グッドデザインショー

グッドデザインショー
スタートレック』09年版。グッドデザインショー。テレビ版開始が1966年だから大雑把に計算しても四十年経過している作品。
当然四十年も経過してりゃハードウェアやデバイスなんかが変更されている訳です。システムも含めた意匠が時代によって変化をこうむらざるを得ない。
これはSFそのものの命題でもある訳です。ハイラインの時代だったらタコメーターとか。ウィリアム・ギブスンだったらデジタル表示とか。イーガンだったら表示システムそのものをデバイスとして人間にインストールしてしまうとか。そういう変化を余儀なくされるんです。ディックだって『電気羊』の映画化『ブレードランナー』と『マイノリティリポート』映画化の『マイノリティリポート』ではデザインの価値観そのものが違う。監督や美術のセンスにも寄るのでしょうが、同じ作者でも時代が変われば映像化の際はビジュアルは全く異なる。

スタートレック』09年版はどうだったかというとこれが微妙に巧いんですわ。時代の古さを感じさせない。でもどこかに「1960年代のスタートレックっぽさ」みたいなのが潜んでいるんです。フェザーガンとか全く変更されていないデザインもあるんですけど。デザインの再生産性のコストパフォーマンスがいい映画。

クリンゴンとロミュラン、連邦政府の政治的立場の説明をすっとばして開始するので最初の人にはハードル高そうな気がしたんですが、観ている間にじわじわ関係が分かってくるので問題なし。基本的にテレビの延長線上だと思ってもよいのでは。しかし一方では冒頭で幼い頃のカ−ク船長が親の車を盗んで砂漠を爆走しているバックにBeastie Boysの「Sabotage」が流れたりしてチンピラムード全開で痛快! って感じはします。そういうのは映画の演出っぽい。
NINのトレントが昔サイトに映画館の椅子にスタッフと一緒に座っている写真と一緒に「スタートレック観に来たぜ!」とかいうアホなコメントをわざわざ上げていてああ、こいつもやっぱりオタクなんだなって思ったのを思い出しました。

To Loveるではない
『スタトレ イントゥ・ザ・ダークネス』今回はぼくの好きなジャンル扱ってるじゃん。冒険スパイ小説のノリ。単純に国家と国家が星と星の問題になっているだけ。だから基本的に舞台は宇宙である必要は全くないんだけど、そういうスタイルを組み込めてしまう工夫っていうのは流石老舗って感じはしました。
逆にこのへんが一部のひとに「スタトレは真正のSFじゃない。スペースオペラだ」と断罪されてしまう理由かも。
文句なし。ビジュアルもパワーアップ。今回はいつもにも増してカ−クとスポックがラブラブ。今回は「SF以外の要素」がメインなので結構幅が広い範囲が楽しめる娯楽映画じゃないんですかね。
あと今回もグッドデザインショー。エンタプライズ号っていいデザインしてるよな。
地球に落ちてくるシーンとその後の演説を「9.11以後」と安易に扱うのには警戒したいですな。
組織の糾弾をしつつもあのラストシーン。宿命のライバルの脅威を仄めかしてもいいのではないかとも思いますが、恐らく劇場版というのを配慮してあのラスト。結果としてどこか「連邦は正義! いや正義が連邦!」というナショナリスト臭を感じざるを得ないラストになってしまいました。
ベネディクト・カンバーバッチのカーンがえらくカリスマ性溢れる知的な役回りで、もう全然リカルド・モンタルバンのカーンに似せる気ないんだけど、このスタトレ自体がリブートなのでいいんじゃないですか。

09年版と共に、時間軸が違うっていうのは90年代から今に至るまでSFの一大ジャンルになってしまった量子力学に対する目配せみたいな気がして、今見るとちょっと小賢しい感じはするかな。でも設定にがっちり食い込んでいるのでこれはこれで全然ありだよね。


