資質を持った大御所による百合漫画『女の子の設計図』

百合 紺野キタ 漫画 女の子の設計図

女の子の設計図 (ひらり、コミックス)

女の子の設計図 (ひらり、コミックス)

これは僕のまったくの主観なのだけれど、元来、商業世界では「百合」はメインストリームに出て来てはいけないものだった。
もちろん、「なんとなく同性がいちゃいちゃしている」だとか「同性に魅かれあう」とかいったそれとない雰囲気を持った作品群はあったのだけれど。
でも「同性が好き」といういわば「資質」みたいなものを露骨に持ったキャラクターが登場する作品を全面的に読者に提出する場は少なくとも同人誌市場でしかなかった。
それはBLも同じくなのだが、両者を同時に扱うとややこしいのでこの場では百合だけ扱う。

ともかく今でも現状は変わらない。1998年に「マリみてが一巻発売直後大ブレイクを起こし、2003年に「百合姫」の前身である「百合姉妹が登場したにもかかわらず。

各出版社が百合雑誌を創刊をしたものの「つぼみ」は2012年の12月号、vol.21をもって休刊となった。
ラノベ作家である一柳凪は百合でデビュー以降、百合を書くのが難しくなった。

「いま、こんなに百合が出版されているじゃないか」という声も上がりそうだけれど、現状の「百合」の扱いは「然るべき恋愛感情」ではなく「ちょっと変わった恋愛形態もの」「ピュアな精神の結晶」として扱われている。

それでも、そういった扱いは大手出版社といったメンストリームだけであり、作家の「資質」とマイノリティ読者の存在を第一に考える出版社はちらちらとではあるが明らかに「資質」を持った作家の作品を読者に提出し続けてきた。
「資質」とは同性恋愛を普通の恋愛と同義に捉えるセンスだ。

前置きが長くなった。ひらり、コミックスから出版された『女の子の設計図』の作者、紺野キタもその「資質」を持った一人だ。

紺野キタ百合姫の前身である百合姉妹のvol.1から蔵王大志森永みるくタカハシマコナヲコといった「資質」を持つがために、あえて大手を避けてきた作家の一部に混入して、読み切りunder the roseを描いている。
これらの作家の一部は微弱ながらも百合ムーブメントが訪れると、大手にも百合作品を描く場を与えられた。だけれど紺野キタだけは「百合姉妹」以前と同様、同人誌活動、中堅出版社による作品提出という質実剛健な姿勢を貫き続けてきた。

理由としては、紺野キタナヲコ同様、百合を完全に恋愛として捉えてしまっている「資質」の部分によると僕は思う。

森永みるく秋山はるといった百合作家の作品には同性恋愛に苦悩する主人公が登場する。
社会性を考慮するとこうなる。だけれど、その社会性というのが癖物で、結局は社会が介入すると、純粋な恋愛であったはずの「百合」は道徳的に不謹慎なものとして機能しはじめてしまうのだ。

反面、紺野キタナヲコの百合漫画は、通常の恋愛漫画と全く同じ構造で百合恋愛を捉えている。
恋愛によるセラピー効果だ。
男女の恋愛漫画では「厳しい現実」が待ち受けている場合、恋愛要素そのものが現実から主人公、ヒロインを癒し、現実に立ち向かう力としてドライヴする。恋愛漫画のキモとはそこにある。
現今の大手出版社による百合漫画にとっての「厳しい現実」とは前述した「百合」を道徳的に不謹慎なものととらえる社会のパターンが多い。社会が百合作品に関わると道徳、倫理は避けられない問題であり、読者もそこのところをヒロイン達がどうクリアしていくのかが見たいのである。
森永みるく秋山はるは「資質」を持ちながらもそこに留まることに決めた。結果、この一連の作家はマジョリティなファンの期待に確実に応える力量を保持した。

ところが紺野キタナヲコはそれを日常レベルで実行してしまう。社会性は問題じゃない
女性同士の恋愛を、日常の現実問題に対してドライヴする力に変換してしまうのだ。通常の男女の恋愛漫画と同じく
「恋愛とは異性同性を問わず、両者の妄想が互いに成立してはじめて実を結ぶ」という厳しい視点で。

