてますよってデータを大量にアピールすることで「ああこいつは春香ラブなのか」と思わされちゃうんです。
でも「説明らしい説明」してないので、あれは本当は「ただロボットがストーカー行為をしている」以外のなにものでもない。
インベルが春香ラブなのにはこういう理由がある」という説明にはなってない。
でもそういう映像が流れたあとに春香が「わたしのことずっとみててくれたんだ、嬉しい!ありがとうインベル」とかいって物語作ってくれるんで意味を見出した視聴者は「そうか」と。
あそこで「インベル、キモいしプライベートなくなるからはっきり言ってやめて欲しいんだけど。今後あなたに乗らないようにするし、監視されてないか気をつけるわね
とか物語壊す方向のセリフ喋ってたら物語としては、ほっこりロボラブストーリーにはいかなくなるんです。
というか「アイドルマスター XENOGLOSSIA」はそういう見方をする作品ではありません。
だから僕のこの評価の仕方も本来は間違っています
ただ、花田さんはそういう映像に対して人が欲しがっている意味付けがいくらでも出来る脚本が書けるという事例です。
だから逆にロリコンロボと電波なヒロインたちがラブな作品と観たらそういう意味がガッツリ付きます

また話が逸れますけど、我慢して下さい。
細田監督とか宮崎吾朗監督が一時期「ジブリの後継者足るか。いやたりえない」とかマスコミが凄い勢いで煽って迎合するひとがいっぱいありました。あれは「宮崎駿ももう歳だなあ」みたいにみんなが思ってるところへ物語作って壊す作業を同時にやったんで、思考停止してマスメディア浴びるように享受してたひとにとってたまらないカタルシスになったからです。
普通に考えて、吾朗作品は駿と接点が「ジブリ制作」「親子」以外にはないから「作品」が一緒にされるのはおかしいんです。
作品の監督は吾朗なんだからそこに駿をつっこむのはおかしい。事実、駿だって出来た作品鑑賞して感想言うだけしかかかわっていない。むしろ駿基準で作品作っていたスタッフを吾朗がコントロールするのはリスクがあり過ぎです。
細田監督なんか全然関係ないじゃないですか。
吾朗監督が「この作品は父親の後を継げるように努力しました」ってコメントしたなら別ですけど。

だから「アイドルマスター XENOGLOSSIA」も「ジブリ作品云々」も物語作って壊すという意味では表裏一体です。
勘違いしないで欲しいのは、花田さんは自分の作品を自分で作っているから問題ないってことです。
マスコミは他人のやってることに物語作っているから、酷い場合だと壊すから害悪以外のなにものでもない。

まどマギが物語としては」とか言ってるひとやそういう記事が面白いひとはそういった一連の作業にカタルシスを覚えている
他人の作業に横から入り込んで自分で物語作って壊している。考察とか読んでてもイライラするのはああこいつはエロゲーの脳味噌でまどマギを解釈しているのかとかそういう「説明が説明になってない」部分が多いからです。
妹孕み要素が大好きなひとが「あの純愛姉萌えゲームは妹分が足りないし、愛がない」とか言ってるのと実は同じレベルな訳です。
普通の恋愛ものに「このギャルゲーは男の娘ゲーの相互オナニーシステムと女装部分とが繋がっている箇所がある」と評価するとか。
文章の前提として「まどかがエロゲーと仮定して」と付けないといけない。
本来としては。でもネットでは前提としてそういう作業は省略されている。
僕も以前「「男たちの挽歌」が「まどマギ」に見えるわけがない」ってやりましたけど、あれネタですよね。ネタレベルをすごく真面目に語っているのって僕にはしんどいんです。
だから僕が好きなサイトっていうのは「嘘を嘘って自覚してる」サイトばっかりです。「物語を物語として自覚している」と言っていいかもしれない。
でも逆に「物語を物語として自覚している」サイトが嫌いなひともいます。当然です

