なぜ格闘漫画には「鬼」と「菩薩」が多いのか。『恋愛ラボ』

感想

恋愛ラボ 1 (まんがタイムコミックス)

恋愛ラボ 1 (まんがタイムコミックス)

タイトルに反し、ぜんぜん『恋愛ラボ』のことを書いていません。
あと、断わっておきますが、こういう時代の流れがあったのでこういう作品が生まれたとかそういう内容の記事ではないです。
そういう見方がある、というだけです。
作品とは本来、個人的なものだからです。


冷戦終結後、大きな物語が作り難くなった、とよく言われる。
僕にはこれがよくわからない。依然として物語上の生産ラインにおいて「敵」はつくられていると思う。
本当に「敵」はいなくなったのかだろうか。

ポストモダンとかあのへんの界隈で騒いでいる人がそう勝手に決め付けているだけで、僕は全然そんなことはないと思う。
要はそういう「敵はいなくなった」と主張するひとたちが「敵はいなくなったんだ」あるいは「敵がいなくなってほしいなあ」「大きな物語は喪失した」とか、そういう心理や願望を持っているだけなのではないのか。
そういう心理を物語に投影しているだけはないのか。
そもそも「大きな物語」全盛期とかあったのか。

冷戦終結後も漫画雑誌には世界規模の「敵」と闘う漫画が相変わらず掲載されているのは揺るぎない事実だ。
ラノベ然り。漫画、アニメ、映画然り。
今現在、「日常系」が溢れていると言われている。確かに数は多いかもしらんが。本当に物語に「敵」はいなくなったのだろうか。

世界規模の悪の集団、テロリスト集団(現代物語においてテロリスト集団ほど都合のいい敵はいないと思う。記号化されつつも思想に左右されないのだから扱いやすいだろう)、純粋な悪、腐敗した組織、北朝鮮、情報インフラや金融、メディアを操作する組織。
悪は依然として物語に住んでいる。

ところで話が一気に飛んでスマンがブッシュが「イラクに秘密兵器がある」としてイラクを一方的に攻撃しはじめたとき、一部の作家、アーティストは「それはウソだ」と見抜いた。
「ウソ」と見抜く理由はブッシュ一族の歴史や石油などの利権関係、ブッシュの周囲を固めていた官僚、政治の腐敗問題、メディア操作と枚挙にいとまがないが、それは割愛する。

一部のアーティスト、作家は一様に自分の内面を見つめはじめた。
「こんな悪夢みたいな出来事がはじまったのはそもそもなにが原因なのか」
答えは「自分の真の姿から目を逸らす為、他人を叩いていた自分」だった。
本当の敵はテロリストでも北朝鮮でもなく「己の敵は己」だった、という流れが浮上する。
こういう内的宇宙問題は、70年代のニューウェーブ以前からずっとあったんだけれど、露骨に再浮上してきたのはやっぱ零年代以降じゃないかなあ。
イギリスのパンクとニューウェーブアメリカのニューシネマやオルタナティブの流れがリバイバルしているし。
ちなみにこれらがのちに発生する「反ブッシュ」の流れの一端を担うようになる。

グローバル化の影響を受けてアメリカの流れがかなりはいってきていた日本でもこの流れは発生した。
日本はバブル崩壊、社会システムの脆弱などが表面化し、なんとか立て直そうという時期にはいっていた。
零年代にはいり、日本人の過半数がワーキングクラスになった。すべからく過剰な労働を要求された。拒否するとリストラの道が待っている。
これはヨーロッパ諸国も同じくする。これはきつい。なんとか自分を立てなおしたい。
自己内省しよう。

  • 宙ぶらりん映画

押井守の「劇場版パトレイバー2」。東京を戦中に演出し、世界に自己を再度問い掛ける柘植は最後、特車二課第2小隊に追い詰められ、捕獲される。
松井刑事が問う。「なぜ自決しなかった」
松井は柘植を断罪すべきと考えている。
しかし映画では柘植が断罪される箇所まで描かない。
柘植は呟く。「この都市の未来が見られるのは嬉しい」

高橋慶太郎の「ヨルムンガンド」ではココが世界に問い掛ける。しかしその結果まではみせない。あくまで「恥を自覚すべきは一般人であり、我々の仕事ではない」と罪の是非を委ねる。「ヨルムンガンド計画」実行にあたり、相当数の死者がでることを予想しているココは劇中、仲間に繰り返す。「我々は悪人である。下手に善人だと勘違いするな」
もっとも、「デストロ246」を描きはじめた高橋慶太郎を見ていると「ヨルムン」は単なる諜報モノだった気がする。
「武器商人が願うのは世界平和」というハッタリが欲しかっただけで(見事にこのワードにひっかかった人達が生まれた。僕も例に漏れない)、高橋は最初から諜報員が能力の限界までシノギをけずりあう諜報漫画が描きたかっただけなのだと思う。
あるいはノワールに代表されるような、目的のためなら人を殺すのになんの躊躇もしない悪人を描きたかった。

