戦時生活『フューリー』

Ost: Fury

Ost: Fury

……いや、えらくドライでタイトな映画を観たなあ……。この映画、虐殺シーンが話題になっているけど、この程度の虐殺だったらスピバ御大が『プライベートライアン』やリドスコ御大が『ブラック・ホーク・ダウン』でやってる筈で、なぜこんなにきついのかと考えたらやっぱりドライだからではないかしら。
即物的な虐殺を見せつける、雑な言い方をするとショーにする、という意味ではスピバ、リドスコの得意技ではあるのだけれど、この映画には別のドライさがあってそれが見せつけられてる感マシマシですわ。

この映画、食事のシーンがあるのだけれど、これが観てて異常に居心地が悪い。特に誰かが銃を撃つ訳ではない。頭から血を吹き飛ばす訳ではない。誰かが恐怖のあまり叫びだす訳ではない。しかし画面のなかも、観客席の観客も気まずい。恐らく戦闘パートや新人いびりパートにも通底しているのはこのたたずまいの悪さであって、見せつけられている感、というのは虐殺シーンそのものではないのではないかしら。

矢張りショーなんだと思う。監督は策を弄し、徹底的に観客を傍観者の位置に置いて画面でひどく気まずい行為を行う。
その行為自体を擁護しても糾弾しても結局は惨めな気分にさせられる。誰も得しない。中盤で行われる食事のシーンはだからこの映画のなかで一番の見所なのかもしれない。

展開自体もドライでタイトなのでちっとも飽きない。ずっと気まずい。極力無駄なシーンを省いて、というよりも、なにもない荒野を移動中にすらSSによって首に「裏切り者」の看板をぶら下げられて電柱に吊るされているドイツ人の死体が頻繁に挿入されるし、地面にはドイツ兵の死体がごろごろしているので居心地の悪さは持続される。
下世話といえば下世話ではある。スピバアンチはよく『プライベートライアン』や『シンドラーのリスト』の見世物趣味的な傾向を嫌う。ぼくはそんな感情を抱いたことはなかったのだけれど、彼らが感じたのはこの感情ではないかしら。
ぼくはすごく気まずい気分でいまこの記事を書いている。『プライベートライアン』を観た直後もこんな感情だったと思う。うまく映画と距離が取れない。すごく久し振りではある。『プライベートライアン』はDVDが販売されて購入し、二回目を観たときにようやく色んな場面に気付くようになった。この映画もその類のような気がする。

戦争映画好きだったら外れではないのでしょう。
虐殺シーン自体は結構フラットなので実はあんまり気にならない。『プライベートライアン』以降、戦争映画=スプラッターというのがトレンドだし、巷では虐殺しまくるFPSがばんばんまかり通っている。今更「こんな酷い戦闘シーンははじめて」というひともそうそうおらんでしょう。むしろ死体があんなにしょっちゅう生産されていたら、新しい死体はその中に埋没してしまいますよ。血の量より死体の量のほうが多いし。矢張り、この映画の注目すべき点は次々に生産される虐殺や残酷行為をドライでタイトな映像によって観客から距離を置くことで、逆に観客にジレンマを起こさせる、監督のドS性にあるのだろう。
カメラもえらく不格好だしなあ。FPSみたいな視点になったと思ったら俯瞰画面になるとかなんじゃそりゃ。ここはほぼ零距離射撃からの砲撃戦もあるM4A3シャーマン対ティーガ−の一対一のシーンなので、監督の「こんな映画観に来る奴はこんなシーンがみたかったんじゃろ?」感満々でハイになりますな。サービスシーン。

全編を覆い尽くしている黙示録感が強烈でもある。荒野の中を突き進む戦車部隊。画面を埋め尽くす爆撃機。絶えず灰色の空。空家。廃墟。どこまでも続くぬかるんだ道。狭い戦車内部で精密機械と化して戦う兵士。
スコアも軍歌と軍靴をアレンジしてサンプリングしてあるのか、これがバックに流れだすと黙示録感がいや増す。
ナチスとかの軍靴とか行進とか、軍歌ってサンプリングされて曲の中に入ると黙示録感増すよね。いや、ナチスに限らんのだけど。そういう不謹慎さを逆手にとって黙示録感を作っている所(何しろブラピの敵は結局ナチスですからなあ)のはそんなに悪くない気はします。と思ったら音楽担当は『ゼロ・グラビティ』のステーブン・プライスだった。ポスト・パンクの影響を受けた連中はナチスのサンプリングが好きだなあ。

セーラー服と重戦車 1 (チャンピオンREDコミックス)

セーラー服と重戦車 1 (チャンピオンREDコミックス)

チャイナ・アイデンティティー

チャイナ・アイデンティティ
『ソード・アイデンティティー』DVDで。これぼくが観たかった種類の映画だ。
監督、脚本はシュ・ハオフォン。『グランドマスター』の武術顧問と脚本を担当。しかも自分で武侠小説も書く。ということで、中国武術にかんしてはエキスパートと見做していいんじゃないかしら。

『ソード・アイデンティティー』明時代の中国が舞台なのですが、武器にしろ、作戦にしろ、人間関係にしろ、すべて明代中国が基礎になっています。
その武器やら作戦やらが全て明時代特有の人間関係に繋がって行くので、舞台設定の時点で明代中国でないとダメー。
で、武器やら作戦やらはどうやらハオフォン監督独自の考案(もしくは考察による)ものなんだけど、これも武術のエキスパートであるハオフォン監督が脚本書かないと齟齬が生じてしまう。

ついでに映像が渋いというか、いきなり西洋の絵画みたいな絵面が登場したり、中国映画のあの、日本人から見れば面白いのか面白くないのかいまいちよく分からないコメディもあったりして、独特の世界観を持っているので、これもハオフォン監督が撮らないと成立しない。

つまりこれは中国という国、ハオフォン監督、という要素が揃っていないと成立しない映画。

ぼくは以前、ブログで

人を選ぶ作品だとは思います。でもぼくは読みやすくて受け入れやすい作品っていうのは、一般受けしやすいけれど、それよりもっと読みやすくて受け入れやすいものが登場するとお客は全部そっちにいっちゃうと思っています。文学が映画に負けて、映画がテレビに負けて、テレビがインターネットに負けるとか、一般書籍がラノベに(売り上げで)負けるとかっていうのはこういうのだと思う。で、ぼくとしてはとっつきにくくてもいいから、そのメディアや作家にしか出来ないことをやっていれば、自然と土壌は完成すると思っている。

って書いたけど、これは別に「バカ向けの作品を作らずにハイブリッドな作品を作り続ければいずれ理解が得られ、業界の尊厳を守ることに繋がるので、お利口で志の高い作家と読者は意識を高く持ってがんばれ」という話ではなくて、ようするに「『ソード・アイデンティティー』みたいなそのメディアとその作家しか出来いことをやっていれば、メディアと作家の特性は守れますよ」という話。そもそも武侠小説は中国の大衆小説だし。

別に小説でもアニメでも作れる脚本なんだけど、アニメや小説にした時点で語り手=監督が変わってしまうので、おそらく全然別物に仕上がってしまう。
内容は『ソード・アイデンティティー』なんだけど映画とは違うものになってしまう。
ハリウッドに持っていくと恐らくこれはガンアクションになってしまうと思うんだけど、それだと四大剣術が火花を散らす『ソード・アイデンティティー』ではなくなってしまう。
ボンクラ映画の『リベリオン』がバカ映画、カルト映画扱いされながらも、どこかで脈々と語り継がれているのはそれなりに理由があるのです。

それを破るのを許容したのがメディアミックスなんだけど、それはそれで全然別口の語り手が存在すると幅が広がって面白いとぼくは思っています。
『艦これ』でもケッコンカッコカリが発表された時点で百合の世界を壊された一部の百合提督は激怒したけど、そもそも作品を好きでないと激怒しないはずで(ぼくの知らない間にコンテンツが終了したゲームは死ぬくらいあると思う)、これは大好きが裏返った結果だけを取り出した現象です。
現に百合提督は依然として根強く存在するし、ピクシブでは百合提督の作品に触発され、あらたな百合が百合提督になるべく『艦隊これくしょん』という作品に参入しています。

上澄みみたいなものを「クールコンテンツ」と名付けてほめそやして、売り出すよりも、作家性やメディアの特性を守っていくことも作品をよりよくするのには大事なのでこういう作品もどんどん作った方がいいよね、そしてそれは別に高尚な話ではなく、むしろ作品を作る上での基礎じゃないんですか、という話です。というかそういうことを教えてくれた作品でした。

