結晶する魂。アニメ版『THE IDOLM@STER 』と『ラブライブ!』

アニメ アニマス ラブライブ! 感想

CSでアニマスが始まったので鑑賞開始。
とかくにぎやかで楽しい。登場人物ひとりひとりのポジティブとネガティブな部分を絶えず交互に画面にさらすことによって、感情移入を促すのが巧みでヤンスなあ。さらにキャラ同士が猛烈な勢いで影響を与えあっているのもいい。
目に見えないところまで影響を与えあっていて、それがふとしたはずみで表面化するのも素晴らしい。

アニマス」はとにかく観いて超絶飽きないつくりになっている。
これは完全に個人の趣味なんだけれど、ディテールが作りこまれている。背景はともかく、キャラの行動描写も細かくて、はっきりいって全然はなしに絡んでこない箇所までキャラ別のリアクションがある
ゲーム原作なので基本設定が固まってからの放送だからこれはずるいんだけれど、それが徐々に積み重なってキャラ立ちに至ったり、選択肢への動機付けになったり、とにかく微に入り細に入り造詣されている。
そのキャラの行動が日常レベルではノイズ同然みたいに扱われている場合もあって、観ててこれ、どうなってるんだっていう次元に達している。
知らない間にこのキャラが好きになっていた、っていう人も多いんじゃないのかしらん。それって感情移入の方法論としてはかなり上等なのじゃないかしら。

観てて飽きない要素として、もうひとつ。不安定さがない、ブレないアイカツみたいなものがあるんじゃないかと。

ラブライブ!超面白かったんだけれど、こっちの感情移入の感覚は「観てて飽きない」より「ミューズに自分も参加したい!」と思わせる一体感にあったと思う。
でも「ラブライブ!」にはちょっと不安定な部分があった。
なんていうか、みんな情緒不安定っぽいというか、強迫観念っぽいというか。
全体に溢れているハイテンションも「アニマス」と違ってどこか危なっかしい。
とかく「ラブライブ!」には空回りするような展開があって、それが成長のファクターになってもいるんだけれど。
やっぱり「どっかやり過ぎかなあ」みたいな部分があった。

そもそも「ラブライブ!」のミューズ結成のいきさつは廃校になる学校を救うためにアイカツしようというものだった。
それはそれで動機としては十分で、だから第一話でいきなりの穂乃果のミュージカルシーンにも、これからの苦難と希望がごちゃまぜになったエネルギーみたいなのが感じられたのだけれど。

背景として「ラブライブ!」のアイカツには穂乃果たちの夢、という因子の他にも学校のために、という因子も含まれていた。
後がないというか、背水の陣というか。
脚本の花田十輝は構成を担当した「中恋」とかゼノグラシアなんか観てても判るんだけれど、割かし、主人公たちをある程度追い詰めた状況に運んでいく特徴があるように思う。物理、精神的、両方に
それがカタルシスになるのは判ってるんだけれども、時としてそれはキャラ達にもの凄く不安定な心理状況を生んでもいる。
「中恋」の六花、主人公、周辺の人物にしろ終盤は精神状態がギリギリだったし「ゼノグラシア」も徹底的に主人公たちを追い詰めていた。
脚本を担当した「けいおん!」が観ててすごくラクチンだったのは、そういう花田さんの強迫観念みたいなものがあまり感じられない状況設定の上での脚本制作にあるんじゃないだろうか。

とにかく「ラブライブ!」では主人公たちは動画のアクセス数と周囲の待遇の変化に一喜一憂というか、過剰なまでに反応していた。ちょっとハイだなあ、くらいに。異常な情報量のCGと徹底的に管理された高度な作画にもそれは現れていると思う。
だから生徒会連中やことりの母親が必要だったんだんだろうなと。ミューズは常にいっぱいいっぱいで、上昇志向特有のストレスがあったから、物事を俯瞰的に見ることができるひとがアドバイスをしないと空中分解するようなあやうさがあった。

