ニャル子さんの「やられたらやりかえせ」

這いよれ!ニャル子さん アニメ 高橋慶太郎 虚淵玄 小林立

僕はニャル子さんのアニメと原作に注目している。
ニャル子さんを観ていて毎回思うのは強烈な80年代の意匠だった。
「ニャル子」のディティールを指して80年代っていうのはとても簡単なことだ。というか、アレは意図的にやっている
だけれど、僕の中ではもっと根本的な問題が埋没しているような気がしてならなかった。80年代のノスタルジーに浸るとか全然そういうことじゃない。
一言で80年代の意匠を表す。それってひょっとして「理不尽」じゃないかしらん。
弱者を切り捨てるレーガンサッチャーの時代。集団自殺を世界規模で強いられた冷戦。
グリコ・森永事件。戸塚ヨットスクールリクルート事件チェルノブイリ事故。

80年代迄のアニメはとかく理不尽だった。一概には言えないけれど、大体どの主人公も極端な状況に対して割と簡単に馴染んでいた。
それを崩したのがエヴァンゲリオン(95)」ナデシコ(96)」だったと思う。
今思うと「ナデシコ」の登場人物はアキトをはじめとして、アイデンティティーを守る為に「ゲキガンガー」を思いっきり非難していた。
「ゲキガンガー」はナデシコの核である「正義の味方」の象徴だった。
彼らはその象徴を守る為にことあるごとに「肯定派」「否定派」に分かれて論争をしていたように思う。
アキトは戦闘に参加するごとに、局面が進展するごとに「これでいいのか」と自問自答していた。
でも結局、自己嫌悪に陥ると「ゲキガンガー」を鑑賞してしまう

エヴァンゲリオンのシンジ君はゲンドウにエヴァに搭乗するよう強制されるが、激しく拒絶する。
エヴァに乗るまで、乗ったあとも「これでいいのか」を絶えず繰り返していた。

この二作品が大ヒットを飛ばした時点で、理不尽な状況に対してどう対応するかという文脈が市場と価値を持ち始めた。
理不尽への拒絶を論じることはそれなりに高尚な行為で、論じる意味があるような雰囲気になった。

結果として日常系が異例のヒットを飛ばしたのではないのか。
ただそこにある日常を描く。理不尽なことはあまり発生しない。
いわゆる京アニがその筆頭格だろう。その次にシンカイさんじゃないだろうか。
京アニに理不尽はあるかもしれない。けれど、そこには「世界を救え」みたいなマクロな問いかけはなかった。
むしろ京アニは日常を保持する為に、とてつもない質量をもって現実世界のサンプリングをアニメに施した。
シンカイさんの主人公は女性との理不尽な境遇に徹底的に悩みつくした。女性との関係にだ。
京アニ同様、現実の再現に大変な手間をかけて。
少なくともシンカイさんの主人公は「ロボットに乗って世界を救え」なんて滅茶苦茶な要求を受けなかったはずだ。
だけれど、理不尽な状況を論じる文脈は大きな市場を形成していた。
シンカイさんの女性に対する孤独な問題意識は異常なほどに大きく持ち上げられた。それは今も変わらない。

この理不尽を論じる市場はもの凄い勢いを得た。そこへまどマギが投入される。
まどマギ」は理不尽な状況を理詰めの構造で作成した。そんな袋小路の世界を救うために、どう対応するか、それが一番の焦点だった。
理不尽に対して慎重になっていた一部のアニオタは暴力に暴力で対抗する少女たちに反感を覚えた。
理詰めで追い詰められた結果、暴力で対抗するさやかやあんこ、ほむらに対し、バッシングを浴びせた。
そこには理不尽に対してアニオタが納得出来る解答が用意されていなかったからだ。
虚淵さんにしてみれば息苦しいままなんてのはマジ勘弁だったのだろう。「やられたらやりかえせ」が当然だったのだ。
僕もそう思う。シビアかつストレート。
しかし一部のアニオタは慎重になっていた。「やりかえすのにも理由が必要だ」と主張した。冷戦通過後なら当然だろう。
さらに「まどマギ」放送はイラク戦争終結した直後だった。アメリカを発起点とするグローバルスタンダードな「やられたらやりかえせ」が全部裏目に出ていた時期だった。

