ひとりっ子『となりのロボット』

となりのロボット

となりのロボット

西UKOの『となりのロボット』がすごく面白かった。でもネットで検索すると結構な評価がもう出ていますし、去年の作品でもあります。今更特に取り上げて語り辛いです。
ただ、語りたい欲はあるので語らせてください。幸いにしてわたしの語る「ポイント」はまだ語られていないと思うので。

『となりのロボット』は「気付き」がすごく重要なポイントの百合漫画です。人間のチカちゃんとロボットのヒロちゃん。この女の子二人が恋をします。
一見すると王道もの展開を百合に移植しただけに思えるかもしれませんが、女の子同士の恋だから、という以前にヒロちゃんはロボットです。つまりここで百合という概念を一度分解される必要をこの漫画は気付かせます。同性同士の恋だから「恋」を見直そう、ではなくて、ロボットと人間の恋なんだから「恋」という概念そのものを見直さないといけない設定なんです。これが「気付かされた」感が強い。

さらにチカちゃんはヒロちゃんをロボットとして扱いますが、基本、チカちゃんはヒロちゃんと「人間として接しようとしている」。
同性だから女の子同士として接するとかじゃなくて、もっと基本的なこと。人間として接する。
人間として接するというのは異性間恋愛でも同性恋愛でも基本中の基本です。
「恋の相手と人間として接する」という時としてわたしたちが人間であるが故にその傲慢さから忘れがちなこの概念は、ヒロちゃんがロボットであるが故に頻繁に読者に「気付き」を促します。

人間として接するとは相手を敬うということです。すごく当たり前のことですがわたしたちは忘れがちです。わたしの話を聞いてくれない。あなたは主張ばかりでなにがしたいの? 愚痴ばっかりであなたは本気で話し合うつもりはあるの? 時にはこれらは感情論に発展して話し合い自体の収集がつかなくなります。こういう負の感情は一見するとよくない感情で話合いが必要になった時には邪魔なものかもしれません。でも、これは人間対人間のみで発生する感情です。もし相手が自分の思うとおりに動いてくれたらそれは人間と付き合っているとはわたしにはとても思えません。だからこういう相手の負の側面も尊重してこその人間対人間でしょう。逆に言えば負の側面があるからこそ、人間対人間なのだと思います。
チカちゃんは「相手が思い通りに動かない」ことを前提にヒロちゃんと付き合います。なにしろヒロちゃんはロボットですから。
この論理のパラドックスはロボットであるヒロちゃんと付き合う、という前提がないと発生しません。そしてこのパラドックスはヒロちゃんがロボットであるがゆえの「気付き」のひとつと言えるでしょう。

チカちゃんは思い込んだら一途な女の子として描かれていますが、それだけにとどまらず、異常なまでに繊細な女性に映るのは常にヒロちゃんと人間として付き合おうとする描写が挟まれるからだと思います。

でも哀しいかなヒロちゃんはロボットなのです。チカちゃんが人間として扱おうとしても、恋もなにもかもが処理は全てデータとして扱われます。これは絶対にゆるぎません。
なにかの切っ掛けでふとヒロちゃんに心が芽生える。そういう設定はドライに排除されています。

チカちゃん以外のヒロちゃん関係者はヒロちゃんを徹頭徹尾データの集合体として扱います。またチカちゃんも「キスの実験」をする甘いシュチュエーションにおいてもヒロちゃんに目隠しを忘れません。普通に考えてロボットの行動は記録されているからです。チカちゃんもヒロちゃんと人間として付き合いたいのにどうしてもロボットだと「気付かされて」しまうんです。

非常に即物的にヒロちゃんが扱われる瞬間が物語を読んでいて引き込まれる寸前に突然、読者の前に何の前触れもなく現れるのがこの漫画の特徴です。その瞬間にまたわたしたちは「気付かされてしまう」のです。
この漫画は甘美な恋の瞬間の手前で「ヒロはロボットだ。思い出せ。どうすればいいか考えろ」と不意に読者を促すのです。

しかし陰惨になりがちな設定でありながらこの漫画はポジティブな感情を読み手に促します。読んでいてすごく気持ちがいい。西UKOのポップでキャッチーな絵のタッチに寄る所も大きいのですが、ヒロちゃんもチカちゃんも悲惨な境遇下にあってもネガティブな感情はなるべく抑えているからでしょう。ネタバレを少しすると、泣くシーンは本編中二回だけです。あとはヒロもチカも常に笑顔です。

この漫画はヒロとチカの一人称が一話ごとに交互に連続します。これがヒロとチカのアイデンティティーの変化をうまく捉えています。人間は相互の関係にある以上、影響し続けて精神は成長します。人間のチカはともかくヒロはなにをもって成長とするのか。ロボットであるヒロは基本的に感情を持ちません。では何を軸に成長(学習)していくのか。このギミックは恋愛漫画ならではです。これがおそらくこの漫画が即物的になってしまわずエモーショナルである理由だと思います。

「百合」と「SF」という設定を利用して恋を見直す。わたしは強烈なショックを受けました。とにかく設定の隙間を利用した「気付き」がうまいのです。
無論、この作品にも穴はあって「SF」という設定を「恋」に落とし込もうとするあまりSFの美味しいとこどりになっている部分も多々あります。ここはSFとして扱うのに、なぜここはスルー? という部分もあります。
しかしわたしはこの漫画を読んで「百合作家に違う世代が出てきた」と思いました。大げさな言い方かもしれません。西UKOにとってもこの作品は特別なのかもしれません。もう二度とこのクラスの漫画は描けないのかもしれません。でもわたしはこの漫画に新鮮な衝撃と「気付き」を受けました。
それだけでもうこの漫画は役目を十分に果たしているのではないのでしょうか。あとは未読の読者がこの漫画を読むだけなのです。

人間の温かく湿った、暗くて一番深く、そしてとても柔らかくて安心する場所をこの漫画は備えていると思います。ストーリーテーリングも西UKOの絵柄も、全て含めて。
そして驚くべきことに、そんな原初的な感情を促すこの漫画は、ロボットと人間の恋を描いた百合作品なのです。

この二人の恋と愛は永遠に続く。そんな予感がします。なにしろヒロはメンテナンスさえ定期的に受けていれば半永久的に稼働し続けるロボットなのですから。
チカが死んでしまってヒロだけが世界から取り残されても、この二人の恋は途切れることなく続くのだと思います。

