あまりにも、構造的な『コッペリオン』抒情的な『咲-Saki-シノハユ』

構造的に語ることにいくぶんか恥ずかしいものを覚えて迷走しています。
かといって構造的に語る以外に手段を持っていないので「どうすべえか」と悩んで、ブログの記事を三本分くらい書いてはゴミ箱に捨てると言うアホみたいなことをやっていたのであるが、そこでアニメコッペリオン一話を観て「うわーっ」となってしまった。

あまりにも構造的なアニメ(というか原作はヤンマガ井上智徳COPPELION』)だったからだ。
一言で言うと「ヒロイン達がそうせざる得ない状況が理詰めで作られている」んである。

なぜ、東京が荒廃しているのか、そこへなぜ、少女達三人が赴かなければならないのか、荒廃してから何年経過しているのか、三人の性格はどういう性格なのか、三人はなぜ「特殊能力を持っているのか」、徹底的に「理詰めに語られている」んである。
で、作者(アニメ制作とは言わない)はアメリカドラマ、アメリカ映画からのオマージュをあからさまに盛り込んで、
「僕はアメリカ的構造物語が好きなんでこういうのができました!」
と痛快な先制攻撃をかましてくれるのである。
僕も本来なら喜ぶべき作品のはずなのだが、今回に至っては事情が事情で「構造的」という視点でしか観られなかった。それってアカンやつやないですか…。
(アニメ制作陣も原作はアメリカ構造的物語と十分理解している。だって教頭の声優が吹き替えメインで活躍しまくりの小山力也さんなんて出来過ぎでしょう)

んで、ガーッとなってガンガンのシノハユ』一話を読んで救いを求めたりしてた。

なぜここで『シノハユ』かというと『シノハユ』一話があまりにも抒情的で構造的に語る部分が圧倒的に少なかったことによるんである。(麻雀理論は別とする。一話では闘牌シーンは少ないからだ)

シノハユ』は徹底的に抒情物語である。それが構造につきまとわれ、ウジウジしている状態に『コッペリオン』が来てしまって、
「もう、日本でもこういうのが主流なのかなあ」
となってしまった状態から救ってくれたんである。
いや、もう日本でもこういう80年代っぽい構造語りが流行ってるんですかね。


シノハユ』一話ではヒロイン、シノちゃんの家庭境遇が語られるが、そこには一切説明が介在しない。
後に語られるのかもしれないが、一話で先制的に「語らない」ということをやっているので、あんまり期待できそうにない。されるとしても一巻分丸々使って理詰めで説明、なんて野暮は小林立五十嵐あぐりは絶対にしないはずである。
物語の起点となる母親の失踪も、一ページ丸々使っておきながら、これだけである。

「その翌日 母は行方不明になった」

んで、一年間、色々あってシノちゃんは島根のリチャードソンおじさんに引き取られるのであるが、その間に発生する色々な問題を全く説明しないのだ。
というか、しているのだが。これである

天使の笑顔から廃人の顔へ。

あまりにも映像的というか、もうここには「教養」とか「構造」とかそういうのがザックリはぶかれているのが分かる。
「日本の社会の」とか「物語の類型では」と一応分類することが可能であろうが、こんなシークエンスみせられて、そういうことするんならプラモ作っていた方が生産的である。
あるいは「統一感のない食卓」「目玉焼きのウィンナーが三本」っていう構図にも構造をみいだすことができるけれど、そこらへんもやっぱりどこまでも抒情に働いてしまうのである。
個人的に不幸な状況を字面で説明するのを作者が避けているのに、それをわざわざ掘り起こすのはやっぱり抵抗がある。
これが構造的を語ることへの「恥」である。
「こういうことです」と絵ズラだけで説明してんのに、空気読まずに「「どうしてだろう?」と感じるのが重要だからなんですよ」とわざわざ解体する必要はない。いや、しても全然いいけど。個人的に僕としては「そういうもんだからなあ」としか言えない。
シノちゃんとリチャードソンの関係を社会的に「60年代からの女性の自立運動と弱体化していく男子」として読みとれることは容易だろう。でもそれってすごくアメリカ的ですよね。多分、この文脈で行けば、シノちゃんの類型型ヒロインは『じゃりん子チエ』あたりに求められるのだと思うのだけれど、それはあまりにも構造的な語り過ぎる気がする。
シノちゃんは純粋に生きていくことに命を燃やしているだけなのである。