とにかくそういう「意味付けする」花田さんを京アニは中恋の脚本に選んだ。
なぜか。京アニの完成した映像に意味付けしてくれるからなんじゃないでしょうか。
でも京アニの映像っていうのは強度からいうと凄く硬質だと感じます。完成してますからね。
外からタグ付けした程度だと全然足りない感が強いです。
で、花田さんは父親の問題とか、隠れ中二のモリサマー投入して勇太と六花の対立関係を強化したり、くみん先輩突っ込んで恋愛のバリエーションを増やしたりして物語の要素を強くしたように見えますが、そういう内部から攻める正攻法で中恋のプロットを作っても、京アニの映像は揺るがないくらい強度が強い
本当は意味あるんですよ。あの映像は。でもネットとかマスコミがやってるくらいの中毒性のあるカタルシスがないんで、外から見ると意味ないんです。
意味ない作業はつまんないってさっき言いましたけど、「中恋つまんない」っていうひとには多分、「中恋鑑賞」っていうのは完成度高い映像を延々見せられているだけだからだと思います。
ライン作業と一緒な訳です。
タイトルで「中二病でも恋がしたい!」とか言われて過剰に期待しちゃったのもあると思います。
ネットでも「京アニはこのままでいいのか」的な言説が流れたような気がします。気のせいかな。
ともかく「氷菓」のあとですから京アニの転換点みたいな雰囲気へこんなタイトルが来たのに、全然カタルシスが得られない。
それはちょっと納得できないひとが出てきてもしかたありません。

僕は以前、記事で中恋に関する映像を「フラットで区別しない」と書きました。僕はそれはいいことだと思ってたんですけど、そうじゃないと思っているひとには起伏がないけどクオリティだけは高い映像を見せられているだけになったのかもしれません。
(註:このフラットな映像も光の効果だけで区別していた(だから最終回の六花の父親は光の集合体だと思っています)のに終盤になるに従って中二世界にはあからさまに黄色いフィルターがかかるなど、勇太が中二を差別していたように明らかに映像面でも中二世界を差別するようになった)

「中恋つまんない!どう観ればいいの!」っていってるひとは勝手に自分で物語作って壊していくのが癖になってる可能性があります。
「タイトルとプロット見る限りだと中二病とか恋愛が物語としてダイレクトに絡んでくる」って思ってたのに全然違うから憤りが堪らん状態でしょう。
しかしこれは映画の宣伝テレビで観て「今年一番の感動があなたを包む」って言われて実際に鑑賞したけど感動できないって怒ってるのと似ています。宮崎吾朗細田守問題とか。
この場合の責任は明らかに物語勝手に作って煽っているだけの宣伝会社に問題があるんですけど。
だから「けいおん!」のタイトルは「けいおん!」なんですよ。
けいおん!」が大ヒットした理由にはタイトルもかかわっている。
中二病でも恋がしたい!」じゃなくて、もっと別のタイトルだったらみんなこんなに憤る必要もなかったかもしれない。

まあ、今回は色々やってそれなりに成果があっただろうし、京アニも次の作品作る時は今回の色々な部分を反映してると思います。
興業的に失敗じゃないんだけど、完璧に成功している訳でもない。でもそっちのほうがブレがあっていいのかもしれません。
制作会社として硬化しないっていう目論見があったとしたら成功しているんです。
成功ばっかりしてる制作会社って存在しませんから。してるのはアイズナー独裁政権時代のディズニーみたいな会社です。
会社のイメージ守る為に版権に固執して、イメージにそぐわない作品は一ミリたりとも近づけない。結果、敵を大量に作りました。

けどやり過ぎると恋と選挙とチョコレートになるんですよ。起伏がないけどクオリティだけは高い映像で視聴者に気を遣いすぎてずっと選挙の仕組みとか話の流れを口語で視聴者に説明している。
もの凄い勢いで「これにはちゃんと意味があるんだ」って説明している。

終結として「中恋」つまんないと思ったら観るの止めて他の作品観ればいいんじゃないですかね
次の京アニもつまんないと思ったら観ない。
勝手に作って壊された評論をネットで垂れ流されるより、無視されたほうが京アニとしても「どうすべえか」って思えるんじゃないでしょうか。作品が受ける扱いでなにが一番辛いかって言うと、微妙な評価より無視ですし。
「ああ、このまま消えていくのか」っていうのは京アニにとって一番辛いはずです。
そもそもそういうことを止めたいから方向転換したはずでしょうし。
後で重要かもって思ったらDVDかBDで観ればいい。「再評価」ってそういう意味です。
しかし言いたいことは抑えられませんから、やっぱり評価しちゃうんですけど、せめて作って壊す作業は避けたいんですけど、
しかし避けられない。この記事も似たようなもんです。僕のサイト自体微妙な記事多いし。

そういう訳で僕はあんまりwebを見ないんです。
けどはてなアンテナには登録されてませんけど、ブラウザのブクマにはうあーっやめろーってなるくらい登録してますよ。
そっちのほうがまとめて見られますし。
まとめてweb読んで、時間作って、本読んでアニメと映画観たりする。そういうスタイルがいいです。
あんまりストレス溜めてこんな長文作りたくないです。あ、本音が漏れた。

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