ひとりっ子

ひとりっ子

オルガスマシン

オルガスマシン

戦艦大和の最期


二月後半は布団で寝ていたことと、仕事をやっていたこと、艦これのトラック泊地以外記憶にない。気が付いたら三月になっていた。

萌え格闘技
チョコレート・ファイター』などを観る。ちょい前に『チョコレート・ソルジャー』を先に観たのだが、えらくアクションに重みがないというか、軽い格闘技だなと思って自分の「つまらん」フォルダに入っていたのだが『チョコレート・ファイター』を観て納得した。ぼくはトニー・ジャーみたいな重いアクションを期待していたのだが、ジージャー・ヤーニンは技巧中心なのである。特に足蹴りが異常に痛そうとかそういうのではなく、曲芸師的なトリッキーなアクションが彼女の売りなのだ。ノリはジャッキー・チェンのノリに近い。ありていの道具や地形的特徴を生かして敵を攪乱しつつダウンさせる、という技が多いです。
ピンゲーオは大分力を入れているというか、ジャーが金を稼いでくれたのもあると思うんだけど、阿部寛がハジキ持って登場したり、セットも日本なのかタイなのかよく分からないなど「見せ場」的要素が異常に多い。
基本的に伏線以外の余計な部分はザクザク切っていくディズニー映画っぽい残酷な脚本。
ジージャー・ヤーニンのDVDは最初は字幕のみなのだが、徐々に吹き替えが付属されてジージャーの声が小清水だったりするのは嬉しい配慮。小清水って『スイプリ』とか観てると思うんだけど、割と強気な女の子やらせたらタチっていうか男役も兼任できてしまうのよな。微妙に誤解を呼びそうな表現だが、スイプリ好きの特に百合クラスタにはこの感覚は伝わるのではないのか(伝われ)

任侠もの
『日本任侠道-激突編-』任侠ものから『幸せの黄色いハンカチ』に行って海外進出は『ブラックレイン』と高倉健の俳優人生は活躍の度合いに反して、実はそんなにブレていないことが分かる。こういうのを観てた観客の前に深作欣二が現れて『実録』と銘打ち、狂犬のように振る舞われた当時の観客のショック度合いとはいかに。倫理観が高い映画。

ソビエトっぽい。
グランド・ブダペスト・ホテル』圧倒的な映像の高貴と退廃、ユーモアの美。映像のみならずヨーロッパの仮想国にある高級ホテルの支配人や従業員達が戦争によって国家解体の影響を受けて衰退していくストーリーもビジュアルに大きく貢献しているように思う。Sランク級の映画。

ほぼツイッターの感想丸々コピペ。だって他に思いつかんよ。いや。いい映画を観ました。

山田風太郎とか佐藤亜紀とかの歴史の節目に翻弄される登場人物っていうのに極端に弱いのでSランクです。

怪奇全集
アニメ版『偽物語』をクリア。西尾維新の原作はあんまり読んだことないんだけど、割と序盤に「これは伏線になるな」っていう台詞や行動が頻出するので、今回もそうかと思ってたんだけど、あまりそういう事はなかった。これからがそうなのかもしれんけど。西尾維新ってプロットきっちり切ってる感じするよね。
京極夏彦はプロットを書いたりしないらしい。本当だろうか。

今回の艦これ!
艦隊これくしょん九話で提督の死にショックを受けている視聴者がいる反面、長門さんたちは割とフランクに事態を受け止めていてネット上では皆「???」みたいな感じなんだけど、彼女たちがああいう行動に出るのは不思議でもないんでもない。彼女たちにとってはとっくに通過した道なのだ!
おやおや、全国の提督さん。お前たちはまだそんなところに居るのかい?

シノハユ』!
はやりんのママはオギャリティ、バブみが高い。全世界が赦してくれなくても、はやりママだけはぼくのことを赦してくれそうな気がする。

尊い
どのくらい前だったか失念したのだが、そのころぼくのツイッターTLでは「シコリティ」なる単語が登場し、皆、争うように使っていたのだが、リアル面ではオタクの飲み会などで「シコリティ」を使うと「そんな下品な単語はねーわ」と非難轟々であった。
現在、皆普通に「シコリティ」を使用しており、その内「オギャリティ」「バブみ」も浸透するものと思われる。
ヴァーチャル世界が現実世界を侵食しているこの現状は、SF的状況、あるいはファンタジーの文脈でもある「フィクションがリアルを超える」と形容してもおかしくないはずだ。SFやファンタジーは逃避文学ではない。甘い砂糖菓子ではなく、恐ろしい文学なのだ。

百合!
あっ、今回の百合ですか。『小百合さんの妹は天使』とかどうすか。華やかな内容と、きめ細やかな絵のタッチでぼくは全然いいんだけど。ガチ百合だけど百合姫ブランドではなくメディアファクトリーです。メディアファクトリーは過去に『ささめきこと』を排出しており現在も『ひまわりさん』がある。
十三年振りに再会した美少女妹が冴えなくイケていないお姉さんの日常にやってきます。妹は純真無垢なんだけど、無垢ゆえの行動に生真面目を装っているムッツリスケベ型のお姉さんがかなり振り回される話です。

百合とKindle
百合に限らんのだけど、最新刊は書店に並んでいるのだが、肝心の既刊はすでに品切れ重版予定なし、ただしKindle販売はしてますよ、というのが最近アマゾンでよく遭遇する現象で、これからはこういうのはどんどん加速していくんだろうな。

グッドデザインショー

グッドデザインショー
スタートレック』09年版。グッドデザインショー。テレビ版開始が1966年だから大雑把に計算しても四十年経過している作品。
当然四十年も経過してりゃハードウェアやデバイスなんかが変更されている訳です。システムも含めた意匠が時代によって変化をこうむらざるを得ない。
これはSFそのものの命題でもある訳です。ハイラインの時代だったらタコメーターとか。ウィリアム・ギブスンだったらデジタル表示とか。イーガンだったら表示システムそのものをデバイスとして人間にインストールしてしまうとか。そういう変化を余儀なくされるんです。ディックだって『電気羊』の映画化『ブレードランナー』と『マイノリティリポート』映画化の『マイノリティリポート』ではデザインの価値観そのものが違う。監督や美術のセンスにも寄るのでしょうが、同じ作者でも時代が変われば映像化の際はビジュアルは全く異なる。

スタートレック』09年版はどうだったかというとこれが微妙に巧いんですわ。時代の古さを感じさせない。でもどこかに「1960年代のスタートレックっぽさ」みたいなのが潜んでいるんです。フェザーガンとか全く変更されていないデザインもあるんですけど。デザインの再生産性のコストパフォーマンスがいい映画。

クリンゴンとロミュラン、連邦政府の政治的立場の説明をすっとばして開始するので最初の人にはハードル高そうな気がしたんですが、観ている間にじわじわ関係が分かってくるので問題なし。基本的にテレビの延長線上だと思ってもよいのでは。しかし一方では冒頭で幼い頃のカ−ク船長が親の車を盗んで砂漠を爆走しているバックにBeastie Boysの「Sabotage」が流れたりしてチンピラムード全開で痛快! って感じはします。そういうのは映画の演出っぽい。
NINのトレントが昔サイトに映画館の椅子にスタッフと一緒に座っている写真と一緒に「スタートレック観に来たぜ!」とかいうアホなコメントをわざわざ上げていてああ、こいつもやっぱりオタクなんだなって思ったのを思い出しました。

