いまひとたびの生を『フランケン・ふらん』

フランケン・ふらん コミック 感想 

フランケン・ふらん 1 (チャンピオンREDコミックス)

フランケン・ふらん 1 (チャンピオンREDコミックス)

ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

最近、仕事が辛すぎでオタな趣味を仕入れる時間がない。ところがふとなにかの拍子で読んでなかった「拡張幻想」を手にとってページを繰っていると、特異な「SF」マンガが目につきました。「拡張幻想」は日本のSFアンソロジーです。
漫画のタイトルはフランケン・ふらん
作者は木々津克久
収録作は「OCTOPUS」。掲載作品を一目見てこの漫画にとり憑かれました。
以降、帰宅する前に書店に寄っては一巻ずつ「フランケン・ふらん」を購入しては電車の中で読んで癒されている次第。
ヴェロたん、かわいい

ところで「拡張幻想」の解説でも触れられているけれど、「ふらん」は手塚治虫の「ブラックジャック」のオマージュ作
人間関係から、病気の種類、キャラ造詣に至るまで、古今東西のSF、怪奇映画、怪奇漫画のエッセンスを巧みに取り入れていれつつ、ブラックジャックの視線でフアンタジーSFホラーな展開を繰り広げています。
ここで注目すべきはブラックジャックの視線」という部分。
ブラックジャックの視線」とはなにか。それはつまり、BJや、作者の手塚が医師の知識と見識を持っているのと同様、「ふらん」も医者の知識と見識で物事を判断する、という意味です。

「ふらん」のインターネット記事を探していて面白い記事にぶつかりました。
たまごまごさんの「たまごまごごはん」に掲載の
肉体は所詮物質なのか?「フランケン・ふらん」が描く身体

です。この記事はとても面白かった。さらになぜ僕が「ふらん」は「BJ」と一緒、と主張するのか、それを説明するのにすごくいいポイントを抽出して書いている記事です。以降、たまごまごさんの記事を抜粋しつつ、要点をあげていきます。
断わっておきますが、たまごまごさんを貶めるとか、料理するとかそういう意思は全くないです。
むしろ2013年に「ふらん」に気付いた僕に比べ、たまごまごさんは2007年8月にこの記事を書いていることから推して連載直後に取りあげている。慧眼というしかないし、記事でもうまく問題をすくいあげておられます。
さらに僕はこの記事を七巻まで読んで書いています。たまごまごさんは四話まででの判断です。
余談ですが、最終巻の八巻がどうしても見つかりません。売れているのか、ニッチなので仕入れがすくないのか。謎です

以下、記事が長くなります。それだけ死体とか肉体とかの問題を孕んでいる漫画だからです。


まずたまごまごさんは「ふらん」を評して、

医療マンガの苦悩はありません。

と書きます。
ではなぜ、医療漫画には苦悩があるのか。肉体、死体をいじるのに抵抗があるからです。なぜ肉体、死体をいじるのに抵抗があるのか。
認識の違いです。たまごまごさんは、「ふらん」について、

肉体が特に深い意味を持たずに部品のようになっていく感覚

と書かれていますが、とんでもない。ふらんにとって肉体には意味があります。しかし「ふらん」を読んで「肉体に意味がない」と感じるのはたまごまごさん以下、たまごまごさんと同じ感覚であろうマジョリティの方の感覚だと思います。
てか世間ではそっちが主流です。

  • 主客の軸

世間一般では肉体を部品のように扱うことに問題を感じます。あるいは臓器移植のように問題ないとする意見もあります。
これが認識の違いです。前者はかなり主観寄り。後者は客観寄りです。
例えば医者は職業上、人間が「生きている」ところから「死ぬ」過程を毎日みせられています。
社会人のようにいきなり「生者」と「死者」に分断されていません。
つまり、医者は「人格があるところから意識を失って生命活動を停止する」中間部分を知っている。
たまごまごさんが「ふらん」に感じた「肉体が特に深い意味を持たずに部品のようになっていく感覚」とは露ともおもっていないはずです。

しかし社会人は「死体と生者の二択」しかありません。これが「ふらん」を表現するときに、本人の意思如何に関わらず、
「肉体が特に深い意味を持たずに部品のようになっていく感覚」と書いてしまう、書かざる得ない部分です。
そうか、そんなに医者は偉いのか、というとそうではない。主観乙、ではない。
実際にあなたの親戚やバアちゃんなり、ジイちゃんなりが死んだと仮定して、あなたはジイちゃんバアちゃんと話して、笑って、飯を食って怒られているので、死体を見ても「肉体だなあ」とは思わずに「ジイちゃんだなあ」と思うはずです。それが主観です。ジイちゃんの死体をバラせ、と言われると抵抗があるのは主観だからです。
社会人はそういう機会が少ないから、急にアカの他人の死体を見ると客観的に「肉体」「死体」と反応する。
医者は介護、看護していた病人の死ぬ瞬間を常にみているんだから、そっちが日常茶飯事です。
時間単位でバアちゃん、ジイちゃんが死んでいると思ってください。それが医者の感覚です。そうじゃない医者もいますが。そいつはその時点で医者としてどうかと僕は思います。
死体の時点で「肉体の部品」とか思っているということは、生きている時点で既に「肉体の部品」と考えているフシがあります。

