ミリオンダラー・ベイビー『魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』

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僕です。

魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』観てきました。……ってこれ先週言いましたよね。

原作に当たるテレビシリーズ監督の新房さんって日常系とかギャグものとか色々監督していますよね。劇場版[新編]では総監督で監督は宮本さんですけれど。
んで、新房さんってもういっこ別のジャンルがあると僕は勝手に思っててそれが化物語シリーズ』とかコゼットの肖像とかの路線ですけれど「いかに理詰めの恐怖に追い詰められて、それをどうするか」っていう構造のはなしなんですよ。
この「理詰めの恐怖」ってのは「まどマギ」はすごくうまい。
明らかに違和感を覚えて「おまえはおかしいよ……」って言っても相手は平気な顔で「俺のどこかおかしいんだ。ちゃんと理論込みで説明してみろ」って反論されて、考えてみると確かにおかしいところはないし、そもそも自分が知らない間に勝手に作られたルールっぽいんで言いかえせなくて「ああ……そうすっね……すいません……」しか口に出来ない委縮感。
原作ありきの作品もあるんで一概に新房の必殺技とはいえないんですけれど、共通していることは共通している。
んで、共通項っていうのがもういっこあって、新房さん、虚淵さんは孤独を描くのがすごくうまいんです。
大ヒットした「化物語」でもヒロインたちは孤独を抱えて袋小路に入っている訳でしょう。それを共有しない
むしろ自分と自分の目標以外は敵。これは「化物語」のヒロインにほぼ共通しています。
ただ、「化物語」は原作が西尾維新なんで、阿良々木くんが救いにはいってくれる。
テレビ版の「まどマギにしたって、きっかけはQBさんなんですけれど、登場人物って全員、問題抱えてますよね。
それを共有するということが全然ない
さやかにしたってマミさんにしたって、あんこにしたって、誰にも相談しない。相談しないで見栄張ってるんで孤独を抱える。
要するにまどマギ」のキャラ達の世界観も、自分と自分の目標以外には敵しかいない訳です。
で、ここが西尾さんと虚淵さんの違いなんですが、虚淵さんの脚本は殺しにくるんですよ。
誰かしらが自分の理解者になってくれる、悩みを打ち明ければ楽になるかもしれない、みたいな状況をそのキャラがクリアすると、ザクッと殺されちゃうんですよね。フラグ
マミさんも、まどかに本音を吐いた途端に殺されちゃうし、さやかとあんこも理解と和解をはじめた初期段階で心中しちゃうじゃないですか。ほむらも助けを求めたら事態が撹乱されちゃって、そういうのを何度も繰り返しているので相談できない。
よく「失敗を教訓に人生やり直す」って格言として扱われますが、この作品に限っては主観的に失敗を捉えて教訓にしたら、いい方向にはいかないんですよ。
繰り返しますけど、「理詰めの恐怖に追い詰められる」のが徹底しているので「主観的に失敗を捉えて教訓にする」すら死亡フラグになってるんですね。「どこがおかしいのか説明しろ」って脅されてるんですけれど、説明の仕方を間違えたら殺されるんですよ。主観抜きで説明しないといけない。この娘たちは無理ゲー強いられている
「おかしい! 無理ゲーだこれ!」と思ったら「どこがどうおかしいのかちゃんと説明しないとダメ」な世界なんですよ。
それを視聴者にも押し付けてくる。
視聴者も恐怖に追い込んでいくのは見事


んで、劇場版叛逆の感想。
叛逆はテレビ版の続編です。テレビ版か『劇場版まどマギ[前篇][後編]』観とかないと分かんないんで、観てない方は観たほうがいいです。システム構造というか、ルール的なものが全然分かりません

んで、相変わらず「おかしい!」と思ったら「どこどこがこうおかしい」ってちゃんと説明しないとダメな世界は健在です。しかも一ヶ所でも指摘場所が間違ってたら即罰ゲームの無理ゲー要素は相変わらずなんで。
今回に限ってはそれは特定の誰かなんですが。テレビやネットの予告で散々やってるんでネタバレになりませんよね。
ほむらです。
今回も孤独あります。しかしもう制作側が意図してやってるのがバレバレなんです。
わざわざまどかに「ひとりぼっちはダメだよ、ほむらちゃん」って言わせてるんですから。これも予告編でいってるからネタバレじゃないでしょう。