To Loveるではない
『スタトレ イントゥ・ザ・ダークネス』今回はぼくの好きなジャンル扱ってるじゃん。冒険スパイ小説のノリ。単純に国家と国家が星と星の問題になっているだけ。だから基本的に舞台は宇宙である必要は全くないんだけど、そういうスタイルを組み込めてしまう工夫っていうのは流石老舗って感じはしました。
逆にこのへんが一部のひとに「スタトレは真正のSFじゃない。スペースオペラだ」と断罪されてしまう理由かも。
文句なし。ビジュアルもパワーアップ。今回はいつもにも増してカ−クとスポックがラブラブ。今回は「SF以外の要素」がメインなので結構幅が広い範囲が楽しめる娯楽映画じゃないんですかね。
あと今回もグッドデザインショー。エンタプライズ号っていいデザインしてるよな。
地球に落ちてくるシーンとその後の演説を「9.11以後」と安易に扱うのには警戒したいですな。
組織の糾弾をしつつもあのラストシーン。宿命のライバルの脅威を仄めかしてもいいのではないかとも思いますが、恐らく劇場版というのを配慮してあのラスト。結果としてどこか「連邦は正義! いや正義が連邦!」というナショナリスト臭を感じざるを得ないラストになってしまいました。
ベネディクト・カンバーバッチのカーンがえらくカリスマ性溢れる知的な役回りで、もう全然リカルド・モンタルバンのカーンに似せる気ないんだけど、このスタトレ自体がリブートなのでいいんじゃないですか。

09年版と共に、時間軸が違うっていうのは90年代から今に至るまでSFの一大ジャンルになってしまった量子力学に対する目配せみたいな気がして、今見るとちょっと小賢しい感じはするかな。でも設定にがっちり食い込んでいるのでこれはこれで全然ありだよね。


都市ジャンル映画
プロパガンタ映画のそしりは免れないが、しかし李香蘭こと山口淑子は美人だから、まあ、いいんじゃないんですか。という『蘇州夜曲』

李香蘭はぼくの中では荒俣宏の『帝都物語』の影響でちょっと都市伝説みたいな人物になっている所があったんだけど、今回の映画で動いて喋る彼女を観られて満足。というか、この間死去したんだよなあ。
ストーリーはともかく、1940年の上海でロケされてるんだけど、これが魔都上海と形容するに相応しい。近代化前と近代の巨大な建物が入り組んでいて、ちょっと郊外に行くと自然がある。昼間は工場から立ち上る煙が上空に渦巻いているんだけど、夜の繁華街は魔の巣窟といった様相で(セットもある)これはちょっと見物。単にぼくが1940年の上海のノイズに反応しただけかもしれんが。
李香蘭こと山口淑子と魔都上海が主役の映画です。

支那の夜』李香蘭

霧島、戦艦やめるってよ
桐島君が部活を止める映画をやっと観た。色んな解釈が出来る映画なので、ぼくの感想を。ぼくは人生のある瞬間に「(可能な範囲で)自分にとって価値のある好きなことを優先させないと人生損する」という価値観が生じました。そういうぼくの観点からすると『桐島、部活やめるってよ』は桐島が部活を止めることによって登場人物が抱えていた「リアル」や「価値観」というものが徐々にズレていく、キャラクターが持っていた優先順位が変質していく物語に観えました。

ツイッターなんてフォロワーが多けりゃ一万人を超えるわけで、そこに一人が可視化された意見をアナウンスすれば戦争も起きるし、リツイートされればさらに拡散もされる。衝突して当然なんだけど、それは価値観やリアルが個人にとって違うから。しかしツイッター上というかネット上の戦争というのは「対立構造」から派生しているものなので炎上騒ぎも大体が単純化されたセキュリタイゼーションめいた「××対○○」という構図が一般的。しかし『桐島、部活やめるってよ』は対立構造のレイヤーが幾重にも重なった状態でそれが一気に噴出することなく、じわじわと拡散、変化していく過程を丁寧に撮っているのでのでそのへんが魅力的に観えました。
カメラワークは普通、というか奇をてらうことなく安定しているので、どっしり腰を据えて鑑賞できました。
舞台設定も授業中を一切排除して授業前か放課後のみにしたのも、一つの部屋に閉じ込められて画一的な扱いを受ける授業中というものを避けて、個人のアイデンティティーが解放される放課後を選んだのではないかとも勘ぐってしまいます。
気のせいかちょっと死と暴力の匂いがしたんだけど。学園ものなのにドメスティックな香りがあまりなくて、割とサバサバした関係が多いのはスクールカースト問題ではなく、価値観のずれから生じたものに見えます。基本的に桐島がいないと彼ら彼女らは会話すら一致しない他人なんですよね。

今回の百合
『スパイシーガール』収録の『隣りのお嫁さん』がすごい駄目な人がヒロインとして出てくるんだけど、描写が細かいというかこれはあるわ。
駄目なひとというか要領悪いひとってぼくもそうなんだけど、一歩前とか半歩前の結果を想定せずに目の前の課題に手を出して安易に結論出しちゃう癖があるんだよね。結果として悪意がなくても周囲に迷惑かけて要領のいいひとにうんざりされちゃうんだけど、この短編はそういう描写が傑出している。
しかし歳をとると、経験の積み重ねである程度「これはこうなるな」みたいな部分も生まれてくるんですけど、そういうのを要領のいい若い人に説明してもいつもがいつもだからあんまり相手にされんのよね。こういうすれ違いが恋愛のズレみたいになってるのもよろしかった。

艦これ
艦隊これくしょん」がなぜぼくにとって面白いゲームなのかということを熟考した結果、収集癖にあるぼくにはこの「これくしょん」要素が堪らんのだ! しかし世間一般では「兵站要素が優れている」などと知ったような口を利くやつが。うるせえ! 集めるから面白んだ! タイトルも『艦隊これくしょん』だろうが! ポケモン図鑑みたいな艦娘図鑑機能もあるし、公式認定なんだよ! ガタガタ言ってるとお前も蒐集しちまうぞ!
という次第で、次女というポジションで損な役を引き受けがちな足柄さんにラブなので彼女をこれくしょんしてみた。

お願いシンデレラ

常に情報が更新されている高度な社会
ツイッターを一日離れていたら知らない間に平井和正先生とOrigaさんが亡くなっていた。ちょっと取り残されていたことに驚くが、よくよく考えればはっきり言って自分とはなんの接点もない方の訃報が手元に届くのが二日遅れようが三日遅れようが、そりゃ当たり前のことではある。

