あるいは牡蠣でいっぱいの海『たまゆら〜もあぐれっしぶ〜』

さびしんぼう [DVD]

さびしんぼう [DVD]

大林宣彦尾道を舞台にした映画を三本撮った。これらは「尾道三部作」と呼ばれる。
『転校生』『時をかける少女』そして『さびしんぼう』。
前二作はともかく、最後の『さびしんぼう』はタイトルだけ目にすると、どことなく滑稽な印象を受ける。
なぜ、大林宣彦はこんなタイトルにしたのか。
別れを描いた作品だからだ。それとは別にこういう理由からではないかと僕は勝手に邪推している。
尾道は、尾道を含めた瀬戸内海の風景はどこか寂しいからだと。


『OVA版たまゆら』『たまゆら第一期』を経過して二期に相当する『たまゆら〜もあぐれっしぶ〜』が終了した。
最終回を観終わった直後の僕の印象は「美術がすごすぎてしょんべんちびる〜」であった。
美術担当の川尻健一氏をはじめとして、彩色スタッフはもとより絵コンテや背景系列に関わったスタッフの熱意と努力の賜物だと思う。
その結果として、「あぐれっしぶ」で描かれる瀬戸内海竹原の寂しい風景は新たなものを獲得していく代わりに大切なものをどんどん失っていく沢渡楓の心象風景を見事に反映していたと思う。

竹原とは田舎である。まごうことなき田舎だ。一応、観光地として売り出してはいるが、「よそ者」の僕からみれば、観光地として成功しているとは思えない。
同じ瀬戸内海の僕の田舎と同じである。
失礼を承知で言わせてもらえば「瀬戸内海の自然 7」「観光地 3」ぐらいの割合だ。本当に田舎だ。
瀬戸内海のあのへんは牡蠣ぐらいしか主だった名物がない。

ところが「もあぐれっしぶ」は一話から度肝を抜かれた。

竹原は田舎なので高層建築物がない。変に観光地としても管理されてもいるので、パッと見、電線が少ない。電線だらけの尾道とは正反対である。
結果として竹原の空は限りなく広く高い。
竹原には海沿いにつきもののプラント、排煙煙突がある。
しかし造船プラントががんがんある呉と違って田舎だからその数は極端に少なく、海沿いは瀬戸内海ががっつり見える。
だから竹原、三原、尾道間の海沿いは瀬戸内海しか風景がない。
家は低いものばかりなので視界には必ず山、川が強引に割り込んでくる。
人口比率が極端なので外には人間の影が少ない。

この寂然とした風景を「もあぐれっしぶ」はことさらに強調していた。
忠実に再現しようとしたようにもみえる。
この風景が父親との決別を覚悟した楓の心理と見事に合致していたと思う。
いちいち「悲しい」「寂しい」「心細い」「虚しい」「でも嬉しい」とか言わなくとも全て竹原と瀬戸内海の風景が表現してくれていたように僕は思う。

キャラクターも秀逸だった。前作からのメインキャラたち、かなえ先輩、そしてなにより父親の親友だった夏目望。
これらのキャラは楓の世界観を非常にうまく象徴していると観ていてずっと感じていた。

これらのキャラは楓の過去と現在、未来である。

前作からのメインキャラたち。
帰る場所であり、守ってくれる存在であり、そして失う存在である。
最終話、お好み焼き屋のちもとさよみは旅にでてしまうと言う。
この言葉をきっかけに楓は仲間全てがいつまでも傍に居る訳ではなく、いつかどこかへいってしまう存在だと知る。
当然だと思う。人間にはそれぞれの人生がある。
楓だってカメラでなにかを成そうと思えば竹原を出ていかざるを得なくなる。
そういう意味ではちもとさよみの旅にでる、の一言は楓の未来をうまく象徴している。
このちょい前に父親のカメラが壊れるのも秀逸である。そしてカメラはまだ修理すればなんとかなりそうなのだ。
この壊れた「カメラは修理すれば直る」はさよみのセリフ「やあね、戻ってくるわよ」で心配する楓に念押しされる。

夏目望が強烈だった。
ネットで「「もあぐれっしぶ」は綺麗な心の登場人物しか登場しない」とかいう発言をみかけたが「そうか〜?」と思う。
夏目望とは、いわゆるワナビである楓にとってこれから降りかかるとてつもない苦悩の前哨なのだ。
楓が高校生で親友の娘だから、技術面の批評だけで済んでいるのである。
創作系ワナビである以上、楓たちの作品にはこれから賞賛の数に比例して否定の声もあがるはずである。
写真をネットにあげてしまうような真似をしたら最後、「クソみたいな写真を撮ったこの出来そこないの目玉をえぐって二度と写真を撮らせないようにさせてやりたい氏ね」という声もあがるはずである(しかもブクマで)。
とにかく夏目はその不吉な前兆なのだ。「たまゆら」の世界を壊さないように出来得る限りでのソフトケイションを施されてはいるけれど。あくまで前哨というのはこれはつくづく良かった。前哨である以上、楓の苦悩にはならないからだ。
佐藤順一は「癒し」を徹底的に描いてきた。「思春期特有の苦悩、闇、孤独」を避けてきた。
オイシイしいはずの材料を佐藤順一は避け、自分の資質に忠実に従ったのである。

