『ココロコネクト』の永瀬伊織とは何者なのか。

僕の友人に変化を嫌う奴がいる。「そんな事をすると俺は変わってしまう」という。「俺は俺じゃなくなる」と主張する。
「俺の自我が喪失してしまう」
これは全く近代的な意識中心の思考で情報化時代特有の思考だ。
人間が変わる、変化し続けるのは当然のことだ。本を一冊読み終えた時点でもう以前の自分とは違う
極端にいえば寝て起きた翌朝の時点で別人だ。
ところが情報という不変なものが介入し、自分もそうだと勘違いしているから妙に変化に怯える
個性とかいう不変っぽいものを崇拝する。確かに個性というものは存在する。一番特徴のある個性は身体だろう。
筋肉が付いているにしろ、ガリガリにしろ、デブにしろ、そこには換え難いものがある。
ダイエットをして身体を細くしてもその人の特徴は残る。
こういうことをココロコネクト』の永瀬伊織は異常にアピールしている。

以下、長文が続く。永瀬伊織というキャラを語ることは「ココロコネクト」という作品と、その問題点と主題、現代社会という余計なものまで語ることになってしまうからだ。永瀬伊織とはそういうキャラだ。

  • 個性と人格を「情報」として捉えているエロいキャラ、永瀬伊織。

伊織は周囲に合わせて生きやすいように自分を抑圧し続け、環境にあわせて人格を変え、本来の自分を見失ったと主張する。
ここで注目すべきなのは彼女がココロコ内において一番セックスアピールを強調しているという事実だ。
太一にしろ義文にしろ、藤島にしろ、伊織のロリ顔とCカップ、華奢な身体と口元のほくろに魅了されている。
彼女自身もそれを熟知して自分を「エロいキャラ」としてウリにしている。
ただ、これだけ他人を魅惑する、他人には絶対に持ちえない個性的な身体の持ち主でありながら伊織は「自分がない」と訴える
これは恐らく彼女が自分の人格、個性を「情報」として捉えているからだ。

実際ココロコは心、人格、個性を情報として扱っている作品だ。人格が入れ替わった時や欲望解放が起こった時でさえ、文化研究部の最大の懸念事項は「異変が起こった場合どう自分を表現するか」という一点に集約されていた。周囲に与える情報と言い換えてもいい。
それは現実世界においては「他人のなかの自分」なんだから気にすると際限はないのだけれど、文化研究会の連中はそればかり気にしている。人格を情報と捉えているので否定されてしまうのに躊躇している。社会に与える情報に配慮する。
自分の個性が相手にどう捉えられているかと表現するのに気を使う。それは子供が大人になる際に社会に適応する第一歩でもある。

監督の川面真也はインタビューに「誰でも自分のことも相手のことも考えてると思うけど、相手を考えてると表現できるかが大事で。」と応えている。

哲学者ポパーによると世界は三つに分類される。

(1) 唯物論的、客観的な物質界
(2) 他人に伺う事の出来ない、個人の内面世界
(3) 社会という共通普遍性を持った心の世界

文化研究会の世界とは(3)の世界だ。
社会(ここでは学校と各家庭を指す)に合わせようとか、おかしな行動は控えようとか、変人に見られないようにしよう、という通念だ。通常、自己表現というのは(1)(2)(3)が統合して行われる。川面監督の指す「表現」とはこのことだ。
しかし文化研究会は(3)と捉えてしまっている。

(3)の世界では自分を情報と捉えていると変化した途端に自分が消えてしまう。情報は不変のものだからだ。それは死と同義だ。
存在しなくなる。丁度、ある情報に対して反証がなされ、それは間違った情報だと立証されるとその情報が存在できなるように。
伊織が一話から四話まで異常に怯えていた原因がこれだ。彼女は否定されつづけてきた。四、五、六話で太一にはじめて自分の存在を認めて貰うことで一応の精神の安定を計っている。

  • 「ヤリたい」という原初的なものより「情報」を優先させる「ココロコネクト

ココロコは身体よりもココロが優先されている世界だ。「ココロコネクト」という題名は伊達じゃない。
欲望解放編が始まって一番に注目されるべきは全員が訴えた「欲望が解放される前にこころの声が聞える」だ。
普通、基本的な欲望とは身体が支配するものだ。性的なものにしろ、飯にしろ、寝るにしろ。
その証拠にセックスレスで欲望が溜まると欲求不満になる。男性の場合は夢精というコントロール不可能な状況になる。
飯を食わないと身体が動かない。
寝るが一番わかり易い。薬で身体そのものをコントロールでもしない限り睡眠欲求が高まると、身体は勝手に寝る行動に移る。
そこに意識は介入しない。

だけどココロコの欲望解放では最初に心の声が聞える。欲望より心、理性が優先されている証拠だ。
欲望解放の徴候である稲葉の性的欲情にしろ、稲葉は「たまたまエロサイトを見ていたから」と告白している。
先に視覚情報に誘発されて次に身体が欲情している。
睡眠欲の太一でさえ、周囲によって起こされてしまう。
唯が駅で大立ち回りを演じたのも、義文が唯を連れ去ろうとする警官とモメたのも、感情が先行してからのアクシデントだ。
本来なら身体が有無を言わさず動いているべきだ。だけど先に「こころの声が聞える」