元気でいられるから!
『Gの閃光』をぼくは自虐的に自己啓発ソングとして扱っているが、これは恐らく冨野スキー監督が七十年生きてきた人間として体験した普遍的な出来事を歌詞にしただけなのでむしろバーナム効果に近い。
つまり歌詞のなかにさりげに現れるネガティブな部分は冨野監督が体験したネガティブ体験なのだ! と思いつつ何度もリピートしています。
ちなみにこの文章読んで大仰に「冨野は宗教だ! オウムと同じ手段じゃないか!」って言いたいひとは「ジャンヌダルクは魔女だ!」ってダルクを宗教裁判にかけた十五世紀あたりで思考が停止しているのと同じなので散々繰り返されてきた批評をいまさらドヤ顔でぶり返さないが吉。「辛いのはぼくだけじゃなくて、みんな体験することなんだ」って素直に受け止めたほうがいいですよ。

戦争は終わってないんだ!
今月中旬にJOYに行って休憩の時に宣伝を観ていたら高橋洋子が『魂のルフラン』を歌っていたので触発されて歌ってしまった。
全国オンラインにしたら参加人数が二千五百人越えだったので恐れ戦く。JOYの全国オンラインは月末締めなのでまだまだ参加者が増える可能性がある。
米倉千尋の大ヒット曲『嵐の中で輝いて』(アニソンフェスで若手ユニットがカヴァーして歌うので未だ現役と思ってよい)の参加人数が千五百人だったのでその倍と思ってよいのでは。
アニメ批評界界隈では「脱エヴァ」論などがまかり通っているが、これがぼくたちのリアルなんだ! というか、あれか。酔っぱらった戦争体験者が宴会で海軍小唄の『ズンドコ節』を手拍子打ちながら歌うようなものなのかなあ……。

面白かった百合
いまさらなんだけど林家志弦の『思春期生命体ベガ』がすごい面白かったので読んでいない百合スキーは読むべし。
色んなポップな要素がぎゅっと一冊に凝縮されていて、なおかつ林家特有のポジティブ感とどこか少年誌的熱血展開を思わせる王子様が助けに来たぜお姫様! (百合なのでどちらもお姫様だけど)なヒロイックな展開はグー。
悪魔のリドル』で多種多様な要素をごちゃ混ぜにしながら、レズキャラが相手を倒すために相棒とイチャラブしつつバトルしていたあの展開が好きならおすすめ。
「百合とは肉体的接触を伴わず、思春期特有の繊細な少女が魂の尊い繋がりだけで結ばれて……」とかいうロジックを「うるさいでス!」と爽快にベガがぶっとばしてくれるし、ポジティブさ故にちっとも陰湿に感じないので、爽快、爽快。
林家志弘の熱血アクションといえば『はやてブレード』があるけど、あれはどちらかというと掲載誌への配慮からか少年熱血格闘漫画のキャラを女の子に置き換えただけなのに対し(それでも面白いのだが)『思春期ベガ』は恋愛コミック専門誌『楽園』掲載だったので、恋愛パートも十分にある。
百合姫』でググると『ゆるゆり』の大ヒットゆえに「なもり」が上位にサジェクトされるけど、エンタメと百合を両立させている林家志弘ももっと評価されていいと思う。

今回の艦これ!
レベル上げ、レベル上げ。

帰ってきた酔っぱらい

2014
未だにオタク友達とカラオケに行くと『マクロスF』の『ライオン』を歌ったりするのだが、JOYのアニメ映像は戦闘パート映像が地道に更新されている気がする。
新作マクロスのオーディションが開始されているというのにJOYはなにをやっているんだ。あと、最近JOYよりDAMをよく使うようになった。LIVEDAM。
アニソンカラオケなら間口が広く、奥行きが狭いのがJOY。間口が狭く、奥行きが広いのがDAMという印象。

あまりカラオケにはいかないがオタク友達が集まった時にどっちに行けばいいの? と問われればJOYのf1を推す。とにかく操作系統が分かり易くて、曲の検索もしやすいので初心者はこっち。アニメのメジャータイトルの映像化率もこちらのほうが高い。リモコンの操作画面も機能を絞って分かり易くしているJOYに比べて、DAMは狭い画面にショートカットアイコンがびっしり並んでいる上に曲の詳細情報が一括表示されないので、カラオケに慣れるまでは扱いにくい。

アニメの歌の曲名を空でいえるのならDAMのLIVE。あと「今更アニメ映像とかJOYで見飽きたぜ!」というひとはDAMに進むとよい。アニメのメジャータイトルのOP曲でもJOYではアニメ映像だけが流れるが、DAMではアーティスト自身のPVやライヴ映像が揃っている確率も高い。音源も若干DAMのほうがよい。ただし、リモコンの検索が扱いにくいので、先に述べたように曲名が空で言えるくらいでないと探している曲がなかなかヒットしないし、アニメ映像ヴァージョンの曲を選んだつもりがプロカラオケヴァージョンの味もそっけもない普通の映像が流れる可能性がある。ただし探すのに慣れると、単純に曲の登録の仕方はDAMの方がマニアックなので「あっ、このOVAの挿入曲が……」という事が結構ある。かといっていきなり通ぶって最初にDAMに行ってもおそらく満足感は多く得られないので、最初は気楽にJOYに行って有名な曲をアニメ映像付でサクサク歌ってオタク会カラオケやアニソンヒトカラの楽しみを覚えたほうがよい。

JOYとDAMどっちがボカロと東方(IOSYSを指す)が多いのかという問題についてはぼくはニコには詳しくないのでよく分からん。
ボカロはインディーなので制作過程でJASRACを通しておらず(だよね?)、結果として曲の買い付けは企業レベルではなく、個人レベルになると思うので手間がかかるんじゃないかしら。
ので最終的に売れている、売れていない、名作だから、名作じゃないから、ではなく、JOYの担当とDAMの担当、どちらがよりニコへの需要に対してアンテナが高いかという事になってくると思うので、ぼくにはよく分からん。お金や著作権も絡んでくるので、アンテナが高いだけではなんともならん場合もあるし。
洋楽のカラオケ採用率が低いのと、昔、アニソンカラオケの数が異常に少なかったのはJASRACを通していないので、個人レベルで対応しないといけなかったから。でもここ数年、アニメの曲が増えてきたのはアニメ好きが増えてきて需要が高くなったし、アニソンを供給する側もメディア対応でカラオケ業界に対してある程度のスタンスが完成してきているからだと思う。
洋楽の『QEEN』がカラオケであっても『QEEN OF THE STONE AGE』が全くないのは、個人レベルで対応してもすごく手間がかかるし、やっても需要がないからだと思う。

ちょっと前にJOYで『恋の2-4-11』が配信された直後に試しに歌ってツイッターで「歌ったよ〜」と報告したらそのpostを作曲者のGUN-SEKIにふぁぼられたことがあった。辿ってみるとフォロワー数がそこそこで(今はなんか多いけど)あ、やっぱりインディーなんだって思ったのを覚えている。

個人的には『ルカルカナイトフィーバー』はJOYではDANCEROIDのダンス映像が流れてDAMではルカ姉の静止画が流れる。『千本桜』はJOYではPVは確実にあったけど、DAMではどうだっけ……『ワールドイズマイン』DAMではsupercell公式のイラストが流れたけどJOYはなにもなかった。他はどうだっけ……という感じ。東方についても疎い。JOYでは『チルノのパーフェクトさんすう教室』のショートヴァージョンを選択すると映像が流れる。

本当にボカロ関係はぼくはうとい。スマン星人。
ただしJOYもDAMもボカロに関しては現在進行形でどんどん追加されているので、普通に歌う分にはどちらでも不便はないと思う。

採点機能云々でDAMとJOYを区別するひともいるようだが、基本的にあれは歌がうまいとかヘタとかいうレベルではなく「いかに設定してある通りに歌えているか」というプログラムに沿っているだけなので一概に得点で両者をはかれないとは思う。DAMひとつ取っても、「精密採点DX」と「精密採点2」では点数の付け方が違う。
だからDAMもJOYも荒い言い方をすれば、マイクが拾いやすいデカい声で音程を設定どおりにそこそこ併せていれば、マイクが拾いにくい中くらいの声で微妙な抑揚をつけて小綺麗に歌うより得点は高い。恐らく世間一般でDAMよりJOYの得点が甘いと言われているのは、採点機能の甘さもさることながら、JOYはマイクの感度が高いので、そこそこなレベルであれば高得点を取れるが、DAMだとマイクの拾ってくれる領域が狭いので、デカい声で歌ってかつ、テクニックありきで歌わないといけないからだと思う。これってやってみると分かるが、まず腹から声を出すことが条件。まあ、要するに歌い方の基礎ができていないとDAMで高得点は無理。
だから「DAMでこれだけ高得点が出たんだからJOYではもっと得点が高いはず」というのは一応合ってはいるけれど、完全な正解ではないような気がする。
JOYにはJOYの高得点の取り方が別に存在するのだ。
ぼくはマキシマム ザ ホルモンが好きなのだが、ダイスケはんパートなどはJOYでは判定しきれず「採点できませんでした」と宣言されてしまう。しかしDAMでは80点台後半を叩きだすことがある。

