the downward spiral『ヨハネスブルグの天使たち』

ヨハネスブルグの天使たち (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ヨハネスブルグの天使たち (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

宮内悠介ヨハネスブルグの天使たち』を読んで「ネットで言われているような違和感ねえな」と激しく感じたので感想を書きたくなってしまった。

まず帯がいかん。
伊藤計劃が幻視したヴィジョンをJ・G・バラードの手法で描く』
これで多分に「ポスト伊藤計劃」とかいう訳の分からないバイアスがかかった人がネットに滅茶目立つ
帯がいかんというのではなく、帯の言い方が悪いのか。
まず、僕が「ヨハ天」を読んで感じた印象が「自己破壊願望」「建築フェチ」「飛行あるいは落下」「永遠に続く終末」だった。
これって一部は伊藤計劃だけど、正確にはJ・G・バラードの素養じゃん。
妄想するに、伊藤さんが生前、Anima Solarisのインタビューで「バラードの心でスターリングのように書きたい」って言ってたから、帯書いたひとは「そうか、伊藤計劃はバラードの影響受けてんのか。じゃ宣伝の為に名前だせばいいや」って書いたんじゃないの。おいおい、梶原一騎の手法もいいけれど、そりゃいくらなんでも盛り過ぎだぜ。
んが、バラードの手法、というのなら僕は納得がいく。前述したようにバラードの趣味が「ヨハ天」には溢れているからだ。

バラードの手法で書くっていえばコリン・ウィルスンが『精神寄生体』かなんかのSFの序文で「冒頭はバラードの文体で書いた」とかなんとか言ってたけれど、あれもよく分かんなかったなあ。


「建築フェチ」はバラードのフェチズムであるところは、絶滅危惧種なSFクラスタならしごく承知なところであろう。
初期短編から後期に至るまで奇妙な建築物や廃墟、果ては宇宙ステーションまで書いてきたひとである。
「ヨハ天」のモチーフのひとつは建築物である。表題作「ヨハネスブルグの天使たち」では九龍城さながらのアフリカのマディパ・タワー、「ロワーサイドの幽霊たち」ではツイン・タワービル、「ジャララバードの兵士たち」ではダフマ、ムシャヒディンの基地、スイヤーチャール、「ハドラマウトの道化たち」では泥で作られた建築物、「北東京の子供たち」では衰退した団地と、廃墟の臭いを濃厚に漂わせながら、まるでもうひとりの主人公は自分だとばかりに建築物たちが激しく主張してくる。
人間の心理というどうしようもなくキナ臭いものを、世界という名のキャンバスに塗り込んだがために、変異して現出した俺たちのすがたを見ろ、と。

「自己破壊願望」「飛行あるいは落下」もバラードフェチである。『結晶世界』で水晶になっていく人々。『溺れた巨人』の腐敗過程。『クラッシュ』『コカインナイト』『千年紀の民』などの後期作品の自己破壊に突っ走っていく登場人物たち。
あるいは『夢幻会社』『太陽の帝国』あるいは傑作短編『火星からのメッセージ』などにみられる飛行と落下のイメージ
そして延々と放射能実験地帯をあるく短編や、やはり延々と続く都市を列車で旅する短編、もしくは『ヴァーミリオン・サンズ』や中期や後期の長編にも漂う、「永遠に続く終末」「世界の終わり」
繰り返すDX9の落下と飛行や、無人戦闘機、疑似ドラッグに耽る人々、二人だけの終末世界(「ヨハ天」読んだひとなら分かると思う。「ヨハネスブルグの天使たち」と「北東京の子供たち」はその最たるもの)。
「ヨハ天」「ロワサイ幽霊」「北東京」の登場人物たちが衝突によって得られる性衝動(これは空中版の『クラッシュ』だ)。
「ツインタワービルの間にはなにがある?」という問いはバラードの「なにもない虚無の空間にはなにがある?」に他ならない。

この連作短編集には凝縮された「虚無」「死」「暴力」のイメージが詰まっている。あるいは「諦観の念」か。
希望に向かって歩いてはいくものの、主人公たちはどこかに制御しようとしてもしきれない「虚無」「死」「暴力」を抱えている。
そして「セックス」。このセックスすらもどこか制御しきれていない。衝突の瞬間に覚える絶頂に耽溺するのは、自傷を伴なう性行為と隣合わせだ。故にこの連作短編では性の対象である女性は異質である。