平井和正
実はあんまり知らない。世代が違う。ぼくが平井和正に興味を持った頃は宗教騒動も『幻魔大戦』劇場版アニメも過去のものだった。宗教騒動に関しては「そりゃ、人間長い間生きていればつまらんことにも引っかかってしまうしだろ」としか言えない。
幻魔大戦』は復刊した時に追いかけてみたのだが長いシリーズがどんどん復刊されていくペースについていけず、積読が溜まってしまった結果、最終的に読破しないまま古本屋に売ってしまった。「妄想大戦の歴史を振り返る」という文脈で追いかければ長続きしたのかもしれんが『幻魔大戦』自体を読む限りでは普通の能力SFアクション小説で特に下世話な興味をそそられることもなかった。「こりゃいかん」と思ってハヤカワから出ているやつを数冊読んだ程度。
ウルフガイシリーズの一巻のあとがきに大江健三郎に対して架空の手紙を書いてるのを読んで、色々世間に怒っている人なのだと思った。

Origa
攻殻機動隊 STAND ALPNE COMPLEX』に尽きる。独自のサイバーパンク観にスタイリッシュなオリエンタリズムグローバリズムを併せ持った『攻殻機動隊』に日本人のぼくにとってはOrigaさんの若干国籍不明かつ洗練された歌い方は大変にマッチしているように感じられ、作品世界のイメージ形成にかなりの部分で貢献していたと思います。

THE DAY IS MY ENEMY
THE PRODIGYの新作がでるらしい。一応買う。しかしいまいち好きではない。実績はすごいのでしょうが、それよりもNINやレディオヘッド、プライマルスクリームやマキシマム ザ ホルモンフー・ファイターズ等から感じられるような「いい大人になったのにどこにも行き場がないからロックで人生やりくりしている」感があまりなく、割かし要領のよさげな才気溢れる連中が音楽やってそうな気がするから。それは気のせいでしょうか。偏見でしょうか。色々ロックに求めすぎでしょうか。

デレマス
うひゃー。一話を観てから世界観が変わってしまった。脳のかなりの部分をこのコンテンツに浸食されている。憎い。JOYやDAMではラブライブの映像コンテンツがあるのに、アイマスは皆無なのだ。ラブライバーが憎い。羨ましい。
本編ですか。武内プロデューサー、コミュ力高いっすね。しぶりんやうずき達に「シンデレラプロジェクトやってるんで参加しませんか」って具体的なプレゼン出来るのコミュ力高いですよ! というか今後、アイドル達になにかあっても「シンデレラプロジェクトを成功させて楓さんたちみたいになるんだ!」みたいな大目標があるから今後の展開もまずブレることはないだろうし。
二話で残りの主要キャラ一気に登場したのでちょっと戸惑いましたが、それも話数を消化していく毎に解消されるでしょう。これは765プロの時がそうだったので、そう思っているのです。
デレマスはアニマスを経過してないとここまで出来なかったと思います。アニマス一話でキャラ紹介がAV撮影みたいだのなんだのと揶揄する声がありましたが、あれで蓄積された技術がデレマス一話で結実している訳でこれぞ続編の醍醐味ですわ。

猫映画
リッチな映画が観たかったというか、ちょっと大金をかけた映画にも飽きてきたので『熱いトタン屋根の猫』をDVDで。
大農園を築いた親父の誕生日に長男やら次男やらその嫁やらが集まってパーティーしている間に口論になる映画。結構普遍的な部分もあるので身につまされるところもある。かなりの問題が一気に浮上する映画なので闇鍋なのだが、綺麗にまとまって終わります。
淀川長治さんは映画解説書で「この映画はホモソーシャル」と書いていたので「またホモ認定か!」と思っていたのですが(淀川さんの映画解説本『淀川長治のシネマトーク』ではかなりの映画を淀川さんはホモ認定していらっしゃる)、終盤で「ホモだ」。調べてみると原作はホモなのだが、映画化に当たって匂わす程度のホモに変更したとの事。
この映画、とにかく嘘が嫌いというか嘘を告発しまくる。健全な映画です。まだアメリカ病んでない感じがすごくする。
次男(ポール・ニューマン)はホモセクシャル→嘘を告発する物語っていう構図は健全な精神じゃないと思いつかない発想だと思った。
無論、次男のホモセクシャルを責めているのではなく、ホモであるが故に生じてしまう嫁さん(エリザベス・テイラー)との関係や、子供が出来ないことによる遺産相続問題、ひいては病死が目前に迫っている親父との男親としての関係の精算へと議論が発展していくなど、この映画、ホモ重要よ。
さらっと黒人男性と黒人女性が執事とメイドとして扱われている描写にぎょっとするものの、1958年の作品だから、まあ、そうか。この辺は国家規模の歴史を含んだレイシズムの話になるのでまた別のラインの問題のような気もします。


カレーの国アクション
ザ・レイド』CSで。格闘技ファン、アクション映画ファンなら垂涎ものでは。とにかく格闘技アクション映画のいいところばかり集めた映画。
三十階建てのマンションにSWAT部隊が突入。目的は麻薬組織を制圧すること。上層部の命令を受けて敢行した作戦ではないので応援は頼めない。という一見、シビアな設定のガンアクションに見えるんですが、序盤を過ぎたあたりからこの設定が実はSWAT最強の四人対麻薬組織数十人が密閉状況のマンションでひたすら痺れる関節技と銃、刃物を使ってアクションを繰り広げる為に状況を限定したものだと判明します。
とにかくガンアクション、関節技主体の格闘技を駆使して一人で数人相手に闘う姿は圧倒的。さらに「床板の薄い部分を探し当てて置いてあった斧で床板を砕き活路を開く」「冷蔵庫の中にガスボンベを放り込み志向性の巨大爆薬として使用する」など『マスターキートン』によくある、ありていのものを使って反撃の活路を切り開くサバイバル要素も入っていてかなりお得感が高い。

痛快だからアクションが盛り上がると思わず声が出ちゃうんですが、これが段々笑い声になってくるんですよ。どこかユルいんです。男のみで構成された映画だから普通ならストイックでソリッドな仕上がりになるんでしょうが、これはそうならない。多分、変なカメラアングルが豊富でカット割りも多用されて音楽も頻繁に入るので「これはフィクションだから楽しめよ! お前らこういうのが好きなんだろ!」みたいな事を監督が言ってるみたいで、いっそ清々しいんですよね。
ラストで最強の敵が現れてSWAT最強の二人と闘うんですけど、戦闘が盛り上がるにつれて音楽も盛り上がっていくから高揚感を凄く煽られます。

ED曲がデフトーンズかと思ったんですけど、どうもヴォーカルのチノのソロ曲らしい。チノの独特の歌い方だとどんな曲もデフトーンズに聞こえるんですけど、これはかなりデフトーンズ寄り。どうなんだろう。


声優もガチ
『FURY / フューリー』プレミアム・エディション 日本オリジナルデザイン スチールブック仕様(初回生産限定)(ガールズ&パンツァー 特典ブルーレイディスク付)

『FURY』と『ガールズ&パンツァー』のガチコラボセット。やべえ。と思ったら本編そのものもやべえ。卵焼きに「味付け」されて泣いちゃうドイツ娘(アリシア・フォン・リットベルク)の吹き替えは西住殿の渕上舞さんじゃん!