得点に命をかけているひとは部屋の間取りや音量、マイクのメンテナンス具合などにも注意。ハウリング音が発生するとマイクが拾ってしまい、微妙に採点に響く。この辺はしっかり頑張ってパワースポットを自分で見つけて欲しい。

あと、お遊びで関係ないが、JOYには五分程度のアニメのアフレコ機能がついている。徹夜でアニソンカラオケをして全員が疲れたムードになった時にはこれを使えば盛り上がる。基本、JOYポイント使用というJOYに登録していなければ使用できない機能なのだが、一部は「おためし」で登録の必要なし、JOYポイントも課金もなしで楽しめるのでそっちを使えばよろしい。それだけでも十個以上あるので十分に楽しめる。最初に声優のお手本があって次にマイクを持って自分がアフレコ、最後にアニメ映像に合わせてスピーカーから録音した声がアニメ映像と一緒に流れる。大抵恋をしている男女二人が会話しているシーンがメインなので、二人でやるとよい。男が女役をするとキモい現場になること必須なので、参加者はスマホの動画機能で現場を録画し、後々話のネタにせよ。

女性に配慮する必要がない場合は(配慮しなくてもいい性格の女性が居る場合は)「グラビア採点」がお勧め。これはDAMもJOYも無料である。普通の映像の代わりにJOYとDAMが契約している事務所のグラビアアイドルの映像が流れる。特にJOYの場合はポイント、ポイントで採点されて、得点が高ければより、煽情的なシュチュエーションへと映像が変化していき、最終得点で告白されるか「もっと頑張ってね」と言われるかが決定する。
アニソンをバックにおっぱいの大きなロリ顔グラビアアイドルが水着姿で胸の谷間にボールを挟んで腰をくねくね動かしている様をカメラがローアングルから撮っている映像が流れるのはなかなかシュール。
はっきり言えばマイナーなグラビアアイドルの宣伝機能なのだが、水着姿なんかも拝めるのでありがたい機能だと思ってよい。

ところでアニオタだと「どっちのアニメ映像がアニメファンの心をくすぐるの?」という問題が浮上するが、その辺は個人の趣味なのではっきり言えない。
ただしJOYはいわゆる名場面が多く、他人が歌っている傍で観ていると「あっ、このシーンは!」みたいなのが結構あるので嬉しいのだが、その反面、ネタバレ映像も結構流れるので(重要なキャラが死ぬシーンやラストのクライマックス映像がかなりの確率である)実はあまり記憶に残りにくい映像と名場面を交互にいれるDAMのほうが映像に気を使っているのかもしれない。

なんでJOYだとf1推しでDAMだとLIVE推しなの? ステマ? という意見に関してはとりあえずf1とLIVEが各々の最上位機種だから。だからアニメ映像に限らず、例えばf1とLIVEだと既に配信されている曲なのに、他の機種では配信されていない、登録されていない、という現象がかなりの確率で起きます。
この辺は皆も知っているみたいで要望もあるのか、JOYでは契約店に対し積極的にf1を導入していく流れである模様。
それとぼくの体験からf1とDAMの配信が一番早いと思ってて、データの量も多いと思っているからです。

帰ってきたよっぱらい
『WORLD`S END 酔っぱらいが世界を救う!』BDで。ぼくがおっさんなのだからかもしれんが、観ている間、ずっと夢の中にいるような映画だった。ぼくとしては『ホット・ファズ』のほうが好みなのだが『WORLD`S END』は明らかにエドライの現行での最高傑作。本当に夢の中にいるみたいだった。
ちなみにこの映画は90年代のUK、USロックが挿入歌として使われている点でおっさん、おばさん向け。
しかしプライマルの『Loaded』がメインテーマにも繋がっていることから、モラトリアム期間中にプライマルにハマったひとなら誰にもドストレートに腹に来るようになっているのだ。

そして『Loaded』がサンプリングしている映画がこちら『ザ・ワイルド・エンジェルス』のこのシーン。

現在プライマルもおっさんになっているので現状はこっち。



『WORLD`S END 酔っぱらいが世界を救う!』吹き替えで観たりリピート率が異常に高い映画になりそう。

妹物語
偽物語』を観はじめた。だんだんシャフトの背景が嫌いになってきてるな、おれ。こういう構造の建物はないだろ、とかそういうものではなくて、単にシリーズを重ねるごとに食傷気味になってきているだけなので、山と海があるアニメを観れば治療になるかもしれない。

田舎の変態が集まって暇潰しの方法を色々模索する
『はがない』二期も観はじめた。というか現在『偽物語』や『桜trick』より消化率が高い。これはぼくが根本的にギャグ、コメディが好きな性格なので仕方がない。理科の髪型がほぼ毎回変わるので、これ理科推しだよなあ……。

トレッド・ストーン作戦を経過したデンゼル・ワシントン
イコライザー』評判いいね。ポスト「トニー・スコット」なの? 観てないから分からん。
http://www.equalizer.jp/#/home

艦カツ、カラオケカツ
現在、艦カツとカラオケカツのアクティビティが高いので他の趣味にリソースを費やせない。時間は無限ではないのだ。特にカラオケは安くて長く粘れる娯楽なので、ストレス解消には欠かせない。だからぼくはカラオケに詳しいんだ。

早川さんと扶桑さんは悪くないと思います。エルロイ君やキング君とかが最初にやったことを褒めていました
『ゴーストマン 時限紙幣』をあんまりにも書店で発見しないのでアマゾンを使う。届いたら文藝春秋だった。タイトルの付け方が早川っぽかったので早川だとばっかり思い込んでた。すごいバカ売れしているらしいじゃないですか。
しかし文春はあれだな。買い付けがうまいな。デヴィット・ピースとかS・ハンター、S・キングやエルロイの世間的にぱっとしないタイトルはほぼ扶桑か早川なのに、大ヒットしてる作品を購入して日本に持ってくるのは文春や新潮ばっかだな。

今回の『咲-Saki-』!

今週の艦これ!
前述した通り、艦カツ率が上がっています。具体的に言うと明石が欲しいし、明石が居るんなら大淀さんにも来て欲しい。
眼鏡、めがね〜。

二十一世紀の『記憶屋ジョニー』

瀬戸内海アニメ
結城友奈は勇者である』 『かみちゅ!』や『たまゆら』といった瀬戸内海アニメには百合が多いという見識は画面から得られる情報を百合クラスタが勝手に歪曲して百合アニメとして扱っているだけなのですよ。

人生終了
『人生』終了。特になにか盛り上がるべきようなものもなく、普通に梨乃推しの回だった。『人生』らしい最終回だ。

桜Trick』視聴開始。
ちゃんとヘテロに対しても気配りしてある作品なのでみんなここから百合沼にはいればいいよ。百合は怖くないだろう? 観てて気持ちいいだろう? 恥ずかしがることはない。もともとぼくたちは蜂蜜がしたたるピーチパイがお皿に盛ってあれば手を蜂蜜まみれにしながら蜜をだらしなくテーブルに零しつつ、ガツガツとパイをがっつく豚だったじゃないか。俺たちが紳士や淑女だった瞬間なんて、本当にあったのか? おまえが自分の頭のなかに勝手に複雑な夢をつくっているだけだろう? いい加減にひび割れに目を向けて見ろよ。

21世紀の『記憶屋ジョニー』
エリジウム』。BDで。んで、思ったのですが、この監督ってホラーみたいな撮り方するんだなって思った。『第9地区』もホラーみたいな撮り方だったんだけど、二作続けてやられるとホラーみたいな撮り方だなあとしか言いようがない。

第9地区』も主人公がエビになるのってホラーっぽい撮り方ですよね。ねちねちと執念深く、エビに変わっていく過程を撮っていく。
主人公がエビの仲間と地球の実験室に行くとエビがばらばらに分解されている場面がありますよね。普通のSFだったらあんないやらしい撮り方しませんよ。
エビの宇宙船も気持ち悪いじゃないですか。はっきり言って。
これリドスコの『エイリアン』と同じ傾向じゃないですか。リドスコは『エイリアン』を撮る時点でホラーの手法を取ってますよね。
『エイリアン』の宇宙船は大きなお城です。『エイリアン』はヒロインがお城のなかでひたすらお化けから逃げ回るゴシック小説と同じ手法です。もしくはリプリー達が間違ってクトゥルー神話の世界に迷い込んでしまったと取ってもよい。ってこれはスティーブン・キングが言ってたんですけれど。

