零原点。『名探偵マーニー』

木々津克久 名探偵マーニー フランケン・ふらん ヘレンesp 漫画 感想

名探偵マーニー 1 (少年チャンピオン・コミックス)

名探偵マーニー 1 (少年チャンピオン・コミックス)

イギー・ポップは絶望のデビューを果たした。「見つけ次第破壊しろ」と唄った。私生活もライブも滅茶苦茶で、砕いたガラスの上を転げまわったり、ドラッグの塊を抱えて公園をうろついたりした。
当然、身体と音楽生活は破綻した。そこへデビッド・ボウイが手を差し伸べた。二人はレコードを二枚作った。
「イディオット」というネガティブのどん底みたいなレコードでイギーは「僕はバカだ」と唄った。
続いて「ラスト・フォー・ライフ」というバカみたいにポジティブなレコードを作った。イギーはな内省的で、絶望と希望のレコードを二枚経過して復活した。

NINのトレント・レズナーは絶望のデビューを果たした。トレントは「ザ・ダウンワード・スパイラル」で「オレを破壊しろ」と唄った。
私生活もライブも滅茶苦茶で、ライブ以外は引きこもり、ライブとライブの合間には酒とドラッグを詰め込んだ。
そのあと、「ウィズ・ティース」という美しく、ポジティブで、内省的でメランコリックなCDを作った。
そこで「自分の弱点は自分自身だった」と唄った。
この後、トレントはマリクィーンと結婚して彼女と一緒に「ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルス」というプロジェクトを立ち上げた。並行して、社会の為に唄っている面白い連中とセッションしまくった。

グリーン・ディは絶望のデビューを果たした。「現実世界はつまんない。いい事なんか全然ない」と唄った。
デビュー作の「ドゥーキー」のジャケットイラストではウンコ爆弾が世界を破壊している。
「ウォーニング」を経過後、アメリカがイラクに攻め込んで国中がパニックに落ちっているさ中に、突然「アメリカン・イディオット」という内省的かつ攻勢でポジティブなCDをリリース。
「僕たちアメリカの敵は僕たちアメリカ人自身だった」と唄った。
その後「21世紀のブレイクダウン」でグラミーの「最優秀ロック・アルバム賞」を受賞。
ライブではファンを舞台に引っ張りあげてギターを持たせて一緒に弾かせて、一緒に歌うのが恒例になっている。



木々津克久
これくらい僕が物語に求めている要素にかなりの確率で応えてくれる作家は少ない。
エンターテイメントとはなにか、という問題とともに、僕の考える(あくまで僕の、だ)作家性とはなにか、どういうフィクションを体験したいのか、というリクエストにかなり的を絞った作品を提示してくれる。
それはこの作家が、怪奇趣味やSF趣味を持ち合わせているだけではなく、上記したアーティストと同じ「自意識探求型」だからだ。
木々津の最新作は名探偵マーニー
「マーニー」は一話完結型の探偵もの。だけれど、普通の事件を扱うのではなく、いわゆる人間心理の底を探ったような動機が犯人の犯罪理由。そこに怪奇趣味やSF趣味が頻繁に挿入される。
奇癖や、あるいは被害者や加害者の見解の相違の結果、第三者からみれば異常事態としか思えない奇怪な事件、いわゆる、動機の大前提の時点でかなり変わった心理に事件は左右されている。
「真実」を手繰り寄せてみると、かなり「加害者」「被害者」の長期的に蓄積された心、それも多種多様な心理が事件に影響している。
この多種多様な心理が事件毎に毎回変わる。次々と事件が発生する。底が見えない。まるで木々津の心の奥底からサルベージしたように。
それは本当に心の奥から奥からサルベージしてくるから、事件毎に「マーニー」は漫画として異常な完成度を築き上げていく。

木々津は『おどろ ー陽子と田ノ中の百鬼行事件簿ー』で商業デビューを果たした。怪奇色が強いけれど、雑誌の色に合わせたようなこの作品経過後、『フランケン・ふらんを連載開始。怪奇趣味とSF趣味を融合させた強烈なモンドショー漫画はギャグを孕みつつも、どこか人間を突き離したような部分を持っていた。
ふらんは人間を救うために全力を尽くすけれど、どんな結果になっても「お前がいいんならそれでいいだろ」と責任を持たなかった。むしろ責任を果たさない癖に意味もなく他人を攻撃する利益優先型の人間は容赦なく処刑した。
その魔手は時として清く正しく生きようとするキャラクターにも「医学の暴走」という形で及んだ。
カバーそで面には歴史的人物が医学や人生について言及した名言が引用されているが、どれも諦観の念に溢れているか、皮肉ったものばかりが選ばれている。
「ふらん」は人間の絶望面を強調した。
しかし木々津は持ち前のストーリーテラー気質で巧みに一話完結で必ず主人公に見せ場がある漫画をリリースした。
一話完結、必ず主人公に見せ場がある、は昔からある新人の鉄則だ。最近では一部で軽視する動きもあるが、木々津はデビューから五年経過しているにもかかわらず、律儀にそれを守った。
この鉄則を保持した「ふらん」は、陰湿な作風ながらも、木々津のギャグ感覚とモンドショーの気質も手伝って、痛快なエンターテイメント作品として大成功を収めた。
ところが5巻あたりから面白さは維持しているものの、「ふらん」は委縮していく。
妙に明るい話がでてきたり、そのくせ、アイロニーは癒着したままだったりで、危うさが露呈していた。
最終話、ふらんは夢のなかでこれまでの遍歴と対話をし、そして幕を閉じる。