都市ジャンル映画
プロパガンタ映画のそしりは免れないが、しかし李香蘭こと山口淑子は美人だから、まあ、いいんじゃないんですか。という『蘇州夜曲』

李香蘭はぼくの中では荒俣宏の『帝都物語』の影響でちょっと都市伝説みたいな人物になっている所があったんだけど、今回の映画で動いて喋る彼女を観られて満足。というか、この間死去したんだよなあ。
ストーリーはともかく、1940年の上海でロケされてるんだけど、これが魔都上海と形容するに相応しい。近代化前と近代の巨大な建物が入り組んでいて、ちょっと郊外に行くと自然がある。昼間は工場から立ち上る煙が上空に渦巻いているんだけど、夜の繁華街は魔の巣窟といった様相で(セットもある)これはちょっと見物。単にぼくが1940年の上海のノイズに反応しただけかもしれんが。
李香蘭こと山口淑子と魔都上海が主役の映画です。

支那の夜』李香蘭

霧島、戦艦やめるってよ
桐島君が部活を止める映画をやっと観た。色んな解釈が出来る映画なので、ぼくの感想を。ぼくは人生のある瞬間に「(可能な範囲で)自分にとって価値のある好きなことを優先させないと人生損する」という価値観が生じました。そういうぼくの観点からすると『桐島、部活やめるってよ』は桐島が部活を止めることによって登場人物が抱えていた「リアル」や「価値観」というものが徐々にズレていく、キャラクターが持っていた優先順位が変質していく物語に観えました。

ツイッターなんてフォロワーが多けりゃ一万人を超えるわけで、そこに一人が可視化された意見をアナウンスすれば戦争も起きるし、リツイートされればさらに拡散もされる。衝突して当然なんだけど、それは価値観やリアルが個人にとって違うから。しかしツイッター上というかネット上の戦争というのは「対立構造」から派生しているものなので炎上騒ぎも大体が単純化されたセキュリタイゼーションめいた「××対○○」という構図が一般的。しかし『桐島、部活やめるってよ』は対立構造のレイヤーが幾重にも重なった状態でそれが一気に噴出することなく、じわじわと拡散、変化していく過程を丁寧に撮っているのでのでそのへんが魅力的に観えました。
カメラワークは普通、というか奇をてらうことなく安定しているので、どっしり腰を据えて鑑賞できました。
舞台設定も授業中を一切排除して授業前か放課後のみにしたのも、一つの部屋に閉じ込められて画一的な扱いを受ける授業中というものを避けて、個人のアイデンティティーが解放される放課後を選んだのではないかとも勘ぐってしまいます。
気のせいかちょっと死と暴力の匂いがしたんだけど。学園ものなのにドメスティックな香りがあまりなくて、割とサバサバした関係が多いのはスクールカースト問題ではなく、価値観のずれから生じたものに見えます。基本的に桐島がいないと彼ら彼女らは会話すら一致しない他人なんですよね。

今回の百合
『スパイシーガール』収録の『隣りのお嫁さん』がすごい駄目な人がヒロインとして出てくるんだけど、描写が細かいというかこれはあるわ。
駄目なひとというか要領悪いひとってぼくもそうなんだけど、一歩前とか半歩前の結果を想定せずに目の前の課題に手を出して安易に結論出しちゃう癖があるんだよね。結果として悪意がなくても周囲に迷惑かけて要領のいいひとにうんざりされちゃうんだけど、この短編はそういう描写が傑出している。
しかし歳をとると、経験の積み重ねである程度「これはこうなるな」みたいな部分も生まれてくるんですけど、そういうのを要領のいい若い人に説明してもいつもがいつもだからあんまり相手にされんのよね。こういうすれ違いが恋愛のズレみたいになってるのもよろしかった。

艦これ
艦隊これくしょん」がなぜぼくにとって面白いゲームなのかということを熟考した結果、収集癖にあるぼくにはこの「これくしょん」要素が堪らんのだ! しかし世間一般では「兵站要素が優れている」などと知ったような口を利くやつが。うるせえ! 集めるから面白んだ! タイトルも『艦隊これくしょん』だろうが! ポケモン図鑑みたいな艦娘図鑑機能もあるし、公式認定なんだよ! ガタガタ言ってるとお前も蒐集しちまうぞ!
という次第で、次女というポジションで損な役を引き受けがちな足柄さんにラブなので彼女をこれくしょんしてみた。