それでそういう撮り方をしててどうして『第9地区』がSFになるんだっていうと日本のロボットアニメを基礎にしたメカとかのガジェットもあるんだけど、エビに変わっていくと主人公の意識も同時に変容していくからSFなんじゃないかと。

で『エリジウム』もすごいホラーっぽい。M・デイモンが記憶泥棒に志願する切っ掛けがレンジでチンされちゃう時点でアレ、ホラーの撮り方ですよね。
その次に記憶泥棒になる為に強化外骨格を取り付ける必要が生じて手術受けるじゃないですか。ベッドに固定されて、薄気味悪い手術室に運ばれるの、アレはもう完全なホラーじゃないですか。手術室の照明は薄暗いし、周囲にはよく分かんないロボットだかアンドロイドだかのボディがごろごろしてるし。屠殺場。もしくは加工した肉を保管しておく倉庫。いちいち強化外骨格をねじ止めするシーンも見せちゃうし。で、ぼくが「あ、これはホラーだ」って痛感したのが強化外骨格のデザインです。あれって骸骨でしょう。配線も剥き出しになってるの、あれは剥き出しになった血管ですよね。強化外骨格の電源入れると後頭部のモニターにデータが表示されるの、あほみたいな笑えるシーンですけど、あれは脳みその中身が可視化されてるんじゃないですか。で監督っていうのは『第9地区』の時もそうだったんですけど、怖いシーンで噴き出すようなことをさらっとやってしまうじゃないですか。これ完全にホラーの感覚ですよ。気持ち悪かったり、怖い要素が一周して笑いになるっていうのは。
シド・ミードがデザイン担当して宇宙ステーションとかは割かしスタイリッシュに作ってあるじゃないですか。
急にあそこら辺だけ妙にごつごつしてるっていうか、気持ち悪いデザインしてるの狙ってる気がする。武器も無骨なデザインの怖そうなものばかり選んである。

で、宇宙ステーションのデザインっていうかエリジウムに住んでいる人の服のデザインとか、ジョディ・フォスターが中央管制室に行くと高級そうな紅茶のカップを渡されますよね。んなあほな事、普通の現代SF映画がするかい。

これベスターとかスタージョンとかブラッドベリとか、あの辺のパルプマガジンSFのノリじゃないですか。怪奇趣味とSFと一寸古臭いアメリカの理想像がごちゃごちゃになってるの。
第9地区』も似たようなデザインとか要素とか多かったんで、この監督は日本のアニメ以外にも、そこらへんに思い入れあるんじゃないかしらん。
もしくはこれはニール・ブロムカンプが自分のSFを作るときに選択した意匠なんじゃないですか。ディストピアのイメージ(地球もエリジウムも等しくディストピアという感覚は分かり易くてすごく好き)はこれまで散々考案されてきたんで、じゃあ、ニール監督は自分のディストピアを作るときにどうしようって考えて、日本のアニメともう一つ、50年代から70年代のSFのデザインを選択したんじゃないんですか。

エリジウムの侵犯者迎撃システムが笑える。エリジウムに地球からの亡命者が宇宙船でやってくると、わざわざ地球のエージェントに連絡して地球側から迎撃するんですけど、これは平和主義の宇宙ステーション「エリジウム」は基本的に非武装で、亡命者を受け入れるのを理念としていると考えるのが妥当でしょう。ユートピアですから。しかし実際に生活を脅かすやつらが来ると困る。だから秘密裏に犯罪者にやらせてますっていうのじゃないですか。すこし頭のネジのゆるんだ犯罪者が地球から亡命者を撃ち殺すのはエリジウムは感知していません。エリジウムのロボット警官も武装してるけど、亡命者に対しては絶対発砲しませんよね。殴ったり押さえつけたりはするけど。亡命はいいんだけど、違法に国境を越えてくるやつは犯罪者だから制圧してもいい。でも殺さない。ユートピアだから。そういうせこい思考がある気がします。地球側の亡命者もそういう「エリジウム」のせこい部分を突いて、懲りずに何度も何度も亡命を試みる。そう思いながら観るとうける。

M・デイモンや地球側の連中は貧困層。まともな教育受けてないから「エリジウム」制圧も効率よくやれないのもいい。
デイモンがDLして盗んできたプログラムは、世界を改変可能な超重要なプログラムなんだけど、その重要性を説明されても、デイモンは全然把握してない。理解出来る教育を受けてない。それはどうでもいいから俺はエリジウムに行きたいんだよ! って主張ばっかりしてんの。よくねーよ!

なんかそういう小賢しい真似してSFの要素をポンポン入れてくるの笑えますよ。SF要素を逆手に取ったブラックジョークに近い。

この辺の感覚がぼくは五十年代から七十年代にかけてのパルプSFを連想しました。映像でいうと『アウター・リミッツ』とか『トワイライト・ゾーン』に近い。あれもSFかホラーかよく分からないお話が一杯あるでしょう。あの感覚です。

この監督、残酷シーンが多くてグロい死に方するシーンが多いんで、その辺がピックアップされますけど、ピュアな暴力衝動があって撮ってないんですよ。
例えばバーホーべンだったら無差別に虐殺しますけど、この監督の映画で悲惨な死に方するキャラって大抵、その前に悪いことやってるじゃないですか。
悪い事する奴が悲惨な死に方するのって創作のお手本ですけど、ホラーの典型的なテンプレでもありますよね、
最後、デイモンが見え透いたチープなサクリファイスを要求されます。でもこれはお涙頂戴的なものが横溢してるんじゃなくて、この前にデイモンはそれなりに悪い事もしてますよね。だからああなるんだと思います。『第9地区』でも主人公は最後、罪滅ぼしをさせられますよね。
つまりこれは監督なりの自分の映画の文法だと思うので僕としては許容範囲です。


第9地区』と地続きでニール・ブロムカンプの世界を観たような気がする。
ラスト、デイモンとライバル役が花吹雪が舞う中、ポン刀持ってバトルするのいい。この監督はどこへ行くのか。

『日本のフィクサー
『日本の黒幕』冒頭で悪徳議員が当選、周囲の有権者に「いやー、日本の為にがんばります」とか宣言してるんだけど、実はヤクザの斡旋で当選しただけ。でヤクザの御祝辞が「日本の為に頑張ってくださいよ」次のシーンでは既に議員の不正がバレて黒塗りの街宣車が「日本の悪めっ!」って叫んでるんだけど、これだけでお腹一杯。冒頭十五分でヤクザ映画のいい部分をぎゅっと凝縮。
それ以降もホモセクシャルな部分を美麗に描いたり、ピカレスクロマンだったり、権力維持の為の近親相姦疑惑など、ヤクザ映画の総決算的な部分が沢山あって見どころ十分な作品でした。物語構造自体は一貫しているのだが、撮り方と演出によって悪になったり聖なるものになったりと変化するのでなかなか怖い映画。それが万人が楽しめるように描かれているので、小難しく説明しか出来ないような似非芸術ではない、本当の芸術ではないかと思いました。

おピュアな読者
クズの本懐』に登場する登場人物って基本的に愛に贅沢言わないんですよね。得られるんなら本物でも偽物でもいい。そんながっついた姿勢に対して『クズの本懐』ってタイトルかなって思うんですけれど、これに同意してしまった時点で読者も本物の愛を欲しているピュアな人格ということになってしまう。横槍メンゴってそういう意味でこのタイトルつけたのかしらん。

今回の『シノハユ』!
走るシーンが沢山あって躍動感のある漫画ですが、その辺は配慮してキャラデザしているのかもしれないとは思った。『咲-Saki-』も『阿知賀』もキャラがもっさりしててオタク臭い子が多かったんだけど『シノハユ』においてはその限りではないのでなぜなんだろうな、と思っていたら、そんな第一次結論に達した。あと、割かし過去に対してみんなドライに振る舞っている気がする。描写の問題かもしらんけど。辛い過去に対して悪意を持って描写されてない。これはあぐり小林立も不幸に執着しない描き方が出来るということで過去の呪いがつきまとう『咲-Saki-』連載においてはとても重要なことだと思う。

今回の『艦隊これ』!
10/19の藤永田にサークル参加してきた。参加された皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。北加賀、中加賀など、大阪の下町感溢れる立地に囲まれたいい会場でした。港もあるし。
ぼくの九月と十月はほぼ全て藤永田の為に動いていたようなものなので、現在、魂が抜けたようになっている。
あー、この後の人生はおまけかなあって感じすらしている。同人誌作るのは結構長年の夢だった。大きな夢が一つ達成できたのでもう思い残すことはない。