かなえ先輩は新たな獲得と喪失を同時に表現している貴重なキャラクターである。
楓とは正反対にデジカメを使うかなえ先輩。気に入らない写真は消してしまう、写真に対する概念が楓とは対照的キャラ。
一番最初の写真部部員であり、一番最初に写真部を去っていく。
カメラを使う同じカメラ仲間という点で師匠格であるりほは、師匠格である以上、絶対に楓の相対的な存在にはなれない。だからかなえ先輩は、今回の新キャラであるにもかかわらず、どんな旧キャラよりも絶対的に楓に近い存在なのである。
彼女の将来への悩みにしろ、進学決定にしろ、全てが楓と同じ高さの視線で描かれている。

「もあぐれっしぶ」とはメロドラマである。それも作品舞台と小道具、登場人物を楓の心理描写と過去と未来として扱ってしまう程に滅茶苦茶フィクションしているアニメなのである。
観終わった後の感慨とはまごうことなき「優れたフィクション」に魅せられた時に感じる感慨だった。

このアニメには寂しさが漂っている。後半、頻繁に使用される瀬戸内海を背景にいれたロングショットから漂うのは限りない寂しさである。
このロングショットっていうのは楓の父親の死が組み込まれている。
キャラたちが楓の父親のことを「死人」としてガッチリ扱っているというのも、よく考えれば大変なことである。
父親を失った子供の前で、懐かしがって平気で「死んだあいつは」とかいうのはちょっと考えれば限りなく残酷な風景ではある。
それがアクにならず、ひたすら「懐かしさ」と「寂しさ」に還元されていくのは瀬戸内海の風景が絡んでいるからだ。
そういう意味でも「優等生的な作品」というのは、なんだか下衆な発言をしているような気分にさせられる。
ひたすら「優れたフィクション」を魅せられたなと返す返す思うのである。
その時点で僕はもうこの作品にだいぶ頭をやられているのだろう。

本当に寂しい。背景が心理描写として優れているので
「お前らこんな映像見せられて寂しい思わんかったら人間ちゃうやろ」
みたいな強迫観念さえ感じる。この寂しさはものすごく押しつけがましくて図々しい。
同時に微妙な距離を取りながら制作者に
「どうすか?寂しいっすか?懐かしいっすか?」
と絶えず問われている気分になる。
俺いま、いい映像作品観てるよな、みたいな気分にさせられる。

一期からずっと続いている現象がある。それは楓が竹原出身のキャラであるはずなのに、竹原を全く知らない、という描写だ。竹原をずっと離れていたにしろ、だ。さよみに連れ回されて新しい場所に遭遇しては驚いてばかりいる。横須賀に帰った時でさえ、横須賀のことなどすっぱりと記憶から抜けおちている。花火イベントを通して思い出すありさまである。
それが最終話に至っては極限に達する。母親のバイクに乗せられて大久野島の高台に連れて行かれるシーン。
そこで描かれるのは「知らない世界」と「父親の死」である。
このシーンが妙に神秘的に描かれていたのはこの二つが融合していたからではないのか。
ありえないアングルで高台から瀬戸内海を眺める二人と風景が展開されるのはなぜなのか。

別れた人に再開する為に、娘と母親だけの世界を旅する。っていうのはこれはひどく寂しく、甘いシーン以外のなにものでもないと思う。


佐藤順一の余裕というか、スタッフコントロールも、スタッフ自体も優れている作品だと思う。
OVA版、第一期ときて、第二期の今回で佐藤順一と「たまゆら」は次のシフトに移った感がひしひしとある。
第一期であえて避けてきた課題を、第一期を経過したからこそクリアした、そんな印象を受ける。
第三期が予定されているとか、いないとかいう話を聞く。どうなるのか気になるところではある。

ここまで書いて気が付いたのだが、僕は随分竹原に萌えているみたいだ。
恥も外聞も捨てたもの言いをすれば竹原に惚れたとでもいうのか。
佐藤順一をはじめとして、スタッフも竹原、瀬戸内海に惚れているんじゃないだろうか。
でないとこんなにイイ女の子をいっぱいイイ風景と一体化させるなんて難しい。
大林宣彦尾道に惚れこんでしまったみたいに。

仁義なき戦い Blu-ray BOX (初回生産限定)

仁義なき戦い Blu-ray BOX (初回生産限定)

かみちゅ! Blu-ray BOX

かみちゅ! Blu-ray BOX

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)