燃えよ!戦車学校!

アニメガールズ&パンツァー感想

プラッツ 1/35 ガールズ&パンツァー IV号戦車D型 あんこうチームver プラモデル

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「戦争を、しましょう」戦場ヶ原ひたぎ

ガールズ&パンツァー』四話と五話を観た。
四話の冒頭からバイオレントな戦車のキャタピラ音に併せて軍歌調のパレードが流れた時から「これはなんか怖いな」とか思ってたんだけど、本編を見てやっちゃったかなあと。
正確にいうと「見せられた」のだ。

四話と五話で水島は戦争をやった。市街戦や森林戦という映画やアニメではなかなか実現しにくかった夢の舞台において水島監督は自分流の戦争をやったのだ。
水島監督は戦争をアニメで「見せて」しまったのだ。
僕たちは戦争をエンターテイメントとして見せられた。そこに口を挟む余地はない。

戦争には倫理や道徳が介入する余地がない。余地がない上に映画やアニメというフィルター越しだから、エンターテイメントとして成立する。この矛盾についてこれないひとは戦争映画や戦争小説、戦争アニメをみなくていいと思う。
戦争はフィクションの画面越しにはどこまでもエンターテイメントでしかない。
「咲」で小野学が闘牌シーンを繰りひろげた時に僕たちは「かっこいい」と思ったけど、あれが小野の戦争だったからだ。
まどマギ」でマミさんがマスケット銃を周囲にばら撒き、それを拾いながら敵を殲滅したシーンで「もっと斃せ」と思ったけど、あれが新房の戦争だったからだ。
押井の「パト2」が伝説になっているのは押井の戦争だったからだ。
四話と五話の戦闘パートは戦争を繰り広げていた。市街戦とか零距離射撃とか、情報戦とか木の間をすり抜けながらのカーチェイスとか、ここには倫理と道徳が介入する余地が一切なかった。「勝つ」ことだけが優先されていた。それがつまり戦争だ。
勝つためになんでもやる。でないと負ける。負けたら終わりだ。そこにはドラマツルギーとかストーリー性とかキャラクターとか詩的正義は排除される。ガルパン』の戦闘シーンで利用出来るものが徹底的に利用されていたのはそこにポイントがある。

ガルパンの戦闘パートではラノベ的作品にありがちな、萌えキャラだから卑怯な方法はやっちゃいけないなとか、話を盛り上げるためにここは涙のシーンをいれようとか、まんべんなく役割を与えようとかそういうレトリックとして必要とされているものは無視される。
この映像が示すバイオレンスにはシニカルさ以外には意味がない
水島努は僕たちアニメファンが求めていた終着点みたいなものの一部を監督した。
萌え美少女が、少女故に子供の残酷さを発揮しながら可愛らしい姿で武骨な戦車を操り、作戦を遂行して砲弾を装填し、風景と敵を破壊する。ここまで豪快かつ緻密に、生真面目にされると、僕たちはこの戦闘パートが笑うシーンなのか興奮するシーンなのか区別がつかない。
シニカルさと無意味が同居している暴力。これが水島努の戦争の方法論だと映像で示した。

さらに四話の戦闘パートが終わったBパート、五話Aパートでは脱力するようなドラマツルギーとストーリーが動いている。
「どうして」と思った。この流れで行くなら四話、五話の殆どを戦闘シーンに使ってもガルパンの全体像、ストーリーボード、構成自体にはなんら差し支えがない。ちゃんとアニメとして成立するはずだ。一話と二話、そして三話のAパートで必要な事柄は説明し尽くしたからだ。