同人戦士

BDBOX発売!
観測範囲内での話なのだが最近、アニメのBDBOXの惹句に「十周年記念発売!」とかあって恐れ戦く。おっさんなのでひゃー、十周年経ったのかーみたいな恐怖感を煽られるだけで購買欲はあまり湧かないので勘弁して欲しい。
「アニメ十周年」と同量に「○○さん死去」をよくニュースで見かけるのだが「○○監督死去BOX」とかないのだろうか。不謹慎な気がするが偉人の死去は往々にして再評価する絶好の機会なので、CSとかは割とさらっと○○監督没後何十周年企画、○○監督作品連続放送とか頻繁にやっている気がするのだが。

林檎の戦略
洋楽の事など露程も知らない友人がU2やコールドプレイの名前を口にしたのでAppleの戦略は怖いなと思った。

ファックオフ
ブックオフの全店舗を巡っている有名なひとが「ブックオフに行く客層と古本屋に行く客層は違う」とかpostしているのを見て某大手古本屋の店主が「うちに来るお客さんはブックオフに来るお客さんとは違うんで、ブックオフとかが敵になるっていうのはちょっと違うんですよ」と言っていたのを思い出してぼんやりと考えている。随分と昔にブックオフが台頭しはじめた頃、小売店の店主がブログでブックオフへの愚痴を述べて「ウチの店はこういう対策をとってますよ」みたいな記事を書いているのを読んだ記憶があって、ブックオフは書籍業界の悪、みたいな印象を受けたのだが。いや、僕もブックオフは利用しますよ。

まあ、表層的な部分をとっても古書店にしか置いてないような本はブックオフには置いてないよね。ベストセラーあたりしか本を読む時間がない層がブックオフを頻繁に利用している、みたいな傾向はあるような気はしますが。

ちなみにブックオフにいく客層と古本屋にいく客層っていうのはどこで分水嶺が決まるかというと、古本屋に置いてあるけどブックオフに置いてない本って言われて「ああ、あのあたりの本だな」と咄嗟に思いつくのが古本屋を利用する層で、ブックオフを利用する客層っていうのは「本は大体全部一緒だろ」と考えてる層だとか、欲しい本はブックオフに通っていれば割かし簡単に集まる層だと思えば……すごく乱暴な思考だけど……。
後、サンリオSF文庫やソノラマ海外文庫シリーズが千円以上するのが古本屋で、それらがたまに百均で手に入るのがブックオフだという基準もある。

那智
和歌山に旅行に行ってきた。那智勝浦。太地町。田舎ゆえに高速が途中までしかないので、下の険しい道や海岸線沿いを延々と走っていたイメージが強い。なんだか異常に民宿と「那智黒飴」の看板があったような気がする。那智黒飴って那智の滝から来ているのね。知らんかった。一応重巡那智の名前の元になっているので『艦これ』の聖地と言えんこともない。
ところで、イルカちゃんの捕獲シーズンなのだが、以外と太地町那智勝浦の料理屋ではイルカ料理は皆無で、鯨推しであった。
某店の店主にその辺をさらっと突っ込んでみると、以前は出していたのだが、捕獲反対運動の気運高まった頃からイルカ料理を出すと「食べログ」とか「るるぶ」あたりの評価に反イルカ捕獲らしきひとがあまりよくない点数をつけるので、自然と店の評価が下がってしまい、遂に根負けして出すのを辞めてしまったとか。このあたりを勝利ととるのか、自分の意見を他人に押し付けて他人の行動を無理やり変えさせるのに成功したのかと考えるかで色々ありそうな気はした。
一時期アジア系のドラマを某放送局が流したのに閉口した層が、テレビ局に文句を言うのではなく、スポンサーの石鹸会社の商品の悪口をアマゾンに書きまくったというのが問題になったのを思い出しました。

『くじら博物館』に行ってイルカショーと鯨ショーを観て、イルカ水族館ですごいイルカと鯨に萌えたのだが『くじら博物館』に展示してある鯨の心臓とか鯨の胎児のホルマリン漬けなどに恐れ戦く。あと「くじらの耳くそ」をばーっと年齢順に並べるのもなんだかなあみたいな感じだった。
基本的に昭和に作られた頃から変更がないので感覚が昭和そのままでショックで受けた。僕らが如何に消毒された世界に住んでいるかという証左みたいなものか。
鯨捕獲前の漁師の踊りを記録した映像が流れていたのだが、昭和初期か大正あたりの映像で、そういった「昔の白黒映像」に特有の悪夢感が色濃く、なにか別世界の出来事を観ているようだった。
鯨の身体から取れる色んな材料一覧表があったのだが頭部に「脳油」と表記してあったりしてホルマリン漬けや耳くそ「昔の白黒映像」など、なんだか博物館ではなく見世物小屋みたいな印象を受けた。
外観はボロイのだが中身は意外と生々しい『くじら博物館』。出来ればあの状態と姿勢で運営を続けて欲しい。

社会
あまり社会的な事を書くと色々変なひとがくるので、この辺でやめとく。

キミイロ少女
百合漫画をまた色々買う。未幡の『キミイロ少女』がすごく純度の高い百合でよい。あまりにも狭窄物がないので新書館の『ひらり、』と『ほうかご』を経由して最終的に単行本リリースは一迅社百合姫コミックスってなったのは、あまりにも百合百合しすぎているから売り上げが見込めないので、百合業界大手の百合姫コミックスに単行本発売を委任されたのではないかと勘ぐるくらいに純度が高い。百合ファンにはお勧め。
しかし、百合ブーム的な言説を時折ネットで見かけるけど、女の子同士の機敏をただ延々と描写しているだけの作品っていうのは普通のひとにとっては一冊全部読むのは苦痛なのではないかと思った。大ヒットした『マリみて』でも最低限事件は起こるもんなあ。『悪魔のリドル』も完全にレズ共の祭典だったけど、あれもものすごく色んな要素が入ってたじゃないですか。
文学の古典のバルザックにしろ、ディケンズにしろ、ドフトエフスキーにしろ、映画的なビジュアルを喚起させる描写があって、ばしばし事件が起こるものなあ。

四宮ひまわりちゃんを可愛いと思っているひとの感想。「四宮ひまわりちゃんは可愛い」
ビビッドレッド・オペレーション』全話観た。ちょうおもしろかった。このまま終わらせてはいけないので、新しい敵を設定するんだ! 久しぶりに終わってほしくないアニメだった。

別の可能性の世界って設定はれいちゃんを盛り上げる為のガジェットなので、そのへんをもにょもにょ言うのはどうかと。
あと、女の子たちに世界の命運を全て任せていいのか! その辺も考慮しろよ! って意見もいけてない。
ミクロがマクロに繋がっていくダイナミック感がないっていうのもミーハー的思考を変に崇めて信奉し、神輿に担いでいる感が否めない。
他の同時代の作品がみんなその設定で盛り上がってるんだからお前も自分のアプローチで提示してみろ! みたいな意見で作品を腐すのは作品に対してDV働くようなもんじゃないか? 
文脈を論説の拠り所にしているのなら尚更。
なぜならあかね達の役割は世界の平和を維持するために戦う善のヒロイン、敵は世界を脅威にさらす悪と、ストーリー上完全に決まっているので、この意味で『ビビッドレッド・オペレーション』はヒロイック・ファンタジーの文脈にかちっとハマるからである。「別世界の可能性」も「敵と戦えるのはあかね達」「局所的に行われる戦争」もストーリーに加速度を付ける設定であってそれ以上のものではない。別に代替えが効くものなのだ。れいちゃんは宇宙人でもいいし、あかね達だけが戦う理由や、ミクロ視点からマクロ視点への移行は、例えば今使用されている兵器は全て示現エンジンの性能にはかなわないので、国連は一時的にあかね達に任務を委託していて、後から参戦する予定である、みたいにいくらでも付属可能な範囲内だ。むしろ少女たちに世界の命運云々を言い出すと、ヒロイック・ファンタジーの文脈の論点から作品自体が外れてしまう。
素人のぼくでもこれくらい思いつくんだから、設定の時点で製作者達はエゴを後回しにして作品にすべてを捧げている。ヒロイック・ファンタジーの文脈をすごく大事に扱っていたはずだ。だとするとヒロイック・ファンタジーの文脈から論点をずらして我田引水な持論を広げている時点で、むしろ文句を言っているひとはヒロイック・ファンタジーの文脈をないがしろにしているんじゃないか?