このころ、木々津は別の作品の連載を同時進行させ、終了を迎えていた。タイトルはヘレンesp
全二巻のこの物語は「おどろ」と「ふらん」の怪奇趣味を継承しつつ、目と耳と口が全く効かない少女が体験する世界を描いた不思議な物語だ。
目と耳と口が不自由なかわりに彼女は共感能力を有している。彼女は普通の人間が見えない希望の世界を読者に提示した。
ところがこの漫画、読んでいて、どこか不気味だ。どんどん心の深いところに降りて行くからだ。
「自意識」と「夢」が「ふらん」で強調されていたテーマだったが、その焦点はキャラクターのダークサイド面にあてられていた。
同じく「ヘレン」でも「自意識」と「夢」が強調されているテーマだ。しかしそれは明らかに希望にあてられている。
「ヘレン」ではページを捲る度に、深く、深く、心の奥底に降りていく。
最終話、ヘレンは夢のなかで読者と、木々津自身と、物語自身とに、リアルに対話をはじめる。

真っ白なページでメランコリックにヘレンは幕を閉じる。

まるで「ふらん」と「ヘレン」両方で、木々津の心の一番深い、一番柔らかい本質の部分に着地を果たしたような印象を読者に与える。

「ヘレン」の一巻には巻末漫画としてヘレンとふらんの共演がある。ふらんのペットをたまたま救ったヘレンはふらんから「お礼になんでも望みを聞いてあげる」と告げられる。ヘレンは「点字を早く読むコツを教えて欲しい」と要求し、それで満足する。
手術フェチのふらんでさえ、ヘレンの態度に「手術の必要なし」と判断する。
両者が全く相容れない存在だと作者の木々津自身が再確認しているかのようだ。

この時期、木々津は「ふらん」の延長線上のような『アーサー・ピューティーは夜の魔女』の連載を開始。
だが、この作品は不定期連載で2009年の連載開始から4年経った今も一巻しか刊行されておらず、完結もしていない。

そして終了する「ふらん」と入れ替わるように、木々津は名探偵マーニーの連載を開始する。「マーニー」の舞台は「ふらん」のように隔絶された世界でもなければ「ヘレン」のような心理ファンタジーの世界でもない。僕たちが、そして木々津が暮らしているごく普通の現実世界だ。
頭の中だけで作り上げた隔絶世界と心理世界を経過して浮上し、自分のあるべき本当の居場所を獲得したみたいに。

マーニーは現実主義の少女だ。お金さえ貰えば事件を引き受ける。だけれど、夢想家の部分もあって、「思考世界(シンキングワールド)」に入りこむと、夜中になっても現実世界に帰ってこない。ぼさぼさの髪を掻きまわしながら、「ふらん」と「ヘレン」から受け継いだ可愛らしいけれど、微細に描きこまれた顔と瞳を歪ませる。
夜中、現実に帰って来たマーニーはあんぱんを食べながらバルコニーから街を見下ろし、家の明かりを眺めては

「あそこの光、一つ一つに人が住んでいて…そして、皆なにかしらの悩みを抱えて生きているんだな」と感慨にふける。

「色々と不便な場所だけど、この景色だけは一級品だ」

そして再び思考する。

「事実を受けとめ…すべての可能性を否定せず…」

この「あそこの光、一つ一つに人が住んでいて…そして、皆なにかしらの悩みを抱えて生きているんだな」と「色々と不便な場所だけど、この景色だけは一級品だ」、「事実を受けとめ…すべての可能性を否定せず…」はこれまでの絶望と希望が全て押しこまれている。

「ふらん」で「人間って色々不便」と愚痴り、「ヘレン」で「すべての可能性を否定しない」というスタンスを獲得した作家ならではの、心からのセリフといえる。装飾でも、見栄でもなんでもない。
それならすぐにボロがでる。でも「マーニー」という漫画は全編に渡ってこの思考に支えられている。
この思考に支えられているからこそ、次々とアイデアストーリーが湧いてくる。それも一定のクオリティを必ず保っている、あるいは前話を凌駕する作品が。
自己の内面にある絶望と希望を経過し、自分を再確認し尽くした「自意識探求型」の作家ならではといえる。

  • 我が愛しき娘たち

さらに希望と絶望だけではなく、キャラクターの造形的にも「現実をしっかり受け止める」という「ヘレン」の面と「自分の世界にハマりこむ」という「ふらん」の面、両方を「マーニー」は持っている。

マーニーはヘレンとふらんの間に生まれた子供だ。

「マーニー」は一見するとパッとしない漫画にみえる。表紙も、「名探偵マーニー」という紋切り型のタイトルも、ひたすら抑制された雰囲気だ。
「ふらん」のような人間に対する、行き過ぎた派手な制裁がない。「ヘレン」のような過剰な全肯定の態度もない。
「マーニー」はその必要がないからだ。両者の肥大した箇所を削ぎ落としたのが「マーニー」だ。
「マーニー」には善意の人間と悪意のある人間両方の感情が渦巻いている。
だけれど「マーニー」はそれに過剰反応しない。

おそらく「マーニー」は「ふらん」のように不安定な失速することはないだろう。アイデアが尽きれば、「ヘレン」のように心の奥に潜ってサルベージしてくればいいからだ。「ふらん」のように外から取り入れてもいい。
もし「マーニー」「アーサー・ピューティー」が連載終了するようなことがあっても木々津はまた面白い漫画を描き始めるはずだ。
もしかして「ふらん」ような漫画かもしれないし、「ヘレン」のような漫画かもしれない。
豊かで、リリカルな、誰にも真似できない、盗むこともできない、木々津独自の価値観でつくられた漫画を。

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