お祭り感覚は高ぶる。ここに「ひとりぼっちはダメだよ。ほむらちゃん」への解答が理詰めと痛快なアクションで返されているんで、映画としてはすごくまともです。ちゃんと落とし前のつけかたを知っている。しかもこういう「お祭り騒ぎ」は日本アニメ映画のお約束じゃないですか。大変に気を配って作ってある。

ちょっとネタバレすると、今回の映画も「救い」がメインです。
前回劇場版やテレビ版がやったまどかの「救い」ってのはほむらにとっては「一時的な方便」に過ぎないんです。
テレビ版や前劇場版ではまどかは世界を改変して世界を「救い」ましたが、ほむらにとっては「絶対視している存在が不幸な状況に対してとった一時的な方便」にすぎません。
「一時的な方便」なんで、似たような課題が科せられると、矛盾が生じて「救い」は無力化されてしまう。世界を救うのは当然の課題なんですけれど、ほむらにとっての大正解はまどかがいる世界です。これはテレビ版や前作劇場版で何度も強調されています。
この矛盾をどうするかが今回[新編]のほむらの課題になります。

ネットで観た人の評価を参考にしても、すっきりしない感じの映画ってことになってますけれど。
抒情と理論とクライマックスはあるんですけど。虚淵さんと新房さん、宮本さんが自分の持ってる世界に対する暴力の理屈を観客に「どこがおかしいか説明せよ」って正面から提示しているからすっきりしないと思うんですよ。「この暴力のどこがおかしいか説明せよ」
安易な「救い」に逃げない。テレビ版のラストに散々、「安易な自己犠牲」というバッシングがあったんでその声へのアンサーでもあります。むしろテレビだから安易な方向に逃げざるを得なかったんで、自由度の高い劇場版で本領を発揮したきらいもあります。

多分、新房さんも、虚淵さんも、宮本さんも、「理詰めを感情こみで説明しないといけいけない暴力、強制力」ってのをかなり苦手にしてるひとなんじゃないかなとは思います。
苦手だからうまく描けるみたいな感じですかね。自分の怖いものだから怖く描けるっていうか。

全体的にテレビと変わらずポップなのはいいですよね。イヌカレーそのまま映画に起用したのも正解なんですけれど、新房監督も虚淵さんもストレートな画面とか心象風景に色々詰め込んでポップにしちゃうじゃないですか。
特に新房さんはありえないアングルで撮ったり、フラッシュバック多いとか、作品のモチーフをサイケなシメントリー多用して表現したり、黄昏と夜とか人工照明とかの光の調整が多彩だったり、極端なアップとロングショット繰り返したり、デカダン主義を取り入れたり。シリアスな映像にどこかユルい感覚がある。
原点と言われる『コゼットの肖像』では芸術志向が強かったんですけれど、あれから数年経過した「まどか」はB級志向を忘れていません。特に[新編]戦闘シーンには日本アニメに特有の「決めポーズ」がバチッとあります。
まず最初に変身の決め銃を構えての決めポーズ、刀を振りまわしての決め弓を具現化させる瞬間の決めリボンをシュートした後の決め槍を回転させた後の決め着地したあとの決め
それにガンアクションとクンフーアクションの融合。ボンクラだったら完全にツボですよ。
それがキッツイ話しである『まどマギ』が受け入れられた理由のひとつであると思うし、二人の才能だと思うんですよ。
まどマギ」で新房さんと虚淵さんの才能を云々する時に、プロットの入り組み方や、構造の複雑巧妙さ、心理描写の巧みさなんかが取りざたされますが、この二人の本当の才能っていうのは「いい意味でのB級精神を忘れない」ってところにあると僕は思います。
キャラデザにうめ先生起用は正解ですよ。この映画で本当にそう思いました
だからキャラもあんなに輝くし、ほむほむはすごく表情が豊かなんだとは思います。
この映画は二時間前後なんですけれど、ほむほむはテレビ版十三話分以上の表情をやってますよ。
斉藤千和さんの演技もいいです。化物語」のひたぎ役やった後の「まどか」のほむほむなんで、声優キャリア的にも説得力が生まれているのかと思っちゃいますね。

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