アニメサイトを見ていて不快に感じることが度々あった。諸作品に対し、話数が足りないとか、ドラマツルギーが不完全とかそういうことをドヤ顔で語って「私は物語を求めているから」とか「感動できなかったから」とか「テーマを感じなかった」とか「意味がありそうで実はない」「矛盾をどうするか」とか書いている方である。
面白いこともあるが、そういう類は物語を否定しつつも自分にはない部分をちゃんと認めている文章だ。
アニメはエンターテイメントだ。エンターテイメントとは物語性が皆無だろうが、感動がなかろうが成立する分野だ。
というか、ガルパンの戦車戦を観た人なら納得すると思うけど、ちゃんとしたエンターテイメントを正面から見せられたら、無条件に物語なんかどうでもよくなるし、テーマも意味なんかもいらない、残虐シーンは痛快なモンドとして機能する。意味や感動は視聴者が勝手に自分で生成するものなのだというのがよく分かる。
物語と感動、意味、倫理とは「物語」が視聴者に与えるものじゃない。視聴者がそこから各自の物語や感動、テーマ、意味、倫理を生み出し、発見するものだ。

日常パートはそういったものを物語に求めて、自分で見つけ出すのが面倒臭い怠惰な方に「これでいいですか?」と水島監督が提出したサービスだった。
戦車戦を眺めれば水島監督はエンターテイメントに倫理は不要という必要事項を見出している監督だと分かる筈だ。
バイオレントな戦闘パートが終わったあと、水島監督は腰を落として怠惰な精神の方の視線と同じ位置にたち、笑いながら
「どうだった?」
と聞いている。暴力と飴を同時に与えると言う非常に大人げないことをやったのだ。
これでもまだなにか言う人は感性が摩耗しているか、怠惰極まっているか、まだちゃんと自我の思考が成立していない高校生か大学生かのどれかだろう。
社会人になっていながらもまだ文句を言うひとはロシア文学ジャン・ジュネバルザックあたりを古本屋で購入して繰り返し読んで文脈の意味と意味を繋げる作業に埋没していればいい。それだけで残りの人生は十分有意義に消費できるだろう。
高校生と大学生のアニメファン。ガルパンを観よう。結構珍しい類のアニメをあなたは今観ている。分からなくてもそのうち分かってくる。

話が逸れた。ガルパンは日常パートもバイオレンス要素に溢れている。そもそも水島は「イカちゃん」や「アザゼルさん」の時から会話の暴力も酷かった。
四話の華の母との対話にしたって「生けても生けてもなにかが足りないような気がするのです」とか「戦車なんてみんな鉄くずになってしまえばいいんだわ」とか、五話の戦車喫茶での麻子とエリカのセリフも「無名校の癖に。この大会はね、戦車道のイメージダウンになるような学校は参加しないのが暗黙のルールよ」とか「強豪校が有利になるように、示し合わせて作った暗黙のルールとやらで負けたら恥ずかしいな」とかさりげに相手の存在意義を全否定するようなセリフをぶつけ合っている

しかし特筆すべきはやはり市街戦、森林戦だろう。戦車を街中で走らせるというオタク的な行為は押井が「アヴァロン」と「パト2」で実写とアニメの両方をクリアしていたのだが、ガルパンは戦車が市街戦をやったら景色はどう映るだろうという泥臭いことを徹底的にやってのけた感がある。他に戦車の市街戦と森林戦を映像でちゃんとやったのは映画の分野におけるスピルバーグが制作した戦争ドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」と「ザ・パシフィック」と映画「プライベート・ライアン」、リドスコの「ブラック・ホーク・ダウン」アニメでは「戦場のヴァルキュリア」くらいだろう。
オタク的な行為はリアルな映像にすると恥ずかしいか格好いいかどっちかにはっきりと分かれるガルパンはカッコイイの部類にはいる。

五話のサンダース校が丘の向こうから接近してくるキャタピラの駆動音を、大洗女子学園が耳を済ませて聴いているシーンもバイオレントで怖かった。怖かったのだ。キャタピラが地面をえぐりながら駆動音がじわじわ近づいてくるシーンはそれだけでバイオレントだった。

これからガルパンはどうなるんだろう。一話や二話全部を使用しての戦車戦も十分に有りう得る。それはAパートやBパートだけでやってたことを全編にわたって繰り広げるということだ。

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どくそせん

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