文化研究会のリーダー各である稲葉姫子は一番情報に長けている。一番理知的に振る舞う。
ネタバレになるので現時点では書けないが、近い将来彼女らしい選択を示す。
心というか脳や社会的精神世界をそのまま外に体現しているようなキャラだ。

体育会系の唯にしろ、優れた身体能力よりもトラウマの支配の方が強い。
太一と身体を入れ替えた時にキンタマを蹴られ、はじめて男性も自分と同じ一人の人間に過ぎないという思考を持つのは象徴的というより作品のバランスを崩す突発事故だ。この突発事故を引き起こせる太一に視聴者と唯は絶大な信頼を寄せる
このシーンだけ唯の身体が、脳と心、男性に対する情報を凌駕している

ココロコの世界ではは人格が入れ替わるにしろ個性と言うものを情報に還元してしまっている。各キャラが「個人=情報」だと信じているからだ。
でないと人格を入れ替えるという作業は行えない。僕が伊織をはじめココロコのキャラが「個性」を情報と捉えている、と書く根拠はここにある。「人格」は「情報(ソフトウェア)」だから誰の身体(ハードウェア)にでもマッチする
そしてソフトウェアはデータを書き変えれば中身なんか簡単に変更が出来る。そこには恐怖が存在する。個人情報が書き変えられたらどうなるか。性格を外部から書き変えられたらどうなるか。そんな映画「攻殻機動隊」「イノセンス」みたいなことは現実では有り得ない。
だけどココロコは人格交換現象と欲望解放現象で実現してしまった。
だからこそ人格入れ替わり編のラストで伊織が告白するシーンはひとつのクライマックス足り得ている。
自分の口で喋っていない。自分の身体で抱きしめているのでもない。だけどそういうことになっている。
意識だけの伊織が認知されている。「身体はともかくココロを優先しよう」というスタンスをとっている。

(3)を優先しているキャラたちの世界なので他人の中の自分が認知されればそれでいい。

  • ガチで売れ線を目指したからさらに心優先になってしまった「ココロコネクト

ココロコが身体より理性を優先するのはラノベやアニメという社会的なジャンルによる部分も大きい。
「ココロコ・人格入れ替わり編」の恐らくモチーフになったであろう映画『転校生』と山中恒による原作『おれがあいつであいつがおれででは露骨に身体に関する記述があった。人格が主人公と入れ替わったヒロインは立ちションが可能な男子を不思議がり、主人公は男より脆い女性の身体や生理に驚く。
稲葉も「オカズ発言」をする。だけどそれっきりだ。人格入れ替わり時、欲望解放時に発生して当然のポルノグラフィーを避けている

ラノベとアニメは社会的な存在であり、反社会なポルノグラフィー作品になると自然と質が落ちて社会からも蔑視される
商業的に成功するためにポルノグラフィーをメインにした作品を推すメディアファクトリーのMF文庫作品はラノベ読みの間で軽蔑されている。某元ラノベ作家もラノベのポルノグラフィー化を懸念して反発発言をした。

芸術といったものは元来が反社会的なものなんだけど、メディアミックスという社会に向けて発信する情報の前提が卑猥ではまずいということに世間ではなっている。
社会ではそういう行為は反社会的な行動だ。それは反権力的な行動よりも悪質とされる。むしろ個人で活動できる分、体制側がいないと成立しない反権力作品よりもタチが悪いものとみなされる。『ココロコネクト』という作品はそういう周囲との衝突を避けようとする「視聴者に支持されたい」とする実に優等生的な発想の作品だ。
だけど商売だから仕方ない。『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』が少女たちの自立だけを描いたのに一部の表現が反社会的ととられ、映像を差し替えたのと一緒だ。表現の為に表現を捻じ曲げられてしまうという本末転倒の事態を防ごうとしている。事実、前述した「転校生」も内容を知った出資元であるサンリオは「破廉恥」として出資を中止、映画は製作費用が危ぶまれた。

それ故に「ココロコネクト」はさらにココロという情報を先鋭化させる作品となっていく。

そして「視聴者に支持されたい」という制作サイドの際限のない心理は臨界点を迎える。話題作りに、某男性声優にココロコの存在しないキャラの偽オーディションを受けさせて、その後「ドッキリ」と打ち明け、広報声優に任命するという一連の流れを隠し撮りした映像をイベントで流したのだ。
これは騙された声優ともに業界周辺やファンを大きく騒がせた。

ココロコでも永瀬伊織が自分が愛されているかという不安を打ち消す為に自分が稲葉だと太一を偽り、本心を引き出そうとするシーンがある。

  • 「心」を情報として捉えている永瀬伊織の恋心は叶うのだろうか?