ガン・フーアクション
現在日本での劇場公開予定なし。ビデオスルー。にもかかわらず独特の設定とスタイリッシュなアクションで公開前から話題を集めている『ジョン・ウィック』がじりじり動いている。米国版ディスクは二月予定。
愛犬を殺された復讐の為にキアヌ・リーブスがカンフーとガンアクションを融合させたガン・フーで闘うスタイリッシュアクション映画。

UK版トレイラー

艦これ
筑地俊彦の『陽炎、抜錨します!』四巻がえらく面白かった。と書けば普通なのだが、このシリーズ四回共に一定以上の「面白い」をぼくは覚えている。四回連続で面白かったシリーズというのはぼくとしては近年まれになく(あまり連続するシリーズものの小説を読んでないというのもある)これって結構大変なことというか、手堅い技術だと思った。筑地の他の著書にも興味出てきましたよ。
それとこのシリーズ読んでると駆逐艦にどんどん愛着湧いてくる。これって『艦これ』のメディアミックスを前提にしたノベライズにとってはかなり重要なことでは? ゲームに限らず原作ありきのノベライズというのは「原作ファンが喜べるか」以外にも「新規層を取り込めるか」というのも必要な要素としてあると思います。で、いままで『艦これ』や駆逐艦にあんまり興味なかったひとがこれ読んで『艦これ』に興味持ったり、駆逐艦のレベリングとかはじめたら、筑地はかなりの勝利を収めているのではないのでしょうか。

今回はミリタリ要素皆無で全部心理描写にページを割いているんだけど、これが効果的。登場するキャラに親近感湧きます。
三巻まででやってきた事が結構成果として表れている巻でもあるので、三巻まで読んでて四巻どうしようかなと思っている人にお勧め。
なんだかぼくはブログで筑地を結構な回数褒めているので太鼓持ちみたいでいやだけど、面白いから仕方ないよね。こういうのを作家の能力というんだと思います。

アニメの艦これ。ぼくのツイッターのTL構築具合に寄るのかもしれんが実況の後の考察が結構否定、肯定に分かれている上に真面目なものが多いのでよさげ。
ぼくは割と否定的な立場だけど、肯定の意見にも見る価値が高い冷静なものが結構あって、こういうのを意見交換というのではないかしら。
ツイッターの善意が集まっている気がする。
肯定の立場の人は「糞」だの「バカ」だの感情論に傾きがちな単語を使わず、アオリもせず、ちゃんとpostを読んでもらえるように書いてあるので、その辺についても色々考えさせられる。いや……ぼくはそこまで画面から読み取っていなかったのに、ツイートでは脳反射的に「カオスアニメ」だのなんだのどうでもいいことばかりpostしてすいませんでした……とか……。
今日もアニメに教わった。

百合
竹宮ジン。『想いの欠片』最終の三巻。人を愛する純粋さの強度の高さ故に童貞度が異常に高い百合。外から触った程度じゃ分解できないし、分解してしまうと組み立てるのは二度と不可能な、繊細な人間の関係で構築されている百合とゲイです。百合メインだけど。面白いんだけど、他人が絶対入れない世界だ。
基本、恋ゆえに盲目になっているひとには迷惑をかけられても寛容なので、キャパが大きい人が揃っている。
心理描写が多数を占めるので、このキャラクターには世界や人間関係がこう見えているのか、というのがはっきり手に取るように分かるのがこの漫画の醍醐味でしょう。
だからという訳ではないんだけど、驚くほどにぼくはこの漫画の背景を覚えていない。覚えているのはキャラがこう思っていた、考えていた、他の登場人物はこう見えていたという事のみ。
恋をして成長してるんだけど、成長は課題という具体的な形式を持って立ち現れるので、その辺、フックは上手いなあと思います。
完璧な恋は漫画ならでは。また解釈を読者にゆだねるのではなく、はっきりと言葉にして関係を確立していく百合(とゲイ)です。
照れを隠すために「愛しています」っていうんじゃなくて、信念があって「愛しています」って言う漫画です。ここらへんが痛々しい展開が多いのにすがすがしい所以ではないでしょうか。純粋すぎる彼女たちはどこへ行くんだろう。

銃の国からやってきた

銃の国からやってきた
アイアン・ジャイアント』を見ねば、観ねば、と思いつつスルーしていたのですが、せっかくの正月休みだったので思い切って観た。99年の作品だから15年越しに宿題を一つ片づけたことになる。
一言でいうと兵器が自我を持った瞬間、兵器である事を止める映画。

時代設定がよい。
57年なので55年に結成されたワルシャワ条約機構の二年後という設定なので、核やいわゆる「知らない誰か」に対する恐怖感に説得力がマシマシ。
ついでに冒頭、宇宙空間でスプートニクが地球を横切っていくけど(スプートニク計画は57年開始)これもよい。スプートニク計画は元々弾道ミサイル打ち上げ用に開発されたんだけど、これが宇宙からやってくるアイアン・ジャイアントの存在と見事にダブる。一方で開発者や(政治的存在を除く)関係者は無邪気な宇宙への憧憬や畏怖の念から衛星打ち上げ計画を運用したはずで、これもやはり宇宙からやってくるアイアン・ジャイアントの存在と見事にかぶる。
深読みしすぎかも知らんけど、時期的にこんなにバッチリ合ってるんだから、そら考察もしたくなりますわ。
設定の時点でこの映画は勝っている。
ストーリーも映像もえらく骨太で狭窄物がなく、頭に入って綺麗に記憶に残る。無駄がないので腐りにくいんですな。この脚本ってものすごい理想的な脚本のひとつなのではないかしら。これは短編にも出来るくらい。
自我を獲得した瞬間に死なねばならぬアイアン・ジャイアントに涙するも、最後まで観てるとオマケもあるし、こりゃ新年にいいものを観たなあ。

