物語や世界、人物を語り手はどう捉えるか

アニメラノベ漫画語り手

ラブライブ!  μ's Best Album Best Live! collection 【Blu-ray Disc付 通常盤】

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涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

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なんで僕がラノベアニメ漫画を語る時、環境、つまりシステム面が多いんだろうとふと思った。
判り難いので簡単にいうと構造とか枠組みとかいうといいかもしれん。

ラノベやアニメがシステムがもろ剥き出しになっているジャンルだからじゃね? 楽だからじゃね? とか思ったりして。
といってもネットの情報を探ってみる限りでは、制作者さえも「物語」を語るのではなく「システム」をもっぱら語ること、評価することに終始して、なんだかなあ、と。
多分ですけれど、ラノベやアニメが語られる時に「どうせ同じコンテクストだろ」とか言われちゃうのは制作側も一緒になってシステム論を垂れ流している部分にも問題があると思うのです。
そうじゃないひとも居ますけれどね。
エロゲーでも昔そういう議論あったらしいけど、僕は知らん

その、なんつーんですか、別に語り口の手法とかだったらそれも「物語」の側面だから全然いいんです。
でも、全く別々の物語の構造を並べて、その物語のプロットやあらすじを比較して「これはこう違う」とか「ここは一緒」とかって明らかに物語の議論じゃなくてシステムとかの議論ですよね。

「むかし、むかし、あるところに」「近未来、環境管理権力が蔓延する世界で」という環境やシステムと同義ぐらいに、「お姫様に憧れている騎士はとても臆病でした」「管理システムによって生を受けた伝説の男が立ちあがったのです」
「このお話は世界全てが絶望に見えていた騎士の僕が喋ります」「老いて死んでしまった伝説の男のはなしを友人の僕が語ります」とても重要じゃねえかと思うのです。そこから物語が分かれたって全然いいと思うのです。
というかキャラクター、語り手の存在っていうのは、奇抜さや読者の興味を惹く媒体ではなく、本来そういうものではないのでしょうか。
語り手が違う以上、話が破綻しようが、理想の方向から逸れようが、それが物語なのです。
騎士道を極めた騎士は潔癖である必要はないのです。語り手が人間である以上、物語の組み立て方さえ面白ければ、ランスロットやディルムッド・オディナのように物語を裏切ってもいいと思うのです。

僕のTLではラブライブ!にブヒブヒ言ってて、「にこ先輩!」「稀先輩はおっぱいおっきい」っていうのがガンガン流れてて。それを見てて気持ちいいのはそこかなと。あれは同じスクールアイドルというシステムにキャラという語り手が一同に会している快感なんですよね。あ、僕もベスト盤買ったよ。
ちょっと古いけれど、マクロスFでも同じ曲を歌うのでも、ランカが唄うのとシェリが唄うのでは全然意味合いが違ってましたよね。それは立派に「物語の語り手が違う」事に寄るのではないのか。
プリキュアシリーズ」だって語り手が違うだけで、展開は同じ。そこにみんな夢中になってる。
プリキュア」ってシステムは一緒なんだけど。
「戦コレ」にしたって「食事」というシステムについて各キャラなりのアプローチはあるんですよ。
それが「物語」になっているんです。あの記事は其の参も其の四も予定してるよ。
あ、別にキャラにブヒってるのが至上って主張してるんじゃないですよ?
でもブヒるのも物語の側面だとは思うのです。
ヨルムンガンド「TARITARI」が傑作なのはキャラの視線が、世界や他人を見る方向が多様性に富んでいたからです。


僕がちょい前にやった「サバービア」「田舎」「都会」のお話でもそうだけれど、語り口が違えばシステムそのものさえも逆転してしまうのです。そこがあの話には抜けていた部分もありました。
同じ「郊外」「衰退して田舎化しかかっている郊外」でも語り手が違えば、全然違うお話になる。
閻魔あいと南三姉妹では全然違うのはそこが原因なのです。同じ「退屈な郊外からの脱出」でも手法が違ってくる。なんかあの記事と矛盾したこと喋ってますけど、
システムと語り口、語り手を変えるっていうのはそれくらい別物であり、同時に連動しているんです。

だから咲-Saki-咲-Saki-阿知賀」が全く同じシステムとテーマを扱いながら、別の物語として機能しているというのはとても素晴らしい可能性だと僕は思うのです。「咲-Saki-」サーガの先にある「別々の物語が集束する快感」というのは別々の語り手が一同に会すると言う、世界の再統合なんですよね。

Aさんの話にCさんっていうのが出現して、Cさんは凄いって語っている。
Bさんの話ではDさんっていうのが出て来て、あいつは俺の知り合いだという。
で、Eさんの武勇伝を遠くで聴いていて、実際にあってみると、CさんとDさんとEさんが同一人物だったっていうのはすごいカタルシスを覚えますよね。ああ、僕も語り手の一部になっているんだっていう。
で、自慢したくなる。僕は実際にあのひとにあったぞ、って。
それがまた新しい語り手と化す。

冨野とか押井さんとか、庵野とかやってますよね。そういう基本的な物語の可能性の一部というのは。
手塚治虫なんかは火の鳥で一生涯かけてやってる訳です。宮崎駿とかね。
語り手を変えて同じテーマの可能性の再検証を繰り返しているのです。

この作品はなぜ面白かったのかって言う焦点で「ああ、このキャラは、登場人物や世界をこう見ていたのか」というそういう語り口方面からのアプローチはそれはとても豊かだなと。
芥川の「藪の中」ですけどね。あれがすんごい古典になって何度もリサイクルされているのはそういう理由に寄ると思います。恐らく、芥川自身もそういう問題に囚われていたからビアス「月あかりの道」をそのまま「藪の中」に変換しちゃってリサイクルしているんです。
谷崎の痴人の愛とか太宰治の語り手は異常に卑屈ですけれど、それで名作足り得ているんですよね。

よく原作と映像化作品を比較する事に違和感を覚えているひとがいますけれど。
僕は原作と映像化作品を出来る限り較べないといけないと思っているタイプです。
原作者という語り手と、映像化スタッフという語り手が全然違うからです。

活字メディアの専門家と映像メディアの専門家、いまはラジオじゃなくてドラマCDですけれど、ラジオドラマの専門家。
それぞれアプローチ、語り口が違って当然です。

セーラー服と重戦車」の記事でも書いたけれど、システム全般は突き詰めると同じ場所に辿りつくので、物語が増えて行く現在、これからはさらに語り手の問題がウエイトを占めるのだと思うのです。
日常系という画一的なシステムが成長している現状としては、キャラクターとは普遍性を保ちながらも、独特の視線を獲得する必要がもっともっと増えていくべきなのです。
ハルヒキョンの一人称なのはちゃんとした意味があるのです。あいまいみーのメインがあの四人組なのには理由があるのです。

こういうとお前もシステムのはなししてんじゃねーかって言われそう。

ディファレンス・エンジン〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

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