ここで勘違いしないで欲しいのは「やられたらやりかえせ」という脊髄反射は思考停止だ、という意見だ。
現実ならばそうだろう。でも僕が問題にしているのはフィクションのはなしだ。
僕たちはいつのまにか、フィクションの世界ですら、自分の行動に制限をかけて「良い子たれ」と振る舞おうとしている。
リアルな世界情勢を目の前に突きつけられた僕たちは、慎重派が一周して極端な保守派に転じてしまったのだと思う。

そしてそれは「まどマギ」では、こういう形で噴出した。「自己犠牲をよそおった自己願望充足なんて嘘臭い」

まどかが終わった後に「TARITARI」中二病でも恋がしたい!が投入された。
「TARITARI」は理不尽な問題にうまく対応していたと思う。それでも廃校問題には疑問視の声があがった。
んなもん知るか。金をつまれて、権力で押し切られたら、大人の世界はそれに従わざるを得ない。
大人の事情が子供に波及しただけだ。それはとても当たり前のことだ。
僕の知らないところで勝手に物事を進めるな。いや、別に世界は君の為に動いているわけじゃない。この世界は理不尽が当然なんだから。君の知らない場所で他人の手によって物事はどんどん決定していく。それをフィクションに反映させただけだ。

中二病でも恋がしたい!」で焦点になったのは終盤の主人公の暴力的な振る舞いだった。
アニオタは「僕の知らないところで勝手に物事を進めるな」という事態に直面した結果、暴力で対抗するしかない主人公を突きつけられた。それはただ駄々をこねるだけに終始したのだけれど。

理不尽だらけの世界で自分と愛するひとを守る為に闘うウテナ幾原邦彦さんでさえピングドラムでは世界の理不尽にどう対応するかという問題に拘泥したように思える。

つまり、エヴァナデシコのあとはずっと理不尽に対してどう理にかなった対応をするかが問題になった。
京アニは「ハルヒ」と「クラナド」「らきすた」「けいおん!」を経由した結果、
「いつどんな時でも、そのままの君でいいんだよ」
という解答を出した。
エヴァのシンジ君がずっと欲しかった解答にはからずも合流したのだ。
この「いつどんな時でも、そのままの君でいいんだよ」少女漫画の文脈だ。

この雰囲気は現在進行形だ。そこへニャル子さんが投入された。僕には彼女がとても貴重な特異点に思えた。

ニャル子さんは異次元にも行くし、秘境探検もする。目的は「世界を救え」だ。
真尋君は当然、理不尽に困惑するけれど、ニャル子の「まあまあ、いいじゃないですか真尋さん」で押し切られる。
「そんなん出来るか!」という前にニャル子に引っ張られて世界を救う為に異次元世界、非日常に強引に押しこまれる。
ニャル子やハス太、クー子のスタンスは「やられたらやりかえせ」だ。
虚淵さんがさやかやあんこ、ほむらに選択させた手段と同じだ。
何故両者の間に溝があるのか。
さやかやあんこ、ほむらは孤独を抱えていたからじゃないだろうか。シンジ君の孤独だ。
ニャル子さんは孤独を抱えていない
もしニャル子さんワルプルギスの夜に遭遇していたら「殺られる前に殺っちゃうに決まってるじゃないですか」とバールか宇宙CQCで対抗していただろう。
QBさんの契約に
「あー、ずるいですよ!卑怯です!異議を申し立てます。場合によっては裁判も辞さない覚悟ですよ」と異議を唱えていつものようになんとかしてしまうだろう。
もし真尋が契約にハマったら問答無用でQBさんの星を滅ぼしに行く筈だ。
ニャル子さんは孤独とは無縁なのだ。
ニャル子さんは80年代特有の「理不尽に対する耐性」を持っているのだ。