紺野キタはこの厳しい視点を甘くデコレートする術に長けている。
『女の子の設計図』も然り。この作品集は厳しい現実から、癒しである妄想世界への移行が実に手際よく行われている。
姉と妹との恋愛を描いた表題作『女の子の設計図』では厳しい家庭環境から徐々に妄想世界に移行する。
紺野キタは社会性に頓着しない。恋愛の癒しは全てヒロイン二人の辛い日常を救う現在進行形のものとして機能する。
終盤あたりから、

「好き。大好き。だからどこにも行っちゃだめなんだからね」「……うん」

というセリフが示すように、姉と妹の恋愛関係が癒しとなって二人を救う。ラスト近く、公園で、

「私たちってヴァンパイアみたい」

という妄想を共有するセリフで一気に二人の距離が零に等しくなる。恋愛は現在進行形になる。

これは徐々に妄想世界に移行していく姉と妹の描写を重ねていく手腕もさることながら、男女間の恋愛では絶対に成立しない「自分と同じ同性の気持ち」という同性恋愛特有のものだとしか表現のしようがない。
ここまでくると僕ははっきり言って扱い兼ねる。それは多分、僕が完全に「資質」を有しておらず、一方で紺野キタが完全に「資質」を有している差だろう。
もう「いい世界だな」と憧れながら見て行くだけしか僕には出来ない。
恐らくこの差が世間一般と「百合」との境目なのだろうと思う。

妄想から現在進行形の恋愛は、同性に恋することを恐れ、同性に恋をしてしまう原因は自分のなかに少年がいるからだと思いこむ少女を描いた『少年』も同じくする。なにしろキスをするのが、

「これは恋する少女が恋する少女へ」

なのだから。少年を心に有しているという否定的な妄想から、現在進行形の恋愛に移行することで『少年』は幕を閉じる。

『wicca』ではまさに女性同士の深層心理そのものを扱ってしまう。

ラストに収録された『おんなのからだ』では妄想と肉体関係が合致している。
百合漫画が盛んに扱う、「他人の認識が自分への認識」という現象学的な心身一元論という極めて近代的かつ一般に普及している手法を用いているのだ。
燈乃ままれの「まおゆう」庵田定夏ココロコネクト等、盛んに世間でうたわれる「他人の認識が自分への認識」という現象学的な心身一元論が普及している現在では、極めて普遍的な手法であるともいえる。
この普遍的な問題、「同性愛に悩む二人」から、一気に「同性愛の妄想→同性愛の肯定から現在進行形へ」に移行する手続きをたった16Pの掌編で扱っている。
紺野キタは、恋愛の持つプリミティブな「好きな対象とセックスしたい」という衝動を前面にもってくることで『おんなのからだ』のヒロイン二人を社会の問題から意図的にずらしているというか、無視させている。
眼中にないと言えばいいかもしれない。
この清々しさ。
恋愛の前には人間関係や社会性なんて低く見積もって当然、という恋愛漫画が陥り易い落とし穴を紺野キタは見事に逆手にとってしまう。
こうなると最早18禁の百合恋愛ゲーの世界なのだが、紺野キタはストーリーテーリングの心地よさと、それに伴なった優しい絵のタッチで単なる性的欲望実現の域を超えてしまう。

このままもっと紺野キタの作品にも触れて過去作にもなにか言いたい衝動が僕にはある。だけれどもそれはとても貴重な資源を浪費しているようで気が引ける。小林立の「咲-Saki-」について上手く言及できないのと全く同じだ。
それくらい紺野キタは希少な「資質」を持った百合、BL作家なのだ。
紺野キタの今後にさらに期待する。というか一読者として、次回新刊の出版がなかなかに待ち遠しい。
僕にとってはそれくらい貴重な作家なのです。

星川銀座四丁目 (1) (まんがタイムKRコミックス つぼみシリーズ)

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