そのストレスが、穂乃果のダウンという形で噴出したんだろう。引いては視聴者も巻き込むような熱狂を持つ祝祭的な盛り上がりを獲得したのではないんじゃないんだろうか。
冷静になって考えると、やっぱり風邪で倒れる前の穂乃果はちょっとオカシかった
だから最終話はあんな形に落ち着いた、というか鎮静剤を打たれて倒れるみたいに強制的に日常に回帰したのだと思う。
アイカツに依存してハイテンションになっていた状況から脱却したんだろうと思う。
ラブライブ!」は強い意志による依存からの脱却と、アイデンティティの確立の物語だった。
もっともアイカツをしなければミューズは成長できなかっただろうし、まさにそれが「ラブライブ!」制作側の意図だったんだと思うけど。
12話から最終話までは色んな問題が解決するけれど、言い方をかえれば、これは彼女達が成長して問題解決処理能力が芽生えたからだ。
少のうともウチはそう思うんやけど。どうやろね?にこっち?

アニマスにはこの依存的なものが感じられない。
見ててすごくラクチンだ。足枷がない。
それは作画やキャラデザ、演出にも現れていて、躍動感のある線と、頻繁に動く画面、目まぐるしく変化する割には軽やさを感じるシークエンス移行にも現れている。
追い詰められていない。

一話冒頭、春香が自宅から765プロまで電車通勤するシーンがある。
春香によると2時間かかるという、ただ漫然と過ごすしかない通勤シーンを一分半以上かけて描写する。
春香はコンビニで真に遭遇するまで殆ど喋らない。
夜明けの景色という自分の未来の象徴のような風景をほぼ無言で見つめるシーンが一分半。
そこに黒地に白抜きの明朝体というシックな色調とデザインでTHE IDOLM@STER 」「第一話 これからが彼女達のはじまり」「彼女たちの日常」と続く。
ここから主人公の無言で表示される質問に対し、少女たち全員が歯切れのいい語調でテンポよく応答するというシーンが交互に現れる。
雰囲気は「活気はあるけれど余裕もある」
疑似ドキュメンタリータッチもなんというか、ずるい。よく視聴者を出し抜いている。疑似でもドキュメンタリータッチなんだからカメラがブレたり、パンしたりしてもよさそうなのに、安定してキャラを映してるんだもんなあ。

二話から始まるオープニングも秀逸。ここではキャラあるいは画面、スタッフエントリーどれかが必ず動いている。
常に躍動感にあふれている。でも逆にキャラの全身像をみせたり、白い余白をとったり、ロングショットを多用したりして、どこか余裕がある。これは本編にまで及ぶ。
ラブライブ!」と比較すればよく分かる。

同じライブ会場の踊りのシーンでもキャラクターの距離が「ラブライブ!」と「アニマス」では全く異なる
これはそのまま、「ラブライブ!」がメンバー一体になって前進する姿と、個人個人が独立して活動する「アニマス」の差異でもある。
……いや、両者を比較する方法はあんまり自分でも感心せんのだけど。わざわざ画像まで用意してスマン

別に「アニマス」は「ラブライブ!」に比べてここがスゲエ!といいたいのではないのですよ。
余裕の差が作品の鑑賞姿勢まで区分けしていると言いたいのです。作品のスタンスが視聴者にも受容態度を影響させるというごく基本的なことを言いたいだけで。

この両者の画面をコントロールして視聴者の受容態度も変化させる差はよろしいですな。「ラブライブ!11話から最終話まではすごい視聴者を焦らせたのだけれど、コレ、視聴者を作品の主観に放り込んで依存させてる。依存させて、最終回はキャラと一緒に自分の人生を歩きなさいって客観提示する。
アニマスには焦りはあるのか。ないような気がするし、あっても余裕なんだろうなあ。このゆるさが清々しさに繋がるのって大事だよなあ。
アニマスのユルさって涼しいよね。

とにかくあずさ萌えぇぇとキモオタっぽく発声しながらトライバルアンチドートな踊りを踊るよ。

ホザンナ・フロム・ザ・ヘル

ホザンナ・フロム・ザ・ヘル

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]