夜の子供たち。『とある科学の超電磁砲S』

とある科学の超電磁砲S コミック アニメ 感想

『レールガンS』を観ていて、アイテム四人組が登場したのだけれど。

刹那で退廃的、一瞬一瞬が面白ければいい。闘っている間か、仲間とたむろっている瞬間にだけ生きていることを実感する。
この虚無感。空虚な関係。どこか精神の一部が決定的に欠けていて、それがさらなる渇望へと突き進む。

なんだか零年代の虚無感を引き受けてくれる子供たちが妙なところから出現したなあと思ってしまったのですよ。

しかも萌え美少女という「可愛いもの。愛されるべきもの」という形をとって。

零年代リバイバルの前には当然、90年代の後退感リバイバルがあった訳です。零年代には大挙していた。ある時は純粋な「悪」として。ある時は純粋な「決断者」として。ある時は純粋な「絶望」として。ある時は純粋な「世界からの断絶」として。
純粋なのは多分、90年代が本当に空虚だったからだ。

日常系が流行り出したのも零年代だけれど、あの強烈な後退感と消費感覚は80年代、90年代特有だと思う。
ただ、楽しんで、消費するだけ。「けいおん!」とか「らきすた」とかは80、90年代のバブルとその崩壊を経過しとかないとでてこない発想だと思う。バブル期をすっとばして、いきなり国民の過半数がワーキングクラスになる零年代に直面していたらでてこない生活様式だと思う。

まどマギ」の虚淵さんは、80年代のバブルと、90年代の商業消費ブームの影に隠れてしまった部分をうまく零年代後半にもってきたと思う。ひとことでいうと「理不尽」。
零年代に「理不尽」が横行してるなかに80年代の「経験済みの理不尽」をもってこられたらそりゃ、俺たちは驚きますよ。
ニャル子さん」も80年代の「理不尽」なんだけど、あっちは「バブルの理不尽」なんだよね。
深夜にタクシー通らないから、万札ひらひらさせて終業して帰還途中のバスを強制停止させて、それに乗ってそのまま家に帰っちゃったとか。
もうギャグか、それ以外のなんらかなのか、区別がつかない領域に達してる、あの感覚。

とにかく、これらが行き過ぎた形になると「意志の力を尊重しよう」って流れになるんだと思います。経済崩壊、社会秩序の喪失をどうするべきか、みたいな流れでね。うまいひとはそのコントロールのバランスが巧かった。告発の方向にもっていけた。
自意識のコントロール

だから零年代後半から「意志の力が人生を決定する」っていう自己啓発が猛烈に流行ったのは当然かもしれない。なんで告発じゃなくて自己啓発になるんだって気はする。

まあ、「意志の力」っていうこと自体は、その通りだなとは思うけれど、そう出来ない人もいるわけです。

んで、いろいろあって(この色々って便利だな)『レールガンS』のアイテム四人組。
彼女らは超個人主義として描かれているけれど、実際の零年代、金も目的もない皆は四人組のように群れていたように思う。
金と目的がある人達に比べると、自分はなんだか無価値に感じる。昼間うろつくのは社会に対してはばかりがあるから、深夜に気の合う仲間と車で徘徊する。
ラウンドワンとか、ゲーセンとかで対戦格闘したりすんのね。金がなくなったら見物。
持ち込みOKだったら安い店でジュース買ってから、ゲーセンでウダウダ時間潰す訳。ランドワンってスーパーで買ったら70円で済むメロンパンとか200円で売ったりするじゃん。
桜庭一樹が文芸に移行する時に、売れ線の『GOSICK』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』だけじゃなくて『推定少女』『赤×ピンク』も一緒だったのはなんとなく得心がいったりして。
そういうのは昔からいたんじゃないのっていう意見もあるけれど、ここまで虚無的な感触はなかったと思う。

こう考えると「意志の力で這い上がってきた」美琴はアイテムの敵対存在になるのは分からんでもない。
美琴が「意志の力」を尊重するあまり、周囲が視えなくなってしまうところとかね。
実際に滝壺(ムギ、滝壺の順で好み。世間ではフレたんなの?)はドラッグで能力を引き出すけれど、反動で身体がついていけない。
「意志の力」だけではどうしようもないハンデを背負っている存在。「アイテム」を一番象徴しているともいえる。
それを仲間でカバーしている。

実はこの「意志の力」ではどうしようもない人達、の流れはずっと続いてきた流れ。隠してきただけでね。

フレンダたんの設定は「人間関係は浅く広く。アイテムもその範囲と考えている」なんだけど、零年代にツッターとミクシィ、ブログの登場で加速度的に流行った、ネットで繋がろう思想に似てるなあとか。色んな場所に手を広げている設定の割にはアイテム中心に活動してるじゃん、みたいな。
たぶん、フレンダたんが人生で一番頼りにしてて、かつ、怖い存在ってムギだと思うし。

深夜徘徊。仲間意識が異常に強い。今日の延長線上の明日。騒ぐ心を誤魔化すための刹那的なパーティ。漫然とした日常感覚。モラトリアム。帰るべき場所がない。

四人組はヤンキーとして捉えるのも可能なんだけれど。えー、ヤンキー? 苦手ー。なめ猫とか、あの頃から超苦手です。
氣志團とかね、あのへんはヤンキーを偽装してるから好きじゃない。オタクのステータスである痛車とか見ても「改造車?!不良!!」とか連想しちゃうくらい苦手。
それと「アイテム」とヤンキー比較すんのってアジテーション入ってるから超嫌ですね。

ごめん、話逸れた。その思考ルーチンでいくと、80年代リバイバルになるんだけど。80年代来てんの?80年代、超苦手です。
しかしまあ、80年代にヤンキーや文芸批評家層が辛口の意見をいうときに「お前のこと理解するのは疲れるからしない。だけど、オレのことは誤解して欲しくないから理解したうえで話を聴いて欲しい」みたいなコンテクストがあって、それが10年代批評空間でも妙に受けたりするのは納得いったりするんだけど。
これは多分、考えすぎだろう。みんな、80年代好きなのかなあ、90年代のほうが愛着があったような気はする。
俺のなかでは80年代ってモヤモヤしてるというか曖昧模糊としてるんすよ。
実感としては工業団地→地方に家を構える! みたいな構図のほうが分かり易いなあ。

だいたい、それにしたってアイテム四人組はヤンキーに比べて才能があり過ぎる。クレバー過ぎる。
自分たちの将来が視えていない訳がない。あえて視ないようにしている。自分たちが使い捨てだと十分理解している。
彼女達には帰るべき家がない。故郷がない。社会的弱者にとって「意志の力」なんて関係ない。自分たちが社会の最底辺だなんて分かり過ぎるくらいに判っている。

多分、彼女達には人生の区切りなんてあんまりなかったんだろうと思う。

小津安二郎は『お茶漬けの味』でパチンコを評して「幸せな孤独」と名付けたんだけれど、妙にはまっている表現かもしれない。

カフカの親友マックス・ブロードはカフカ宛てに「君は君の不幸の中で幸福なのだ」と手紙に書いた。

四人揃っていれば、彼女達は恐らく大丈夫なんだと思う。

俺は「夜回り先生」とかあんまり好きじゃないんだよね。怒られそうだけど。無論、彼は評価されるべきことをやって、救われたひとも沢山いたんだろうけれど。

え、非生産な思考で、こんなこと考えるの意味がないですか? オタクですからねえ。そんなもんなんすよ。

でもでも、それって、無能すぎないかにゃ。