人の生理からズレた桜場コハル『みなみけ』

みなみけそんな未来はウソであるコミックアニメ桜場コハル感想

みなみけ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

みなみけ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

そんな未来はウソである(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)

そんな未来はウソである(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)

みなみけ」の10巻が発売されたので正月休みに読んだのですよ。相変わらず徹底的にオフビートでなんかレアっぽい。
萌えとは違うムズムズさがある。
桜場コハルはちょっと普通のひとの生理からズレた感覚で漫画を描いているからだと思う。
それはインダストリアルミュージックやヨーロッパ映画を観ている時に感じる「外し」た感と同じだ。

インダストリアルミュージックが日本でウケないのはオフビートでズレているのでノレないからだ。
日本で受ける音楽とは一緒に踊れて、歌える音楽だ。カラオケが日本発祥の地なのはそこに原因がある。
一方でインダストリアルがマニアに人気があるのは、日常の音楽体験では得られないレアな悪夢感みたいなものを得られるからだ。「外し」感で既成の音楽に反発しようと言う意図もある。
オランダを代表とする芸術映画が貴重とされているのはアメリカのオンビート感覚の監督には絶対に醸し出せない「外し」があるからだ。

桜場コハルのコミックスやアニメを読んだり観たりしている時に感じるムズムズ感、「どうしようもねえ」感、レア感はこれまでの読書体験や視聴体験では得られなかった「外し」た感が貴重に感じられるからだ。

みなみけ」「そんな未来はウソである」で一番最初に目につく、会話を聴いているようで聴いていないとか、自分の都合だけを優先させるのでズレが生じるとか、行き違いになって事態が撹乱していく面白さ、というのは表面上だけだ。
それは「先生と二宮君」と一緒で決定的なものにはならない。
実際はオフビートによる部分が大きいと思う。
桜場コハルのコミックスには置いて行かれる感が顕著だけれど、それはオフビート特有の会話も手伝っている。
ぎくしゃくした会話だ。
語感の悪い言葉遣いによって通常のテンポからズレている。勢いだけはあるのにそれに反して喋っているセリフの語感が悪いので生理的にテンポがずれる。
この感覚は実は僕たちの現実には稀にしか存在しない。実際に「ぎくしゃくしている」時にだけ感じる感覚だ。
でも「みなみけ」「そんな未来」では常に発生している。だからレアな体験として感じられる。
さらにコハルの漫画はコマ割りもぎくしゃくしている。
異常なアップで頭や顎の変な部分で見切れていたり、顔そのものがはいってなかったり。
普通の漫画だと顔を入れるなら、なんとか顔の全体像だけでもいれようとするものなのに。

キャラ造詣もぎくしゃくしている要因だと思っている。コハルのキャラはどこかビクビクしている
大言を吐く割には直ぐに泣いて謝る。常に対人関係に怯えているようにみえる。これがぎくしゃく感をより醸し出しているように感じる。

  • 保坂は本当に気持ち悪いのだろうか。

気持ち悪い保坂だが、なぜ気持ち悪いのかといえばオンビート寄りだからだ。どことなく読者の通常の生理感覚にあっている。
どことなくと書くのは保坂も基本はオフビートだからだ。
保坂の行動は生理を逆なでする気持ち悪さを持っている。
汗が一番特徴的だ。なぜ、保坂の汗だけ気持ち悪いのか。
保坂の生理感覚が僕たちの生理感覚に近いからだ。ただし保坂も基本はオフビートなので一歩距離を置いて見られる。
ただし保坂の「気持ち悪い」が決定的なのは周囲がナチスゲッペルスのように「気持ち悪い」という記号を繰り返し読者と視聴者に叩きこんで擦りこむからだ。

保坂に若干残っている気持ち悪さを中和しているのが速水先輩だろう。保坂の行動に「わーい」といいながら拍手をしたり、言葉尻を捉えて反復したり。誰が観ても余計な言動をする速水先輩の介入でオフビート感が戻っている。

  • 個人的に好きじゃなかったアニメ二期はオンビート

僕は実はアニメ二期の「おかわり」が好きになれなかった。やっていることは一緒なのにどうしてなんだろうと疑問に思っていた。これだと普通のアニメじゃないかとずっと感じていた。
生理感覚の思考で考えると納得がいく。二期はオンビートだ。
間合いやテンポ、セリフのタイミング、全部普通のアニメの流れだ。
だからテーブル席全員がラーメンを無言で啜ったりひたすらお餅を食べたり、原作にもあった壊れた硝子のアクセサリーを巡って全員が右往左往する「みなみけ」らしいシーンですらやや冗長だ。
ムズムズ感、「どうしようもねえ」感、レア感がないからだ。
特筆すべきは二期オリジナルキャラの冬木真澄だ。
冬木はアニメオリジナルだ。また背景にアニメキャラらしい設定を持っており、それがドラマツルギーとして二期の背後で動いて行く。
冬木は徹底的にオンビートだ。セリフも、行動も、設定もなにもかも。
最終回は感情移入を促すくらいに。
普通のアニメなら上質の部類にはいるオリジナルキャラだろう。しかし「みなみけ」ではオンビート感覚を導入してしまうキャラに他ならなかったのだ。
だから冬木はラストに消えてしまう。誰にも声をかけることなく。
チアキは少し心を動かされたようだが、それでもまた日常に戻ってしまう。
冬木が登場することでアニメ「みなみけ おかわり」は普通の日常アニメになってしまう。
それはそれで十分面白いのだが、特別感は薄くなる。
冬木は性格的に頑固なのでカナやチアキのいじりにも抵抗する。
雪合戦のシーンが面白かったのはカナとチアキが冬木のオンビートに巻き込まれたからだ。
だからあのシーンは「みなみけ」らしくない、名作アニメっぽい雰囲気になったんだと思う。
冬木がチアキ、カナと心を通わせるというカタルシス

ちなみに一期の「先生と二宮君」もオンビート寄りだ。ただしあの二人はドリフのメンバーのようなコント感覚を持ち合わせていたので雰囲気を壊さないで済んだ。徹底的に「先生」「二宮君」と繰り返すことで人工的に視聴者の感覚からズレてもいる。
速水先輩が保坂の言葉尻を捕えて喋るのに似てもいる。

みなみけ」のオフビート要因は、他にもいらないコマを挿入したり、一つのコマに変にセリフと動きを詰め込んだり、セリフに「ー」や「…」を挟んだり、ジャンプカットをいれたりして「外している」からだと思う。
コハルのコミックスは「他人」どうこう以前に、あれは僕たちとは全然違う世界に生きている人間を描いている。
異世界で騒ぐ、もはや彼岸の存在となった「みなみけ」「そんな未来はウソである」の登場人物たち。
それが少しも不快じゃないのは、ゴダールの映画やオフビートのインダストリアルを聴いているのと同様、思春期の少女たちを描いているように見えて本当は存在しない、時間の流れ、生理感覚が編集されまくりの世界を外から眺めているからだ
だからカナやチアキ、ハルカと同じ現役の高校生、中学生、小学生が見てもコハルの世界は異質に映る筈だ。

10巻の帯にある「桜場ワールドへようこそ!」は常套句の域をでない紋切り型のくせに的確にコミックスの特徴を表現している。

アニメの第四期「みなみけ ただいま」が年明けに予定されているけれど、どうなるんでしょうね。気になるところです。

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