もうチョイ追及すると『ビビッドレッド・オペレーション』は最初から少女が世界を救うとか、物語のダイナミクスや別世界の可能性をメインテーマにして問題提起をしている訳ではない。それは第一話を観ればはっきり分かるはずだ。一話で製作者はちゃんと意思表示をしている。敵に苦戦するあかね達が国連軍かなにかの戦闘機を軽く持ち上げて空母の滑走路に着地させるシーンがあるが、この時点で、少女に世界の命運をなんちゃら、一般市民がヒーローになる可能性うんたらは入る余地がない。味方の戦闘機を軽く扱えるあかね達でさえ苦戦する敵なのだから、ここに他のヒーローが入る余地はない。ついでに最終回ではバトンタッチのように合体変身のシーンが連続する。この時点で完全に「少女たちの局地的な戦争」と明言し、体現している。こういう映画や漫画、アニメを鑑賞する際に必要不可欠な「映像やセリフから何かを読み取る」行為を完全にすっとばして論説を繰り広げられても微妙ではある。
そこら辺の最低限の手間を惜しんで映像から何も読まずに単に散りばめられた要素に自分が勝手に反応したからといって「その部分を掘り下げていない。分かっていない。時代の要請に応えていない」というのは「広島のお好み焼き屋に来たのに広島焼きが旨くなかった。お前の店は分かっていない」とかというのと似たり寄ったりで、いわばいいがかりみたいなものだ。この流れでいくと例えば広島のお好み焼き屋は全て広島焼きが旨くなるように営業努力しないといけない事になる。そりゃそういう事を(遠まわしにでも)言えば怒る人は怒ると思うよ。それとも文句を言っているひとは広島のお好み焼き屋は全て広島お好み焼きを上手く作れように努力するのが当然だとでも思っているのか? 
それはあまりにも乱暴だ。

論点から外れているのであまり詳しくは書かないけど、ついでに言っておく。僕は広島が好きなので広島を例に挙げているが、宮島近辺では広島焼きがメインではなく、牡蠣がはいったやつとか、ちょっとそこから離れると店のオリジナルとか色々あって、尾道方面に行くと、今度はお好み焼きがメインではなく、尾道ラーメンがメインになる。広島だからと言って広島の全店舗のお好み焼き屋が広島お好み焼きを美味しく作るのに集中している訳ではないし、むしろそういうのってちょっとおかしいよね? それよりこういうのが多様性ってやつじゃないの?

Gaius_Petronius氏のビビオペに対するブログ記事があまりにも自分の価値観を絶対視して物事の正否を判断しているのでチト腹が立った。でももう、この話題も旬を過ぎているし、何か月も前の記事に色々言うのもちょっとキモいし、粘着質で陰湿ではあるのでこれ以上追及はしない。
それから氏の言っている事は極めて不明瞭でよく分からないというのが正直な感想でもある。だからぼくの論説自体も的外れなのかもしれない。記事を読むかぎり『テキトーに書いた言葉なんで、意味はない』と明言しているので氏も自分が何を書いているのかよく把握していないようだ。

確かにビビオペにも問題点はある。れいの正体云々からの展開は急ぎ過で視聴者をおいてけぼりにする可能性がある。解消していない各キャラの過去の問題みたいなものもある。フェチズムにこだわりすぎてないがしろになっている箇所が目立ち、ぼくのように楽しめる層もいるけど、そこが面白くなかったひともいるだろう。でも氏のビビオペに対する記事は最低限必要である問題点の指摘をこれっぽっちも行わず、安全地帯からビビオペを貶す文章に自分の不満だけをうじうじと便乗させている時点で、読む人を酷く不快にさせる以外には全くなんの役にも立っていない。(問題点もひっくるめて)ビビオペが面白かったぼくの立場からすればくだらんとしかいいようがない。まあ、無視すればそれで済むだけの話なんだけど。

おしりアニメらしいけど、ぼく的にはひまわりちゃんアニメでした。ううっ、グーグルで「ビビッドレッド・オペレーション」を検索すると「ひまわり」がサジェストされるぞ……。ぼくだけじゃないのか……。おしりはむしろ可愛く小さくて、ひまわりちゃんのおっぱいが魅力的なので「ひまわりおっぱい」アニメだ……。

うろぶちげんのツイッターアイコン
ドニー・ダーコ』を遂に観る。13年間の間に勝手にぼくがハードルをあげていたので、いざ実物を鑑賞するとそれほどでもないっていうか……いや! おもしろくはあります。110分、目が離せませんでした。

前半はユーモアで理知的で理不尽で、エロティックな会話と展開が連続するのでイギリス映画っぽいのだが、後半から(製作者のドリュー・バリモアがヒステリーを起こして大声で怒鳴り出すあたりから)段々90年代、ゼロ年代アメリカ映画っぽくなる。周囲が間違っているのか、自分がおかしいのか、次第に分からなくなって、でも孤独な怒りだけはある。それで破壊願望があるんだけど、それがまだ自己破壊願望に繋がっていた頃のアメリカ。当時のナイン・インチ・ネイルズとかマリリン・マンソンとかKornあたりをリアルタイムで聞いていた人にはこれで大体伝わるかと……(甘え)。

ウサギのフランクって虚淵玄が一時期ツイッターアイコンに使用してたよね。
うさぎの着ぐるみを着たまどかがほむらの枕元で「暁美ほむら。世界の終わりまで後28日と6時間42分12秒しかないのだ」って言ってる! とかそんなキモい見方も出来るよ。

ウリの一つに「劇中に流れる80年代UKのニューウェーブの歌詞はシーンと密接につながっている!」とかあって彼女とのセックスの最中にジョイ・デヴィジョンとかが流れたりするのだがぼくの購入したディスクの日本語字幕では歌詞の日本語訳は一切表示されないのでこれ意味ねえよなあと思った。
キック・アス』も劇中歌とシーンは関係があるのだが、あれも歌詞の日本語訳がなくて意味ないよなあ。
まだ見てないけど『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』ではきちんと劇中歌の歌詞の日本語訳が表示されるらしい。

ケッコンカッコユリ
艦隊これくしょんの同人誌、ZAZENBEAT千尋さんの『第九水雷戦隊ケ号作戦』がすごい面白かった。というか同人誌だなあって思った。
不知火と摩耶、鬼怒がサルガッソーで合流して脱出する為に敵と戦うんだけど、最初の一ページから最後の三十五ページまでずっと戦闘シーン。
格好いい。美形の不知火と摩耶がメインなので、自然と絵面的にはよくなるんだけど、それでも千尋さんの絵はエロくて魅力的で商業レベル。でも最初から最後まで戦闘なんて商業ではありえないし、千尋さんの脳内設定艦これに規準しているし、そもそも必要最低限の情報だけで戦闘シーンのみ描いている時点で『艦隊これくしょん』というコンテンツが共通文化として存在してないとダメなので、やっぱり商業は無理。でも作画もストーリーも商業レベルっていう、なんていうのかこれは同人でしか出来ないよなあって、すごく久しぶりにショックを受けた。
千尋さんもノリノリで描いているから、絵が綺麗で躍動感があって、細かくて、迫力がある。可愛いし。作画コストを度外視していてこれぞ同人! って感じですわ。終盤で不知火が魚雷再装填するシーンが滅茶苦茶かっこいい。
これがまた横からぐちぐち口を出されたらこういうものは描けないんじゃないかって気はすごくした。

人を選ぶ作品だとは思います。でもぼくは読みやすくて受け入れやすい作品っていうのは、一般受けしやすいけれど、それよりもっと読みやすくて受け入れやすいものが登場するとお客は全部そっちにいっちゃうと思っています。文学が映画に負けて、映画がテレビに負けて、テレビがインターネットに負けるとか、一般書籍がラノベに(売り上げで)負けるとかっていうのはこういうのだと思う。
で、ぼくとしてはとっつきにくくてもいいから、そのメディアや作家にしか出来ないことをやっていれば、自然と土壌は完成すると思っている。でもそれは玄人受けとか、マニア向けになってしまう。売り上げの採算が取れないし、企業が運営するには問題がある。
だから同人だなあって話です。
そういう閉じた環境でいいのか! というのはまた別の問題で、同人業界内の循環でそういう土壌が豊かになって、そういう時期が訪れた時にまた考えればいいんじゃない?

こうして同人誌に対して同人誌でリスペクトするという沼が完成するのだ。でもそれはそれで同人誌業界の間口が広がったり、作家そのものが豊かになったりするきっかけなのでとてもよいと思います。

今回の『シノハユ』!
ゆえちゃんが親に言う「わたしはオタク」っていう言い方がすごく現代っ子っぽいぞ!