虚淵さんは一定のルールさえ守れば好き勝手にやっていい同人誌という場でFate/zeroを書いた。
そこでは「やられたらやりかえせ」が体現されていた。
ヒーロー達は孤独を抱えてはいるものの、悩んでいる暇はない。そんな「良い子たれ」と振る舞っていたら死んでしまう
そんな時間があるのなら、新しい情報を収集し、敵の動向を把握して次の一手を考え、準備する。
敵に一撃を見舞われたのなら殺される前に反撃すべし。やられたらやりかえせ。
だから「Fate/zero」では「自己願望充足」を満たしたものが勝者になる。まどかみたいに嘘臭くないのは
「欲望に忠実で何が悪い?」と言いきったからだ。
「いつどんな時でも、そのままの君でいいんだよ」という少女漫画の文脈を暴力という形式でアウトプットしたのだ。
これはそのままニャル子さんの欲望丸出しの態度にも共通する。

「やりかえす前にもの事には然るべき順序がある」なんて悩んでいる間にも世界はどんどん決定していく。
傍観していると君の望まざる展開になる。相手の都合のいいように物事は決定していく。

やられても脊髄反射で動くな。然るべき理由を見つけろ。
フィクションの世界にまでこんな思想を持ちこむ規範生は、多分、殴り合いになっても自分は殴られないと思っているのかもしれない。
やりかえしたら、さらにやりかえされるのは当然だ。
「その負の連鎖を止めようとしているんじゃないか」
考えるのはとてもいいことだ。だけれどその結果が「優等生」なんてつまらん。
繰り返す。この世界は「理不尽」で出来ている。本当に負の連鎖を止めたいと思うのなら、反撃せずに殺されるくらいの覚悟が必要だ。それはとても理不尽だけれど、試してみる価値はあると思う

こう書くと僕は自分が90年代の決断主義の怨念だなあと痛感するのだけれど。自由に価値を置き過ぎている気もするが、息苦しいよりはいいかもしらん。まあ、死なないにこしたことはないよね

ニャル子さん世渡りがとてもうまい
当たり前かもしれないけれど、理不尽に対抗する手段は結局、社会に対する地力なのだ。
理不尽にいちいち目くじらをたてていたら相手に先制をとられてしまう。
「TARITARI」の親連中が正論を口にして、それが理不尽ともうまく渡りをつけていたのはそういう理由による。
親連中が、理不尽にめくじらを立てて騒いでいる沙羽たちに「そんなことよりもっと大事なことがあるでしょう」という当たり前すぎることを言ったから、うまく希望につながったのだ。
ラブライブ!」も希と絵里、学院理事長が「それより先にすべきことがあるでしょう」「あなたたちより上位の存在がいますよ」という当たり前過ぎることをやんわりと注意したから、「μ's」はダメにならずに済んだのだ。
「ヨルムン」のココは一つの状況に対して持っているオプションの数が多く、決断力が異常に早い

しかしこれは別に90年代、零年代の問題に決着をつけたとかそういう大したものじゃない。
ニャル子さんそういう問題に頓着しないのだ。
ニャル子さんはちょっと異色だ。あっけらかんとした笑顔にみんなコロッと騙されている。
「まあまあ、いいじゃないですか」そう押し切られている。
ニャル子さんがターニングポイントになるかどうかは判らない。
何度も繰り返すけれど、彼女はちょっと特異点過ぎる。
しかしそれだけに、「ヨルムン」の高橋慶太郎、「咲-Saki-」の小林立同様、「這いよれ!ニャル子さんw」に僕はとても注目している。

「え? 80年代、90年代、零年代の問題ですか? あー、もう、そんなのどうでもいいじゃないですか。それよりも知ってます?真尋さんってお風呂に入る時は右足からお湯に浸かるんですよ!わたしにとってはそっちのほうが断然重要です!」

ニャル子さんは自由に価値を置く。息苦しいのが大っ嫌いなのだ。息苦しく考えてしまう僕が彼女を妙に気に入っているのはそこかもしらんね。

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