トニー・ジャー!弐
ぼくの頭のなかでは『マッハ!』も『トム・ヤン・クン!』も区別がついていない。ああー、トニー・ジャーがパンツ一丁で敵をぶん殴っている、とだけしか認識できない。なのでぼくの中ではこの両者は同一のもので主人公は別々ではなく、トニー・ジャートニー・ジャーが色んな世界線で活躍しているのだ!
そんなジャーの『マッハ!弐』を観る。
製作者(ジャー)が稚拙な妄想を身体を張って全力で体現した結果、本来想定していたもの以外の何かが画面から放出されている。受け手も期待していたものとは違うものを受信してしまい、圧倒されるという得体の知れない映画に仕上がっている。この作品は武闘派映画の様式美コテコテであり、それらの再確認作業をするだけの映画なのにもかかわらず、一部で観客の認識を大きく上回ってしまう。

幼いトニー・ジャーは村を突然襲った敵国の捕虜になり、殺されかけたところを謎の武闘集団に助けられる。集団の長に才能を見込まれたジャーは武闘集団の村で復讐の修行をするのだが、その村がすごい。
トムクルの『ラスト・サムライ』のケン・ワタナベ村のように自給自足している雰囲気なのだが、この村にはムエタイ功夫の使い手はもちろんのこと、中東のアサシンや酔拳の使い手、ついでに日本の居合剣士など、世界中の武術家が勢ぞろいしているのだ! 中東のアサシンはターバン巻いてるし、日本の剣士はちゃんと着物来て虚無僧の恰好してるよ。この村でトニー・ジャーは育てられ、結果として世界のあらゆる武術をマスターするのだ!

ストーリーは極めてシンプル。前半、修行パート、中盤、回想パート、終盤、復讐パートの三種類。これだけ!

今回もスタントマンなし。ジャーがムエタイの膝蹴りをかまし、敵をフッ飛ばす。するとその先にはグラグラと煮え立ぎっている巨大な鍋が! 修行の為に爆走する象の群れの背中を駆けまわえるジャー。この辺でぼくは「あれ? 俺は『トム・ヤン・クン!』観てるのか?」と錯覚に陥りました。

概要だけかいつまんで説明するとバカ映画でかつ、制作時のジャーの我儘っぷりがなにかと取り沙汰される作品なのだが、百分間、一切飽きることなく観られるのは評価されてもいいと思う。これってすごく難しい事だと思う。少なくともジャーは映画の作り方を知っている。

逆襲のシャア
レコンギスタやってるし、昔だったら正月の朝くらいには『F91』か『逆襲のシャア』を地方局が流してくれていたのだが、今年はなかったので自発的にやった。
冨野らしく、アニメの様式美を保ちつつも一言で説明できない作品。「シャアってガキね〜」で済むといえばそうなのだが、細部に手が行き届いていますわ。


日常系もしくは新ジャンルか? これ?
桜Trick』をぼちぼち消化。これ日常系? いや、原作は読んでます。しかし、百合クラスタのぼくからしたらこれは百合作品以外のなにものでもないのですが、ネットでは所々、この作品を「日常系」「新ジャンル」扱いしようとして悩んでいる発言が散見されます。
多分、この作品の外見にダマされて「日常系」枠に突っ込もうとすると、確実にカテゴリーエラーを起こして「好みの日常系じゃない」とか「適当な要素をかいつまんで適当な新ジャンルをデッチあげ、そのなかで扱う」みたいな結果になってしまうと思うので、慌てず騒がず、百合という扱いでいいんじゃないですか。だって百合にカチッとハマる作品なんだもの。『マリみて』みたいな過剰な演出はないけど(その辺に「日常系」と言われてしまう原因がありそう。あと異性愛者が観ても、不快に感じる要素をかなり排除している。共学とかね。男性視聴へのアピールもすごいし。『きらら』掲載というのも大きいと思う。『きらら』は『恋愛ラボ』アニメ化の時もそのステロから百合とヘテロの区別がつかなくなり、まとめサイトの後押しを受けて(とほほ)一部のユーザーが勝手に炎上した。「『桜Trick』は「日常系」か「そこから派生した新しい何か」発言もその現象に似ている)。

事あるごとに女の子同士がくっついたり、ラッキースケベではなく能動的にキスしたりで、お互いに気分が高揚してディープキスに移行する描写って日常系とは言わないでしょう。普通に考えて。そりゃ、百合、もしくはズカっと言うとレズビアンでしょう。百合っていう意見ももちろんあって、ぼくもそりゃそうですよね、と思います。

質問:
日常を謳歌している女子高生達が同性に明確な恋愛感情を抱いており、作品上でも表明しています。過剰なスキンシップやディープキス、それらによって少女達が性的興奮を催す描写が頻繁に挿入されます。作品自体も女性同性愛者の心理描写に全体の八割近くを費やしています。

注)製作サイドはこの作品を宣伝する際に「百合」や「レズビアン」とカテゴライズしたりアナウンスしていません。

これは日常系アニメですか? それとも新しいジャンルのアニメでしょうか? もしくは百合でしょうか? ひょっとしてレズビアン


今回の艦これ!
アニメ。長門が指揮とってて、むっちゃんが秘書官ポジションなのか! もしくはハマーン・カーンが提督。

旅行
和歌山旅行からは旅行に行っていないのだが、とりあえずまた広島あたりに旅行に行きたくなってきた。瀬戸内海。何故そんなに広島の瀬戸内海にこだわるのかといえば、それまでにも親に連れられて旅行には行ったことはあるものの、最初に自発的につーか、イチからジュウまで全部自分で手配して行った最初の旅行が広島-鳥取旅行であり、また旅程も夏の海岸線地方と滅茶苦茶好条件だった為に、あの旅行は出発から高速、目的地、ホテル、旅館、料理となにからなにまで最高に美しく、いまでも思い出す面白さだったのだ。仕事が異常につまらかったので、その辺もあるかもしれない。
という訳でぼくの趣味に旅行が加わったのはあの時の広島-鳥取旅行の楽しさをもう一度味わいたいが為にやっているようなものなのだ。
旅行に限らず読書、映画、アニメ、音楽と最初あたりに遭遇したものが非常に面白かった為に、あの瞬間をもう一度味わいたくて何度もやっているようなもの。しかし残念ながらいまとなっては面白かったのはなんの本なのか、どんな映画だったのか、誰の音楽だったのか、思い出すことは出来ない。
なので忘れないうちに書いておく。ぼくの旅行原体験は広島の瀬戸内海と鳥取日本海である。

百合の原体験
といえばまず間違いなく『マリみて』なのだが、よくよく思い返すと決定的な打撃を受けたのはそれ以前の紺野キタである。百合っていうよりはレズの特性ついたのは『少女セクト』だな。当時は紺野キタの諸作品や、あと竹本泉の過去作を古本屋で発掘するだけで結構満足だったので、2chに百合スレが立って「このライトノベル作品には仲のいい女の子同士が手を繋いでいる描写があって……」とかいう情報のシェアには、あんまり反応しなかったというか、そこまで飢えている感じはなかった。この辺に年季の入った百合オタ、つまり腐女子への劣等感は感じますかね。純粋に彼女らとは決定的に対等になれないっていうのは根底にありますよ。何時まで経っても百合に関しては後輩の気分ですかね。先輩。