今回の『艦これ』!
2-4で浦風ドロップを目指して頑張っていたら弥生が二人も生まれた。轟沈してしまった大井っちの生まれ変わりと信じたいので、強くなるまでは一切実戦に出さず、箱入り娘として延々と演習という檻のなかで育てていきたい。

妖神グルメ『だがしかし』

エンタメという分野は受け手を第一に作られている。故に煽情的で下品であるとか、厨二であるとか、もしくは俺TUEEEでしょwwwとか見下されながらもヒットを飛ばしているものが沢山ある。作者が入念に全力を賭けて作っているからである。それも舞台裏で。こそこそと。観客の目に映らないように。
そしてあとがきでは愛想を振りまき、読者や視聴者より腰を落とす。

「気に入りましたでしょうか?」「彼らの冒険はどうだったでしょうか?」「これから主人公と一緒にビッグになっていこうと思うのでよろしくお願いします!」

面白い物語を見せつけられて機嫌がいい読者や視聴者はこの時点で完全にお釈迦様の掌の上である。さらに作者は頭を下げているのだ。
「これは物語を更新している!」「零年代のサヴァイヴァリズム!」調子に乗って喋り倒す。
あるいはもっと図に乗った受け手はこうも言う。「ここはさ〜もっとこうしたほうがいいんじゃねえの〜」「これはちょっとおかしいんじゃねえの〜」

こんな事をいう時点で完全に踊らされている。何故なら本当にどうしようもない作品だと怒りが湧くか、読んだり視聴を続けるのが苦痛になって無視するしかないからである。
こうなるといやいやながらも消化してせめて珍作としてツイッターかブログ、タンブラーかnoteあたりでダイジェストを書いていじり倒すしか手がない。

菊池秀行や夢枕獏は努力を隠さない自画自賛タイプである。あとがきには必ず「これで面白くないはずがない」だとか「自分で読み返して傑作だと思った」だとか平気で書く。翻訳家の平井呈一もそんな感じだったと思う。デニス・ホイトリーの『黒魔団』を翻訳し出版社に持って行った時に「いや〜読み返してみて面白いし、俺の翻訳もすげえよな」とか若い編集者にそんな事を言っていたような気がする。


少年サンデーコミックス。著者、コトヤマの『だがしかし』である。上記のようなものを書いていながら、僕が語り出すと言う事は、面白いのだ。エンタメとして。全力で。
踊れ踊れ!

親父が経営する田舎の駄菓子屋の一人息子ココノツ。彼には夢があった。漫画家になって田舎を脱出するのだ。しかし彼は自覚こそないものの世界を改変しかねない能力の持ち主だった。彼の能力は駄菓子屋の経営能力。
親父は息子の才能を見抜き、駄菓子屋の跡を継がせようとする。しかしココノツは激しく拒否する。そこへある日、謎の美少女が駄菓子屋に訪れる。
少女の名前は枝垂ほたる。巨大製菓メーカー、枝垂カンパニーの社長の娘である。何故、ほたるはこんな田舎の駄菓子屋にやってきたのか? それも見目麗しきおっぱいの大きな美少女の身一つで……?

要するに駄菓子のグルメ漫画である。延々と駄菓子の講釈をほたると親父が繰り広げ、ココノツが突っ込む。それだけだ
しかし何故かこの漫画はとても面白い……! 読んでいて気持ちがいいのだ!

台詞回しがうまい。必要最小限度に抑えてある上にリズム感がよい。この漫画、駄菓子の薀蓄が大量にあるのでコマがネームで埋まってしまうことがあるのだが苦痛にならない。重複する言葉を避けたり、必要以上に難解な言葉は避けて分かりやすくエモーショナルに喋っているからだ。

コマがうまい。ネームで埋まりがちなコマではあるが、そこからキャラが排除されることはない、むしろ薀蓄を喋っている間は無駄なセリフは排除し、キャラの描写で心理や状況を説明している。このあたりはネームに限らず、衣装や「駄菓子」、あるいは舞台と密接に結びついている。セリフや振る舞いが生き生きとしているので「ああ〜こいつだったら、こんなテンションと身振りで、こんな場所でこんな事いうかもね〜」みたいな雰囲気に満ちている。キャラ立ちが尋常ではない

ケレンミとしたたかさがある。お菓子をおっさん顔に擬人化して解説したりする。単純に笑える。一方でおっぱいの大きなほたるの胸に溶けたアイスを垂らして胸をスケさせたり、胸の薄いツンデレの幼馴染みをだして可愛くデレさせたりする。幼馴染の乳首が微妙に隠れたシャワーシーンもある。
なんだかんだいってもおっぱいは強い。男も女もおっぱいは好きだ。男なら尚更だ。おっぱいを少年少女の読み物に出すのはけしからんと言いながらも、お前だって結婚して子供産んで「いい大人」を演じる前は彼女のおっぱいを揉んで子作りしたはずである。その前は絶対おっぱい写真やおっぱい映像でシコっていたはずである。よもや下品なポルノを避けてバニヤンルキアノスでシコっていた訳ではあるまい。
おっぱい否定は現実を直視していないだけである。偉そうに『まどマギ』でマミさんの行為を貶そうが彼女のおっぱい同人誌を読んでいるか、あるいはおっぱいを揉む妄想くらいはしている筈だ。まどかを否定しようが、ほむらを否定しようが、いちゃいちゃして胸元を手で弄り、乳首を舐めあい激しく情を交わして口付を繰り返しながら呂律の回らない声で互いの名前を連呼し合う二人を見てなにか感じるものがあった筈だ。
……あれ、そういうシーンはなかったっけ……。

絵のタッチも独特で僕は空恐ろしいものをコトヤマから感じる。このセリフのセンスで絶妙な構図を駆使し、キャラ立ちの上手さでこのタッチ。他のジャンル、例えばアクション漫画をやらせてもまず、外れるような真似はしないはずだ。荒いタッチは暴力性を孕んでいる。この暴力性は『だがしかし』ではギャグの病的なテンションとエロスに微妙なバランスで結びついている。『だがしかし』は汗をよくかく。熱弁を振るい、顔が上気し湯気がほんのりと立ち昇るかのようだ。
この臭い立つような体液はエロティシズムと化して読者との距離を縮める役割を果たす。

だがコトヤマはアクション漫画ではなく、駄菓子グルメ漫画を描くことを選んだ。ここには何か理由があるのかもしれない。ないのかもしれない。
コトヤマの技術ならもっとハイブロウな漫画も描ける。しかし彼は全力でエンタメを書くことを選んだ。なぜなのか。コトヤマと彼の担当にしか分からない。
コトヤマは一巻のコメントでこう述べる。

『初の単行本なので嬉しさと緊張と色んな気持ちが混ざって変な感じです』と謙虚に腰を下げる。一方で『『だがしかし』、なかなか良いタイトルなのでは? と思っています』と自画自賛する。コトヤマの本当の気持ちは誰にも分からない。恍惚と不安と、誇りと、他にまだなにかがコメントに隠れているような気がする。

それがなにか分からない。

ただ一つ言えるのは漫画界に貴重な人材がまた一人増えたということである。

初版の初動数は少なかったようである。僕も発売日は本屋を梯子した。しかし十月頭の現在、早くも重版が決定している。

ところでこの漫画、少年サンデーコミックスなのでサイズが新書サイズで小さい。これが欠点である。僕はこれが非常に悔しいというか不満だ。
値段が安いのだが僕は『だがしかし』をカネを払ってもいいので大きなサイズで読みたい。せめて18 x 12.8 x 2のサイズが欲しい。『だがしかし』はキャラの動きに躍動感があるので、新書サイズだと目線が走り過ぎて本の上から滑り落ちることがあって読んでいて時々イラついた。
後、エロティックでバイオレントな魅力的な絵柄なのに、このサイズでは満喫できない。これもじれったくて滅茶苦茶イライラした。
これはもうサンデーを購読するしか手はないのかもしれない。
そんな魅力に溢れた痛快なエンターテイメント漫画である。

豪快さんだっ! 完全版 (河出文庫)

豪快さんだっ! 完全版 (河出文庫)

ドカコック

ドカコック

OH!MYコンブ 1 (コミックボンボン)

OH!MYコンブ 1 (コミックボンボン)

刃物バット

『新しき世界』
冒頭でいかにもな雰囲気のヤクザが捜査官が潜んでいる車の窓ガラスをゴルフクラブでブチ抜いてガン飛ばしていたら、矢張りいかにもな顔の刑事が出てきてガンの飛ばし合いになった時点で名作認定。