つまり「肉体部品」の問題で発生している「深い意味を持たず」っていうのは医者にはありません。
ちゃんと意味があります。それは医者であるふらんも同じくです。ふらんにとっても肉体にはちゃんと意味があります。ではなぜ「深い意味を持たず」と書いてしますのか。

  • 脳の認識

これらは脳の認識によります。肉体、精神とかいうからヤヤコシくなるのであって、肉体と精神はそもそも一緒で、それ以前にそれらは脳の認識によって成り立っていると考えるとさっぱりする。

例をあげます。
「ふらん」13話で久宝さんという女刑事が登場します。彼女はふらんの手によって大量のクローンを作られ、結果、13話のエピソードを終結に導きます。久宝さんは21話にも出てきますが、彼女は精神を病んでいます。
自分のクローンを見せつけられてアイデンティティクライシスを招いているからです。
21話、ふらんに再開した久宝さんは再び錯乱します。

「私 本物なのニセモノなの〜!?」

ふらんは

「おちついて おちついて いっしょ いっしょ」

「いっしょ いっしょ」がふらんの視点です。脳の認識です。ふらんにとって目の前に居る久宝さんもクローンも全部いっしょです。誰が偽者だとか本物だとかそういう意識はない。
クローンである以上、身体的特徴、精神的特徴は完全に合致するので、偽者はだれひとりとしていない。
ふらんにとって久宝さんは久宝さん以外の何物でもない。
ここで抜け落ちている認識があります。それが「ふらん」という漫画のギャグたる特徴です。
「ふらん」にとって、自然物、人工物、ありとあらゆるものは区別の境がありません。
草花と人間の魂はふらんの認識にとって同義です。

道に生えている草をあなたは平気で抜いたり、切ったりしますよね。
フランケン・ふらんはそういうことなのです。だから久宝さん軍団を核で全滅させたりもします。

こういうと「やっぱりモノ扱いしている」と言われそうですが、そんなことはない。それは自然と人間を社会が無意識のうちに分けているから生まれる認識です。街をあるけば街路樹がありますが、ブロックで隔離されている。
街と山の区別がつけられている。自然を街と世界を構成する部品と考えている

ふらんは最大限、どういう状況であろうと、本人の意思を尊重します。
死ぬのも、生きるのも、本人次第。本人が「死にたい」といえばバッサリ殺します。草を抜くのといっしょです。
「生きたい」といえば、ほかのパーツを利用したり、生体機器と強引に接続したり、とにかく生かします。
木に継ぎ木をしますよね。アレと同じです。人間社会では継ぎ木に抵抗はありません。というか、むしろ良い行為としてとられる。枝が伸びすぎれば切ります。見栄えを良くするために剪定をします。調和を保つために自然を大切にしよう
これがふらんの考える生命を大切にしよう、です。
本人が生きたい、よりよい人生を送りたいのであれば最大限、よくなるように努めよう。だからツギハギも整形も躊躇しません
処置なしになった場合は匙を投げますが。彼女は生かす為なら、大金を積んででも手段を選ばずとも生かそうとします。
だからふらんは「生体実験」と糾弾されます。
ところでブラックジャック「生体実験」と糾弾されます。一緒です。たまごまごさんは

医学的な興味ゆえの人体いじりなのですが、それはブラックジャック先生のとはまったく別物

と書かれていますが。これは主客の差です。
手塚治虫ストーリーテラーです。「ふらん」の木々津克久ストーリーテラーです。
両者共に恐らく「こう描写すれば読者はモノ扱いしているように見るし、こう描写すれば人権の厚い扱いと見るだろう
と書き分け方を意図的にコントロールしていると思われます。

「ふらん」には脳味噌を他の人体と入れ替える描写が頻繁にあります。肉体と脳が乖離しているという思考で読むと、あるいは読ませられると人権無視、肉体改造ととられる。とんでもないことだ、ギャグ以外に考えられない描写だ、と思う。

しかし実はブラックジャックにも脳を他人の身体に移植するはなしはあります

「進行性化骨性筋炎」という身体がカルシウムと化し、石になっていく病気に罹っている少年を救うエピソードです。
タイトルは「からだが石に…」
病気の進行は止められないので、少年の脳を他の身体に移すしかない、とBJは断言。「後は死体待ちですなあ」と周囲を突き離す言い方をします。
「死体」とわざと手塚は言わせている。
少年の父親はヤケになってトラックを乗り回し、他人の子供を轢き殺して死体を作ろうとします。
母親が身を投げ出して凶行を止めさせる。しかし、そのショックで赤ん坊を身ごもっていた母親は流産します。
その赤ちゃんの死体をブラックジャックは再利用する。石になっていく少年の脳を赤ちゃんの脳と入れ替える。
少年は赤ちゃんとなって人生をやり直す。