この「わざわざ説明するのは恥ずかしいですよ」を象徴するのが石飛閑無である。
なんか閑無がすごいタイミングできたので僕は小林立あぐりの手際に嬉しくなってしまった。これだから小林立は無条件にいい
閑無の科白を読めば分かるが徹底的に理屈っぽく、理論的に語る。
「わたしが好きでもない麻雀をするのには文脈があって、それを理解できないやつは仲間になれなくていい」とシノちゃんを切り捨てるこの「恥ずかしさ」。抒情まで構造込みで説明しようとする「恥ずかしさ」
「弱い奴は自然淘汰されろ」「意志の力に憧れる」という、いわゆる「強者の理論」「エリート主義」をオブラートに隠してぶんまわす閑無に僕は笑ってしまった。
だって閑無が本能的には嫌っている「エリート主義」採用への自分のいい訳の仕方が「世界で有名なアスリートたちにもそういうのは一杯いるから」っていう紋切り型なんですよ。
実際、閑無は痛いキャラとして描かれている。
それでも、小林立あぐり閑無にも「はやりんムカつく」という抒情をつっこんでしまうのである。
理論的な閑無もやっぱり無垢で純粋なニセモノ嫌いなのである。そういう想像の余地が一話の閑無にもある。閑無が生粋のエリート主義ならスポットライトを浴びている瑞原はやりに無条件に惹かれてしまうはずだ
そうしないのは閑無が無垢な証拠である。
そして「メディアという虚構に持ち上げられているニセモノ」として閑無に扱われているはやりんの今後の運命やいかに
しかしまあ、閑無は偽物が嫌い(閑無は粗暴に喋る。もし虚栄の世界に憧れているのなら、もっと平和的な喋り方をするはずである)なのであるから、今後は本物のシノちゃんとはやりんにどうしても魅力を感じていくのだと思うのだけれど。


リチャードソンも徹底的に抒情である。手元に置きあぐねてはいるが、捨てたくはない麻雀牌を知り合いに「預かってくれ」というこの情けなさ。
麻雀牌を家から追い出した理由をシノちゃんに聞かれ「お前がつらいだろうと思って売った」というこの情けなさ
知り合いに大好きな姉であるナナをとられたくない心情を隠しもしない(そう。このシークエンスだけは本当に嫌そうにリチャードソンは「お前が義理の兄なんて嫌だよ…」と露骨に言うのだ)情けなさ
お参りの日を早めてしまう情けなさ
そしてこの情けなさが「自力でお母さんをみつける」というシノの決意につながっていくシークエンス

なにより

「麻雀で有名になってテレビにでればお母さんが帰って来てくれるかもしれない。よくわからないけれど、その自信が自分にはある」

というシノの小学生や中学生なんかの思春期特有の自意識の肥大さ加減。

理屈ではなく心情だけで話が展開していくこのあまりにも社会構造を排除した個人的な流れ。

コッペリオンは『シノハユ』と違い、社会的構造を前面に押し出した物語である。
ここからは沢山の「類型」「理論」「文脈」「構造」が発見できる。
ヒロインたちは行動理論さえも遺伝子レベルで管理されているという説明がなされるからである。
現実に根拠を求めた虚構の理論を前面に押し出している以上、『コッペリオン』は徹底的に現実を反映させた虚構の物語として機能するはずだ。まあ、ここまで露骨に先制攻撃した作品にわざわざ説明する野暮もないだろうが。
原作で描かれていた「放射能汚染」は「汚染」に変更されてしまっているし、東京も旧東京に変更されていることからそういう無粋な邪推から逃れようとしている意図は十分に理解できる。
しかし、荒廃した「東京タワー」を描いてしまっている以上、この作品はフィクションの背後に現実に根拠を求める無粋な人間の邪推からは逃れられないはずである。
作者の意図にいかんにかかわらず、だ。
アニメ制作陣は「放射能汚染」を「汚染」に変えるくらいに、現実とのこじつけ解釈を避けようとしているのだが。
そして『コッペリオン』はありえないアングルやカット割が多い。ありえないアングルやカット割が多いということは、虚構であるとの主張でもある。
だって単純に考えて現実はカット割せずにずーっと続くでしょう
カット割、あるいは行間っていうのは「虚構ですよ」と主張していることにほかならない。
「虚構」だと主張するものにわざわざ時代社会構造や現実構造問題をリンクさせて「虚構における時代の文脈」とするのは明らかにフィクションをナメている。後から「そういう時代の気分だった」と共通項を見出すことは可能なのだろうけれど。

シノハユ』でも『コッペリオン』の東京同様、島根の玉造周辺が描かれているが、ここでは地名は特定されていない。
もちろん、現地のひとが見れば一発でわかるように細かくかかれているが、ここで細かく描かれているのは心理描写を描く為に必要な処置として、である。
たまゆら』の竹原や『かみちゅ!』の尾道と一緒の効果を狙って描かれている。

徹底的に抒情な『シノハユ』と構造的な『コッペリオン

コッペリオン』観てないけれど、どうしようかナー、興味あるけど、BSだしレンタルすんのも面倒くさいなーと迷っている方。
アメリカの映画、連続ドラマシリーズなんかが好きで「そこに百合しい女子高生がいたらいいな〜」だったら、これはツボだと思いますよ。
…なんか結局構造語ってるじゃんかよ!

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