決着をみせず、状況を放り出したまま終了するような映画(ヨルムンやパト2はアニメ、漫画だけど)は「宙ぶらりん映画」と呼ぶ。結果は宙ぶらりんだからだ。

宙ぶらりん映画をそのまま体現しているのが映画「ダークナイト」のジョーカーだ。社会に問いかける(というかジョーカーはそこまで考えてなくて、世界を破壊したいだけなのだが)役を担わされたジョーカーはラスト、バットマンと高層ビルで対決する。しかしバットマンはジョーカーを高層ビルから突き落としたにも拘わらず、彼をワイヤーでひっぱりあげて宙ぶらりんのまま放棄しトゥーフェイスのもとへと向かう。

ギリギリのバランスだと思う。悪を告発しても、そもそも自分自身が内省しないと意味がないのだから。
内省せずに悪を告発すると、自分も同じ悪になってしまう可能性がある。自分の思考をジョーカー対策向けに改造した「ダークナイト」のバットマンのように。あるいはハッピーエンドを選んだために新自由主義になってしまった。「ライジング」のように。

  • 鬼と菩薩

ここからは、僕が最近のエンターテイメント業界、それも漫画やアニメに感じたことを書く。自然科学の分野では予想できることを予想して、「こうなるんじゃないか」みたいなことを次々と打ち出す。間違っていれば謝る。今から謝る。すいません
しかしまあ、後からドヤ顔で「薄々そう感じていた」というのよりはマシだと思うので予想を書く。

上記したようにエンタメ業界には昔から「己の敵は己」という流れがあった。
僕はそういう流れが大好きです。「咲-Saki-」に変に入れ込んでいるのもそのあたりかなと思う。
「己の敵は己」「百合」だとか「異能力」だとか色んな自分好みの要素が一杯はいっている「咲」は僕にとって理想形なのだろう。

ともかく、その「己の敵は己」という流れが最近、どんどん日常系から発生しているように僕は思っている。自己内省型だ。
日常系はバブルの恩恵を受けた作品だ。「日常をエンジョイしよう」
ところがそうはいかなくなってきた。上記したように、紛争地域ではリアルに戦争が起きている。
国民の過半数がワーキングクラスになった。
かといっていきなり日常を放棄して山籠りし、滝に打たれ、己を見つめ直すわけにはいかない。格闘技漫画はそういうパターン。
そこで日常から徐々にはみだす動きがあるように思う。僕がそう思いたいだけなのかもしれんが。

今季のアニメ、いま僕が注目している漫画に「恋愛ラボ」がある。ネタバレするので言えんが、作者の宮原るりは意図してか、意図せずにか「日常系」から「自己内省型」に移行する動きをみせている。
当然、ボコりあう格闘はしない。ただ、日常の「恋愛」を軸に「どうすれば恋人ができるか」という課題を設定してそこで主人公たちを練り上げていく。恋愛と格闘する。
これが核になっているので、「恋愛ラボ」はいままであったようでなかった漫画になっている。
百合のようで恋愛もの。恋愛のようで百合。両者の構造を持ちつつ、男女間の恋愛が進めば女性同士の精神の繋がりが強くなり、女性同士の精神の繋がりが強くなれば恋愛も進展する。
それって恋愛ものじゃん、といえばそうなるけれど、漫画自体が「恋愛もの」では済まない構造になっている。「百合」もちゃんとそこにある。
女性キャラ同士はスタート地点では脆弱なティーンエイジャーだ。けれど何度も恋愛にトライアルし、親密な空間で互いを助け合うことでどんどん自分を獲得しはじめる。


でも繰り返す。だからといって「恋愛ラボ」がそういう時代に即して生まれた、と僕は言いたいのではない。
宮原るりは全然そんなこと考えてないと思う。上記した作家全てにいえる。
ただ、そういう見方をすると、そういう流れがあるように思える、それだけです。
そういう見方をすると「恋愛ラボ」はこんな位置を占めているのではないか、それだけです。
そもそもこの記事自体がすごく間違って言う可能性があります。僕の詳しくないところまでマークしているからです。自信がありません。
すごい無駄な思考だなと自分でも思う。

実は「恋愛ラボ」について色々書きたかったのだけれど、僕のなかでもいまだに整理がついていないし、ざっと「流れ」みたいなものを自分に説明する必要があるとおもったので。すまんす。
とりあえず「恋愛ラボ」アニメ化で色々注目が集まっているこの時期に、なにか書きたいなあみたいな感じになったので。
それだけ僕は「恋愛ラボ」に魅力を感じているのです。