今年もお世話になりました。

今年もお世話になりました。

狙撃者/ボーン・アイデンティティ
をDVDで観たりしたのだった。ダグ・リーマン版『ボーン・アイデンティティー』のパクリじゃなくて88年にロジャー・ヤング監督が撮ったラドラムの『暗殺者』の先行映像化作品になります。主演がリチャード・チェンバレンなので原作を読んでいた時に感じていた「ボーンっておっさん!」感が非常に強いです。これはあれか、90分前半、90分後半なのでテレビシリーズなの?
内容もかなり原作に忠実。デイモン無双のリーマン版よりも「自己探求の旅」要素がかなり強いです。特にボーンが過去の自分の行動を追いかけながら、関係者からいかに記憶を失う前のボーンが冷徹で計算高く用心深い男だったかを聞かされて衝撃を受けるシーンでは観ているこっちもつられて吃驚。という原作のフレーバーをよく生かしています。『暗殺者』って「狙撃者」も「ボーン・アイデンティティー」も途中でボーンの過去を知っている人物が出てくるからボーンの正体云々は実はそんなに問題じゃなくて、どのように他の要素でグイグイ観客を引っ張るかっていうのが大事なんだけど、これはうまい。デイモン版はアクションで引っ張ってましたけど、こっちはサスペンスで引っ張ってる。
ヒロイン要素をザックリと切り落としてひたすら「孤高の暗殺者」に徹していたデイモンと比べてチェンバレンのボーンはしょぼいおっさん度が非常に高く、記憶を取り戻すための手がかりや過去の自分に怯えるボーンの精神安定にヒロインはかなり貢献しています。これも原作通り。
原作にもあった終盤の墓場での撃ちあいのシーンも再現しているので、本当に原作をよくトレースしている印象。
もう原作をトレースし過ぎていて、デビッド・ウェブ時代の元奥さんや子供の死んだ姿がフラッシュバックするなど再現度高し。この奥さんと子供はドラマには全く関係ないんだけど、そこまで再現してしまうのか。
デイモン版がスパイアクション映画とするならこちらは冒険スパイ映画。面白いのでデイモン版の『ボーン・アイデンティティー』が好きで好きで死にそうな人は探して借りてみよう。結構お勧め。

ラブライブカラオケ
DAMとJOYに置いて2014年夏の時点ではアニソンカラオケの分野において『ラブライブ!』の映像が皆無だったJOY。一方、DAMは一期のOP映像を収めた『僕らは今のなかで』を収録することでラブライバーにアピールをしていたのだが、JOYが反撃を開始。冬の時点で六曲に映像を一挙に追加。しかもアニメ映像の切り貼りじゃなくてシングルに特典としてついてきたPVを収録と頑張ってますなあ。
あと『艦これ』では『恋の2-4-11』に続いて『暁の水平に』をはじめとして十曲以上追加と明らかにオタをターゲットにしている印象。
マクロスオーディション』もJOYの録画機能で歌っている姿を録画しオーデションにエントリーが可能など(要するにド田舎でもJOYさえあればオーディションに応募可能)もうこっちのカラオケだよな。という印象。

今回の『シノハユ』!
シノハユ』シノちゃんのお母さんが銀座と横浜の店のナンバーワン、しかも打ち手としても非常に優れていた過去が発覚。それであれか? 突然失踪してシノちゃんはお母さんを探すために麻雀大会のナンバーワンを目指すのか? これもう近マの世界やんけ。
さらに固定資産税など生っぽいワードが非常に多い。
こういうのがハッタリじゃなくてざっくり動くとなると物語としてはかなりスケールがでかくなる予感がする訳で『咲日和』の印象が薄くなってしまった。

今回の艦これ!
レベル上げだ! というか、フリーソシャゲ感覚で遊び始めたのだが、結局課金が将来も考えると最低限五千円くらいは見積もってしまえる。
まあ、色々な人との接点もできたし、同人誌出したし、まだ安いくらいだろう、みたいな感覚なのですが。
それに五千円って昔ソフトやCDROM、DVDROMのパッケージを購入して遊んでいた時の額とそう変わらないので、まあ、ゲームに入れ込んだらそれくらいはやっぱり行くよな、という感覚です。

今回の百合!
『あの娘にキスと白百合を』(2)。もーバリバリに思春期のコンプレックスと自意識過剰が百合に繋がっている非常によく出来た百合漫画。
ぼくが百合漫画をお勧めするとこれはベスト5のうちにはいる。「百合姫」ではなく「コミックアライブ」連載なんだけど。いいことだ。
今回は「百合なんだけど、これはひょっとして寂しい女の子同士の疑似恋愛では?」と思わせるような展開で、でも百合なんだよ! という崖っぷちを全力疾走している感が非常に強く満足ですわー。

紫電改のマキ』二巻

この画像は眼鏡っ娘がショートヘアの娘のおっぱいを背後から揉んで悶えさせているレズものではなく『紫電改のマキ』のドッグファイトで後ろを取られた比喩表現である。
二巻あたりからこういう比喩表現が増え始め、また台詞も「お前らもうおしまいなんだYO!」など名台詞もマシマシの『紫電改のマキ』。波を感じます。

とび蹴りではなく上空から強襲をかけている。

Edge Of Tomorrow

十周年記念BOX
あんまりにもTLでこの話題を見掛けるのでなんなのかと考えてみたら、普通にアニメ放送から十年経ってて、ある程度傑出してて、ある一定の購買層が見込める作品なら企画だけでも立てやすいシロモノなのだからという結論に達した。
えー、ということは来年もやっぱり十周年記念BOXとかいうのはどんどんリリースされるのかー。
でもDVDが一般普及しだしたのって2000年前後なので(DVDを再生可能なPS2のリリースが2000年というのも大きいと思う)その前のビデオカセットとの断絶を埋める意味合いもBDBOXにはあると思うので、一定ラインを越えたら10周年記念っていう惹句はあまり強度を誇らなくなるかも。