僕は田舎に住んでるんで上映している映画館が近場になくて、観たくとも観れず、そうしている間にもツイッターのTLで映画観て来たひとがすごいハードル上げていったのですが、それでもまだ抗えない魅力があったのでBDを待ちに待っていたのです。『県警対組織暴力』とかも最初に菅原文太がチンピラの車に蹴りいれて「わりゃ、なにやっとんじゃ」みたいなシーンみた瞬間、あ、名作、みたいな感じだったし『ドミノ』もミッキー・ロークが葉巻咥えてエドガー・ラミレスとキーナ・ナイトレイと「ゲハハハ」みたいな怖い笑い顔浮かべてた瞬間、あ、名作だ、みたいな感じだったし『アウトレイジ』『アウトレイジ・ビヨンド』もめっちゃ高そうな車に乗ってるスーツ姿の北野武とか椎名桔平とか加瀬とかの姿観た瞬間に、あ、名作って思ったんですけど『新しき世界』も完全にこっち系の顔が揃っていて、あ、名作だ、みたいな感じです。ノワールものに分類されるんでしょうけど、完全にヤクザ映画。

飯を食ってるシーンが多いんですけど、ジョニー・トーみたいに一緒に料理して仲良く食卓囲んで男の友情! みたいな感じじゃなくて狭い飯屋とかで下品な冗談交えながら陰謀が成功するだのしないだの好き勝手放題言い合うとか、部下を徹底的に言葉でいじり倒すとか、この辺り、タランティーノのノリに近い。

巨大組織に膨れ上がった三合会も負けず劣らずの韓国暴力団組織ゴールド・ムーン。あまりにも巨大になり過ぎた為に警察も有効な抑止力が見つからず、情報を入手する為に捜査官を潜入させる。ところがゴールド・ムーンのトップが死亡し相続者争いが発生。だが巨大になり過ぎた組織内では韓国系や華僑系、朝鮮族がごちゃ混ぜになっている為にただでさえ複雑な権力構造がより一層混乱を来していた。華僑系の捜査官はとりあえず自分と同じ大陸系のボンボンの世話をしつつ、組織の動向を探る。一方、警察本部はトップ死亡を契機と見做し、韓国系暴力団組織ゴールド・ムーンを完全掌握する「新世界」作戦を発動させる。作戦成功の鍵は長い潜伏期間を経てゴールド・ムーンに独自のコネクションと地位を築いた捜査官。警察は捜査官に命じていた潜入捜査を強制的に延長するしかない。警察もヤクザまがいの手段を取らざる得なくなる。

主人公、潜入捜査官役のイ・ジョンジェ、ジョンジェの上司役のチェ・ミンシク、ジョンジェと同じ大陸系の組織のボンボン役のファン・ジョンミン。この三人が特にいい。
ジョンジェは神経質そうなどこか鬱積が溜まった顔をずっとしてるし、ミンシクは本当にこいつ、人懐っこい渋い顔して悪い事するんですよ。ジョンミンのボンボンがね、これが中盤から本性を見せ始めて重要な役になるんだけど、アホなボンボンから段々憎めなくなってくるのが本当にいい。

百三十分あるのですが、苦痛になりませんでした。名作でしょう。ドライな殺しありの、人情ありの、裏切りありの、両手で掬えそうな程の流血に塗れての泥沼の殺し合いありの、心が闇に踏み込んでしまった人間故にさらなるに闇に染まらざる得ない展開はノワール。好み。相手を攻撃する際は銃器よりは鈍器や刃物の使用率が高いのは痺れる。

マイレージ、マイライフ
実は僕は『ショーシャンクの空に』を観たことがない! ありますよね。こういう「名作」の部類に入ってて「この道を楽しみたいのならこれ押さえたほうがいいよ!」みたいな作品が! しかしいまいちタイミングを逃してしまったり「名作」という言葉が逆に足かせとなって「ま……後でいいか……」みたいにどんどん後回しになってるやつ! アニメだと08小隊とか、ゲームだとサクラ大戦とか!
……という訳で観た。リストラ通告人を職業とし、世界各地を巡ってはリストラ通告をしていくジョークル。「我が家」や「家族」「親友」「恋人」といったものとの関係が希薄な彼の唯一の楽しみは飛行機を利用する度に溜まっていくレージをひたすら蓄積していくこと。1000万マイル溜まると、飛行機に1000万マイル達成者として名前を残し、フィンチ機長とサシで会話が出来るのだ! 甘いラブロマンスを軸にリストラ通告人という職業にありがちな暗いムードをフラットで軽い雰囲気と映像でサラっと料理しつつ、ユーモアも交えて物語は進展する。なんだか「ラブロマンスかよ〜」と思い込んでいたら最後の二十分でジョークルが「ま、いっか」「仕方ねえし」みたいな感じでないがしろにしてきた事が全て襲ってくるのだ! なんだよ〜結局リア充とモテが勝つのかよ〜みたいな感慨が残るけど、そういう回答は監督の回答だし、それだけにジョークルが最後にあの立場で終盤を迎えるからね。

ありのままを出したら嫌われた人が出てくる映画
アナ雪観た。相変わらずディズニーアニメは展開早い。ところで有名なあの「Let It Go Let It Go」は字幕だと「これでいいの かまわない」なのよね。吹き替えが「ありのーままでー」なのよ。これって重要なシーンだし、多分、映画会社も命賭けたと思うので翻訳は必死になったのでは? 結果として日本語で歌う「Let It Go(レリゴー)」は韻を踏む事を最重要課題として「ありのー」と翻訳したのかと思いました。歌パートは一応ミュージカル要素ですよね。

いい話。百合とか言えばそうなんだが、僕は特にそういう事は思わなかった。いや、普通の王道だなって感じで……。それよりも観ていて思ったのが『パシフィック・リム』の時もそうだったんだけど、子供の頃、夏休みの昼時に地方局が時々ハリーハウゼンの映画とか流してたのよね。あと最近は観なくなったけど金曜の夜は劇場版ドラえもん。そういうのを観ていた時の懐かしい気分を思い出してしまいました。部屋にはクーラーの冷媒ガスの臭いがうっすら漂ってて、西瓜を食べながら画面に魅入る。ディズ二ー観るといっつもそんな気分になる。

鶴翼
一巻。駆逐艦の陽炎抜錨、空母の『鶴翼の絆』という手順で読み始めた。うう、これはなあ……全然悪くないんだけど、前半がダルいと思った。
ノベライズを書いているのは内田弘樹。このひと、ミリタリのひとなのです。という訳でしょっぱなから第二次世界大戦の薀蓄がどんどん入るので、嬉しい人には嬉しいんだろうけれど、本編とはあまり関係のない情報がでてきたりするので、その都度、ちょっと鼻をくじかれる感じ。抜錨が抜群に面白いと感じた要素に「ミリタリの必要な情報は、本編と関連があるときだけ」っていうのがあって、それでストレスがなかったんだけど。

後、個人的に内田設定の一部が好きじゃなかった。攻撃を受けると菱形のバリアが展開されたり、赤城さんや加賀さんの艦載機発艦方法は弓矢を撃つとこれが艦爆機になったり艦攻機になったりするんだよね。いや、これは僕の脳内設定と違うって意味で好きじゃないってことです。アニメ版のPVを観る限りでは艦載機発進シーンは内田先生の発想が採用される、というか公式の想定していた設定に内田設定が一番近いんでしょう。

後半は見事。瑞鶴が主人公なんだけれど、後半では第二次世界大戦の瑞鶴の戦歴や性能、さらに内田弘樹の艦これ設定とうまく絡んでこれはミリタリ書いた人じゃないと書けないよな、と思ってしまった。

筑地俊彦の抜錨と内田弘樹の鶴翼しか読んでないんだけれど、艦これノベライズはシェアワールドノベルとしてはレベル高い気がする。ww2が下地になってるからその辺、書きやすい部分もあると思うんだけれど、内田と筑地の個性が見事に浮き彫りになってて、この二人を読み比べると面白い。

トマト嫌い。工場好き。
ビビオペを観はじめた。お姉さんとかももちろん大好きなんだけど、やっぱり俺ってどっかでロリコンなのかなあ。このアニメ、凄い好み。
トマト嫌いがバレたらあかねに嫌われると思い込んでいたあおいちゃんの心の闇は深そう。ひまわりちゃんとれいちゃんの闇は理由あるのでわからんでもないが、生来持っていただけにあおいちゃんは……。わかばがヘタレズでよし。 多分、この娘はひまわりちゃんにどんどん貢いでいくんだろうなあ……。貢ぐ量=愛情の量と次第に錯覚していくわかばちゃんの立派なヘタレズとしての未来が視えます! ひまわりちゃんの工場萌えは分からんでもない。実は僕も海岸沿いに並ぶ深夜の工場周辺をうろついたり、でかい煙突から炎が噴き上がっていると興奮して、恥ずかしい話だが、あの炎が噴き上がる瞬間を写真に収められんかとカメラを持って深夜の工場の入り口に潜んでいたことがある。