脳味噌が剥き出しになっている理性的なココロコはだから喋るシーンが多い
心や理性を最優先にしているからだ。
問題も話し合いで解決する。ふうせんかずらにしろ、身体能力が圧倒的なので唯の力技は通用しない。交渉はメンバー中最も理性的な稲葉の口語で行われる。コミュニケーションすらも身体を排除し理性のみで行う。
ココロコには走ったりする動のシーンが少ない。部室や教室、室内で議論する静のシーンが多い。
動いているのは脳と口、理性だけだ。

だけど言葉によって分かる範囲というのは「個性」じゃない。それは「理解」だ。
愛を獲得しながらも五話以降、伊織の不安の底がつきない部分はそこにある。
だから多分、伊織の愛は成就しないだろう。太一は伊織を「理解」し「肯定的に解釈」したのであって「伊織そのものを愛した」訳じゃない。このままいけば齟齬が生じる。
多分、作者も制作サイドもこのあたりの伊織と太一の齟齬には配慮している筈だ。

川面監督は心を優先に考えているタイプではなく、身体が個性と知っている監督だ。
インタビューで「キャラの人格が入れ替わった時に気をつけることは?」という質問に、
「セリフ以外でも走り方や仕草とかがちょっと違う、違和感が出るようには意識している」
と応えている。個性を身体で表現するのがベストと考えている。

ココロコにおけるネットや雑誌の話題が心理面に傾くのは理性的なメディアで議論しているからだ。
情報を情報で解釈しようとするからこうなる。僕もこの文章が書きにくい。どんどん観念の世界に引き込まれていく。
文化とは脳や理性を最優先にし、それらが快適に活動できるように開発されたシステムだ。「文化研究会」という部活動が活動拠点になっているのにはそれなりの理由がある。

  • 永瀬伊織を自衛隊に放り込んで鍛え直そう計画

このアニメは傑作だけど、一番の問題点である鬱描写が浮き彫りになってしまうのは女性キャラが「男っておしっこした後にトイレットペーパーで拭くものなの?」とか男性キャラが「女のあそこってなんかすげえけど、身体はさらさらでふわふわだな」といって笑い飛ばせない、不謹慎さを避けた優等生的な所にある。ラブコメというジャンルでありながら、バカなお笑いがないのは理性キャラばかり集まっているからだ。
キンタマを蹴り飛ばしたり、いきなり抱きついて告白するようなバランスを崩す場面が沢山あれば、もっと面白い作品になったかもしれないと思う。

戦争映画において鬼の上官が新兵をいじめる場面で僕たちが戦慄を覚えるのと同時に笑ってしまうのは、酔狂でもなんでもない。
WORKING!!』の伊波が微笑ましいのも、『ゆるゆり』のあかりが無人駅で独語する「うすしお大好き!」に失笑するのにも、『図書館戦争』の野営シーンで笠原が草藪の中で大便を排泄する時に周囲の目を気にするところにニヤついてしまうのにも理由が存在する。
ここでは人格は無視され、身体だけが無茶苦茶に扱われているバランスの崩壊が生じているからだ。

よく一部の文化人が「徴兵制度を復活させろ」と発言するのは、伊織や唯、稲葉のような心と体が分離した人間を文武両道の世界で矯正できると無邪気に信じているからだ。戦争が仕事である軍隊は身体と精神を合致させないと成立しない職業だ。
だけど軍隊は人格を無視し、身体だけを無茶苦茶に扱ってきた過去があるからその提案には疑問符が残る。

それだけ伊織は現代社会において普遍的な存在だ。別に珍しいキャラでもなんでもない。

  • 永瀬伊織とは何者なのか。

永瀬伊織というキャラが登場するココロコのシュチュエーションにこそ注目すべきだ。
京アニの「けいおん!」キャラデザの堀口悠紀子ことココロコのキャラデザ白身魚はインタビューで、
「永瀬伊織は一番のトラブルメーカー」と応えている。
現代に生きる永瀬伊織はあなたであり、僕だからだ。
永瀬伊織をはじめとする文化研究部のメンバーは新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクター達との類似点が多い
心と精神を扱いながら議論するポイントは変わっていないからだ。
「ココロコ」は昏い心理描写が外面に剥き出しになるという点において「エヴァ」の影響を受けた作品だ。
エヴァ」の日本と前後してUKではレディオヘッドがUSではナイン・インチ・ネイルズというバンドが若者に爆発的な支持を得た。
どちらも主題は「エヴァ」と同じ、昏い心理描写を外面に叩きつける音楽だ。

永瀬伊織とは90年代作品のフォロワーだろう。
1991年においては士朗正宗の「攻殻機動隊」という80年代の影響を受けた作品が生まれた。
2012年において「ココロコネクト」という「まどマギ」に続く、90年代の影響を受けた作品だ。

  • この感想を書き始めた時は件の事件はまだまだ水面下だったが、現在、すごい勢いで拡散している。スタンピードが強烈で関係者を擁護しようが罵倒しようがネガティブキャンペーンにしかならない状態だ。制作サイドもファンも誰も得をしない。ココロコラジオは停止し、ニコ動ではファンの叩きが異常だ。作品に全く関係のない完全に外側の部分だけで制作サイドが騒がれるというのも「エヴァ」以来だ。余計なことまで影響受けなくてもいいよ!

新潮選書 身体の文学史

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