頻繁に挿入される「日本」というイメージも強烈である。時にはドラマを阻害する程に異国の地に「日本」が割り込んでくる。
建築士日系人、企業。それは技術面では帝国アメリカと肩を並べてしまった日本を世界のなかで浮き彫りにする作業でもある。
その象徴が日本技術の結晶DX9である。
なぜDX9は歌姫なのか。恐らくロボットと人間の橋渡しをするためである。ロボットと人間の対照構図といってもいい。
DX9は精巧でありながら、画一化されているが故に通常のSFが好んで扱う題材「不気味の谷」を持たない。あくまで歌う純粋無垢なロボットとして描かれる。
ロボットである以上、人間のいびつな願望を叶える道具としてのみDX9は行使される。兵士、疑似ドラッグ、実験体、人格転写、自爆テロ
それでいながら「ヨハ天」はロボットDX9のどこかゆがんだ心理描写まで差し込まずにはいられないのだ。

紛争地帯と911を雰囲気たっぷりに扱ったために「伊藤計劃の幻視したヴィジョン」という扱いをうけているように思える「ヨハ天」。
しかしそれは22P目であっさりと裏切られる。紛争地帯を描いてはいても、『虐殺器官』『メタルギアGOTP』『ハーモニー』とはまるで違うからだ。
人類が慢性的に抱えている病気を五つ挙げよ、といわれればそのなかに必ず「戦争」がはいる筈だ。
伊藤計劃も宮内悠介も人類共通の病気「戦争」を扱ったに過ぎない
その病気は慢性化しているのに切除できないので、時代を経る毎にどんどん肥大化していく。

もし、『ヨハネスブルグの天使たち』読もうかな、でもネットの評価微妙、と思っている人は「ポスト伊藤計劃」という単語を外してみてはいかがか。「ポストJ・G・バラード」なら読んでみて納得がいくのではないか。
あっ、別にバラードが全部の大元締めだからバラード最強って言ってるわけじゃないですよ。
単にバラードとその時代周辺の作家が普及させようと務めた「内宇宙」というテーマが、SFが絶対に避けて通れない題材になってしまっただけです。
伊藤計劃の『虐殺器官』『メタルギアGOTP』『ハーモニー』も意識と無意識を扱っている。
虐殺器官』の冒頭シーンは夢の世界だ。そしてその次には紛争地帯という人間の意識と無意識によって風景がまるで変わってしまった世界を描いている。

J・G・バラードの『残虐行為展覧会』の黙示にはこうある。

患者たち自身は招待されていないこの年次展覧会の不気味な特徴は、長いあいだ閉じ込められてきたこれらの患者たちが医師や看護婦たちの精神の内部になんらかの地殻変動を感知したかのように、絵画が世界異変の主題に著しく執着していることだった。

つまり『ヨハネスブルグの天使たち』どころか伊藤計劃の作品でさえもバラードだけではなく、バラード以降、SFというジャンルそのものがずっと追いかけ続けてきた普遍のテーマを扱った作品に過ぎない。SFはもう死んでるような気がするけど。
それはSFクラスタの僕でも否定しない。そう考えるとハヤカワとか創元(最近は国書と河出も)とかは偉い。

ヨハネスブルグの天使たち』は「ポスト伊藤計劃」もいいけれど、本当の姿は普遍的テーマの傑作SF連作集に過ぎないのだ。

ところでなぜ、このサイトが急に読書感想文なのか。僕は常々、咲クラで映画クラでもあるけれど、それらの感想をアニメ漫画サイトに書くのはどうかなあ、別にサイト作るとか、分別つけたほうがよくない?とか色々思ってたんだけれど、ついこの間の記事で『咲-Saki-シノハユ』の感想を書いたら、他人の目にはどう映ったであれ、俺的には「いいね!」って感じだったのでウジウジ悩むのもどうかと思うし、もう読書でも映画でもアニメ漫画サイトにごちゃまぜにすりゃいいんじゃねーのって吹っ切れたからです。
以降、色々書くと思うので今後ともよろしく。もちろんアニメ、漫画もやるでよ。

20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻 (河出文庫)

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