やっぱりトムのええカッコし映画やんけ
ALL YOU NEED IS KILL』BDで。最初の三十分で特殊な設定を、観客と登場人物に叩きこんだ後の八十分はひたすら展開とビジュアル、爆音、カメラワーク、特撮技術だけで魅せるというアクション映画の王道のような作品。すごい力技なので圧倒されてしまった。監督にねじ伏せられた感が強い。SF要素が主体なんだけどSFアクション映画と呼んだほうがよい。
僕は待機室フェチなのだが、この映画は軍に放り込まれる→待機室→戦場を繰り返す映画なので待機室がバンバンでてきて非常に満足。
上官のしごき、博打、仲間同士のへらず口、戦意高揚の為に流れ続けるB級ロックとクラクラします。この待機室っていうのは別に特定の場所じゃなくて、いわゆる「兵士たちの帰る家」として機能していればぼくとしては満足なわけで『フューリー』でブラピが異常にシャーマン戦車にこだわっていたのにも結構萌えたのであります。
辛い仕事から帰ってきて、本やらマンガやらCDやらが散らかっている汚い四畳半の臭い布団に潜り込んで「ここが俺の居場所なんだ」と再確認する作業に似ているのかもしれない。

ラストシーンはやっぱりトムのええ格好しい映画やんけ、と思ってしまった。ダグ・リーマンはちゃんとコントロールしてたけど。
原作からの改変については良改変。原作は最後の最後で唯一の理解者であるリタ(エミリー・ブラント)が自分を置いて行ってしまう、取り残された俺。でもこれは生き残る為に仕方がない事、感がラストに強調されてたんだけど、映画版の脚本はその感覚を巧く見抜いていて中盤から「ああ〜理解者であるリタとの距離がどんどん開いていくけど生き残る為にはこれしかないんだ」みたいなケイジ(トムクル)の悲哀感、やるせなさがよく漂っていた。だからラストはああなのかもしれない。頑張ったケイジにご褒美、みたいな。同時に観客へのご褒美にもなっている。

ノイズ映画
『バンカー・パレス・ホテル』DVDで。意外とエンキ・ビラルのビジュアルとレトロフューチャーな工業未来都市のノイズだけで満足して観れてしまった。
富裕層がバンカー・パレス・ホテルに集う映画なのにディストピア感はちゃんとあっていい。というかこれは多分、工業都市のノイズと寒そうな風景、降り続ける雨、オートマチック化されつつも機能不全を来している歪な設備、無能な官僚、とそれなりに道具が揃っているからで、鉄板ではある。なんだか評価が低くい書き方だけどちゃんと面白いですよ。

ギャル子ちゃん
『おしえて! ギャル子ちゃん』百合、といえばそうなんだが、ギャル子ちゃんはおっぱい大きくて、純情で、世間の事あんまり知らなくて、とても親切で誠実でエロくて可愛いので、普通のひとが読んでも面白いと思うよ。オタクの眼鏡っ子とギャル子ちゃん、天然のお嬢が「Hな話題でこういうのよく聞くけど、本当なの?」というガールズトークを延々と繰り広げます。本編にはないけど、例えばパツキン外人のあそこの毛もやっぱりパツキンなの? どうなの? という話をギャル子ちゃんたちが繰り広げる漫画。
あと、コマのワンカット、ワンカットがイラストか映画のワンシーンをくり抜いて作ったかのようなビジュアルで、それが一ページ丸ごと延々と続いてSSになっているので漫画としても純粋に読んでて気持ちいい。全頁フルカラーなんだけど、淡いトーンの色合いで統一されているので、「どうだ! 凄いだろう!」っていうんじゃなくて、読み手がどう心地よく感じるかっていうのが非常に考え抜かれた配色です。何度も読み返す。

マクロスフロンティアと新作
JOYで久しぶりに『マクロスF』を唄ったらやべえ。現在、JOYではオンラインで新作マクロスのオーディションを開催しているので『フロンティア』は2014年冬の現在激戦区と化している。ので参加人数が桁外れで、オンライン採点で一点上がっていく毎に「300人抜き」と表示される。

怪談と名刀
怪談を盛り上げる為に東雅夫が一生懸命過去の名作怪談を復刊しているがこれもそのうちのひとつ。ありがたや。というか東先生で常々不思議に思っていたのだが、怪談で東雅夫が中心になって雑誌『幽』やポプラ社、今は亡きネット書店ビーケーワンと連動して一時期「創作実話系怪談」を流行らせようとしたじゃないですが。今もか。1998年に『リング』のあおりを受けて復刊されてブームを読んだ『新耳袋』とか平山夢明竹書房とかの流れで。この動きってネットの「マクドナルドで女子高生が」「サークラvsギャル子」的な創作実話系と時期的にリンクしてるの? 全く関係なく時期が重なっただけ?

はがないNEXT
全話観た。理科が毎回髪の毛を変えているので「理科推しだ……」と思っていたら最終回は理科が小鷹をぶちのめす回だった。
恐らく小鷹の「誰も選べない」言い訳というか詭弁に女性としてまともに怒ったのはこの子だけなので、惚れた。
夜空と肉、マリアと小鳩みたいに小鷹を取り合って女同士で小競り合いをするのではなく「お前がはっきりせんから事態が進展せずに困っとるんだろうが!」とちゃんと自分の意思をフラフラしている小鷹に伝えたのはこの子だけ。小鷹! お前の行動は、おれの所では「草野球のキャッチャー」と言うんじゃ。わかるか! 「みっと(ミット)もない」と言う意味だ! と理科が言ったかどうかは不明ではある。

今回の『咲』!
ナンシー・シナトラの『BANG BANG』かと思っていたらプライマルの『Kill all Hippies』の方の銃だった。
なんかのどっちの銃の弾倉が透明プラスティックカヴァーなんだよね。グロックとかもうプラスティックだけの塊みたいな銃じゃん。のどっちの銃みたいなのも探したら出てくるかもしれない。

今回の百合!
『ゆりめくる日々』『ゆりめくるお仕事』田舎の貧乳冴えない沙柚理と、お嬢様のより子のSS百合コント。百合作品も多くなってくると、紹介する側としても紹介される側に「なぜこんなものを薦めるの? よく分からないよ? ためしに買ったけど、なにこれ?」みたいに言われる作品も比例して増えてきますが、これもそのうちのひとつ。ともかく雰囲気がエロいし、ロリなんでエロ可愛い百合なんですよね。エロ可愛いい百合のビジュアルが欲しいひとはこれを読め! サブロウタの『citrus』の表紙で悶えて騒いでいるひとはこれを読め! え?自分が求めているのはこんなおふざけじゃない? 自分の欲求に対して自覚的で素直な方が、変な意地を張って高尚なものを崇める自意識の奴隷になるより人生ずっと得するぞ!
貴様が大島智のにこまきレズシリーズ同人誌を買ったり、相川りょうの島風ちゃん百合奴隷凌辱本を購入しているのはまるっとお見通しだ!
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今回の艦これ!
子宮回帰願望。なにか音楽を聴いたり、アニメの一挙放送を流しっぱなしにしながら艦これのレベル上げをやっていると現実逃避になって楽しい。