「ふらん」のやっていることと全く変わりありません
しかし読者はそうは思わない。むしろ感動的な話だと思う。僕も感動的だと思います。
前述した主客をうまく利用している。最初にお腹の大きな母親を見せて、次に流産のシーンを見せる。勿論、直接的な描写はありませんが。こうすることで読者は「赤ちゃん」という主観を持ちます。「部品の死体」だとか「肉体」という客観ではない
「赤ちゃん」も死ぬ。「少年」も死ぬ。しかし「赤ちゃんを利用すれば少年は助かる
手塚は抒情をうまく利用しています。一方でこのエピソードに感動できない方もおられるでしょうが「抒情」にのれなかったのが要因だと思います。このエピソードには宗教問題も絡んでいるので、ヤヤコシくなる。
しかし他のエピソードは感動するはずです。「抒情」にうまくのれている。主観になっている。
ところが「ふらん」には「抒情」がない。死体になるもの一瞬。移植も一瞬です。気付いたらいきなり脳味噌になっていて、生体機器に繋がれている、繋がれた眼球を通して惨状を目にした脳味噌はショックを受けるなんてシーンもある。
ふらん」には生者から死者に移行する手続きを一切描写しません。その手際がいいのでブラックユーモアになる。
ふらんの姿勢が「興味本位」に映る要因です。客観の視点です。

ネットで「ふらん」の話題を探すと「共感できないけれど、目が離せない」という意見が散見しますが、主観にはいりこめない作りだからです。
「ふらん」では患者またはふらん自体になにかしら落ち度があります。読者に「こいつ、なにか失敗するんじゃねえの」と一歩距離を置かせる演出、プロットです。

なぜ、こういう「主客」思考になるかというと、恐らく、中高大でバカのひとつ覚えみたいに覚えさせられる心身二元論と心身一元論あたりだと思います。
このサイトでも取りあげたココロコネクト君は淫らな僕の女王の問題です。
他人を認識することによって自分を認識するとか、そう言う問題の発想はここです。
この問題もヤヤコシそうですが、脳の認識だと思えばこれもさっぱりします。
「ふらん」では「夢」のはなしがよくでてきます。「意識」に絡めた「主客」問題も多い
そこでは必ずふらんは「本人が幸せと認識しているならばそれでよし。他人の存在は関係ない」と判断します。
他人の介在する余地がありません。完全に己の脳の認識だけの世界です。
世界を形作る意識が外に向かっているのではなく、内側に向かっている。世界の統合に種別は関係ない。西洋というよりは東洋の思考です。
ここがまた「肉体が特に深い意味を持たずに部品のようになっていく感覚」「肉体を部品としてみる視点の一つ」と書かざる得ない部分です。

「なんでも脳でかたずけるな」と怒られそうですので、断わっておきますが、「ふらん」を理解するのに脳認識を利用しているのであって、身体と精神は……とあなたが考えているのであれば、僕はそれを止めません。
それはそれなりに意義があります。ただし、そうなると「死体=モノ」という落とし穴が待っています。
自然、それは臓器移植の問題にもなる。ふらんは臓器移植に躊躇しません「死体=モノ」の思考だと確かに「ふらん」はブラックユーモアになるかもしれない。木々津はそういう描き方をしているからです。
間違えれば差別になります。死体はモノではないのか、という客観的発想から「モノ=人権なし」になります。人種問題、社畜とか、虐待は「モノ=人権なし」の発想です。

だからといって「ふらん」が不謹慎な訳ではない。繰り返しますが、彼女には人間と自然の境目がないだけです。
「BJ」にも死体を手術するエピソードはちゃんとある。
「呪われた手術」です。BJはミイラを手術します。
「ふらん」も「BJ」も「モノ=死体」ではない。


それはともかく、社会の主導権を握っている人間がこういう「モノ=人権なし」の思考をしているから問題です。
堂々と公言までしている
いっそのこと、ふらんに依頼して脳神経を再結線して、思考方法を変えて貰ってもいいかもしれません。
本人は本人なのですから、どこかの評論家も社長も、政治家も、考え方が変わっただけで、本人に間違いありません
世の中もいい方向に動きますし、自殺者も減るでしょう。ふらんも喜んで協力してくれるはずです。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、いっしょ、いっしょ。


たまごまご様、ありがとうございました。このつたない記事はあなたの問題提起がないと存在しませんでした。
創元推理文庫様。「年刊日本SF傑作選」はこれからもぜひ続行してください。
この記事と「ふらん」の出会いは貴社と大森編集、日下編集の熱意がないと存在しませんでした。
「ふらん」はSFです。この展開とオチなら「ファンタジーホラー」で済ませてしまえるものなのに、作者の木々津克久は必ずSF的解釈を作品にいれてしまう。SF好きの業のようなものを感じます

日本人の身体観の歴史

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